九、ブリッジキックマン その四
「ついにやったな!」
興奮気味な声で、私は目覚めさせられた。
場所は校庭のまま。ただし、太陽が薄っすらと顔を出している。
「言いたいことは山ほどあるんだけど。やめとくわ」果物ナイフが机の引出しにあることなど、教えてほしかったことはたくさんある。「花子を消したんだから、ちょっとだけでも現実の世界を見せてくれない?」まずは単刀直入に要件を突き出す。
「おまえ、しつこいな。あとひとつ人格を消せば見せてやると言ったはずだが?」
訊き返してくるブリッジキックマンの顔に、不快感が浮かぶ。
「私はこれ以上人格を消さない。だってそうじゃない?あなたが私に現実の世界を見せる前に、死んでしまうかもしれない」
「もちろんその可能性はある」ブリッジキックマンは狡猾な目つきでこちらを見詰める。「互いリスクはつきものだ」と私の要求をにべもなく突き返す。
「そのリスクを払って、花子を消したんじゃない」
「おれは二番目の人格が生き残ってもよかったんだけどな」
「あなたは自分の手で私や他の人格を消すことができないくせに、生意気言わないで」
そもそも私達を消せるなら現実の世界で多重人格になっていないはず。
「おねだりがうまいな」
単調な言い方でも苛立ちが滲んでいるように感じる。
私は机の引出しの中に両手を隠していた。
果物ナイフが入っていないか左手で探ってみる。手応えがない。無いことは予想できた。ブリッジキックマンが自ら危険な目に遭うものを置いとくわけがない。けれど私の右手には果物ナイフ。花子が投げたやつを探して握ったまま目覚めるのを待っていた。もちろんブリッジキックマンはこのことを感じている可能性もある。
「いくよ」
相手にこれから攻撃しますよ、と教えるようなものだけれど、私は意識して掛け声をかけ、果物ナイフの先を向ける。ブリッジキックマンに寛大にも譲歩するチャンスをあげた。
「わかった、わかった。病弱なおれをそんなにいじめるなよ」
苦笑いで逃げようとするブリッジキックマンは、本当に蛇の皮をかぶったペテン師だ。果物ナイフを見ても驚きもしない。
「早く現実の世界を見せてよ」
「一時間くらいが限界だぞ」
「十分よ」
「現実の世界で余計なことするなよ」
「例えば?」
「犯罪をされると後々厄介なことになる」
「どうせ残り少ない命なんだから、別にかまわないじゃない」
悪戯っぽい笑みを浮かべてみた。
「それもそうだな」ブリッジキックマンはヤケ気味に愛想笑いをする。それからペロペロ舌を出してから「ちょっと待ってろ」と私に指示する。
それから間もなくすると、私は気を失った。
★
★
★
心地よい揺れを感じる。
揺りかごみたいな揺れで、深みへと誘う。
瞼を持ち上げると、夜景が広がっていた。経済発展を自慢するかのように高層ビルや複雑に入り組んだ道路、無駄なくらい人工的な光源が散りばめられ、大きな川に横たわる橋にも隙間なく車のライトが並密集して、幻想的な天の川を演出している。
ブリッジキックマンは病弱だから、病院のベッドにでもいるのかと思っていた。でも、違っていた。小さな部屋の中を照らすのはブラックライトの怪しげな光。窓が鏡代わりに反射して私の姿が映る。
目を凝らしてじっくり観察。
これが沢木 京?!
高校生ではないけれど、それほど歳はとっていない。二十歳くらいで、しかも男じゃなく女の子なのはラッキー。髪形は刈り上げに近いベリーショートで、眉、目、鼻、口、顎などの顔のパーツが細くて鋭利に尖っている。美人ではないけれど、シャープな顔つき。
京という名前は女の可能性もなくはないし、私が成長した場合の想定範囲内の顔ともいえなくもない姿。
このシチュエーションで向かい側に恋人が座っていれば文句はなかったけれど、目の前に座っているのは中年のおっさん。出っ張っている腹にロープが食い込んで手を縛られている。怯える目で私を見詰めている。お人好しでがんばっても出世は課長くいらいまでで、二人くらい子供がいそうだ。仕事終わりにビールを飲むことを一日の楽しみにしている典型的なおっさんにしか見えない。
「お、おれを……どうする気だ?」
中年のおっさんに尋ねられても、答えに困った私はため息をつき、下を向く。 なんと私の右手にリボルバーが握られていた。
銃を眼の高さまで持ち上げてみる。ずっしりと重いけれど、こんなもので人が死んでしまうのかと思うほど重量感はない。リボルバー側面のサムビーズを前に倒しながらシリンダーを倒す。五つの穴に三発のカートリッジが残っていた。銃口に鼻を近づけると火薬の臭いがした。
二発は撃ったということになるのだろうか?
シリンダーを静かに閉じた。生まれてはじめて銃を扱うはずなのに、手慣れている感じがする。
状況としてはあまり好ましくない。
「あなたと私はどうして仲良く観覧車に乗ってるのかな?」
頭の中を整理できず、訊き方が独り言のようになる。
「き、君が、銃で脅して、こ、ここ、ここまで、連れてきたんじゃないか」
中年のおっさんはなんとか言葉をつなぎ合わせて教えてくれた。私にかなりの恐怖心が宿っているみたいだ。
「う~ん、私、記憶がないのよねぇ~」
口調も優しくて警戒心を取り除く。そうでもしないと会話が成立しそうもない。
「だったら解放放してくれ」
か弱い女の一面を過剰に演じてしまったのか、中年のおっさんが急に強気になる。
「そうはいかないわ。あなたが何者かも知らないし、まず、こんなところにいる経緯を教えてもらえるとありがたいわ」
銃口を向けて態度で脅してみた。アメの次はムチで反応を確かめる。
「一時間前に仕事帰りの道で、君が突然銃を背中に押し付けてここまで連れてきた」
不安を吐き出すみたいに早口で捲し立てた。
「ふ~ん」
「頼む!私には家族がいるんだ。逃がしてくれ」
中年のおっさんが頭を下げる。縛られていなかったら、土下座する勢いだ。
「私があなたを拉致しなければいけない心当たりはある?」
「知らない、心当たりなんてない」
妙に力を込めて否定してきた。
「あのね、何もない人間を拉致るほど、私は馬鹿じゃないと思うんだけど」
「そ、そんなこと言われても……」
中年のおっさんが視線を意識的に逸らせた。嘘を言っている。
「あなたの名前は?」と尋ねてもとぼけて無視するので、私はポケットをまさぐる。手触りがよくて、かなり高そうな生地のスーツを着ている。内ポケットから革の財布と名刺入れを抜き取る。「これあなたの名刺よね」
私が見せたのは成金趣味の金ピカの名刺。十数枚入っているので、たぶん中年のおっさんのものだろう。裏側にケータイ番号とメールアドレス。ひっくり返すと名前は……沢木 京?!
「これ、あなたの名前?」
名刺を目の前まで突き出して確認させると、中年のおっさんは怯える目で私を見ながらうなずく。
ここは本当に現実の世界なのか疑いを持った。私が沢木 京じゃないとおかしいはず。
中年のおっさんが沢木 京だとすると、私は何者?ブリッジキックマンは沢木 京が本名だと言っていたのは嘘?同姓同名が存在する理由はここがまだあいつの精神世界だからなのだろうか?
私は秋物の薄茶のロングコートを羽織っていて色々ポケットを探しても身分証や財布も持っていない。
「私の名前知ってる?」
無駄なような気はしたけれど、念の為に訊いた。
縛られている中年のおっさんは首を小刻みに横に振り「じ、自分の名前がわからないのか?」と震える声で尋ねてくる。
馬鹿にされている気がして腹が立つ。
「ひょっとすると私も沢木 京という名前かもしれないわね」
仕返しに銃口を中年のおっさんの顎の下からしゃくり上げて、視線が合うまでもっていく。
「は、は……い」
中年のおっさんが何のために返事をしたのかよくわからないけれど、ご主人に服従する犬みたいな感覚で返事したのだろう。
ゴンドラが緩やかに下降をはじめる。すると、赤い光が射し込んできた。下を見るとパトカーが停まっている。しかも一台だけ。
「まさかあなたが呼んだんじゃないでしょうね?」
「携帯は君に壊された」
中年のおっさんの視線が足元へ。携帯が粉々になって散らばっていた。
「謝りはしないわよ」
私に冷たい言葉を浴びせられた中年のおっさんの体は小さくなっていく。私はかなり性根が悪い。ここでは殺し屋なのかもしれない。
「乗るときに係員はいた?」
「もちろん」
「早くしゃがみなさいよ」
ロープを掴んで中年のおっさんを乱暴に床に落とす。座席より上に頭を上げないようにした。
係員はすでに、警察から私と中年のおっさんの特徴を聞き、どのゴンドラに乗っているのかも承知しているはず。
ゴンドラが一番下に差し掛かる。
予想どおり、覗いてきたのは警官。蝶番を破壊して思い切り扉を蹴り、中年のおっさんを盾に、ゴンドラから降りた。
警官が腰の警棒に手を伸ばす。最初から銃を構えていなかったということは、私が危険人物だとは認識されていないようだ。
「動かないで!」
係員三人と警官二人に囲まれ、大声で動きを制止させた。
「冷静になれ」
髭を生やして少しお腹の出ているベテランらしき警官が、両手を上げて武器を持っていないことをアピールする。もう一人の警官は若く、一歩退いたところで先輩を見守っている。
「私、何したの?」警官に聞けば何かわかるだろうか?と思って訊いてはみたけれど、逆に尋ねられても困るみたいな顔をされた。「だから、私がどうしてこんな男を人質にしているか誰か教えてよ」さらに念を押してみる。
「こっちが聞きたい……」
警官が独り言をもらす。怪しい二人組が観覧車に乗ったという情報を係員が警察に伝えて、とりあえずパトカーで様子を見に来た……ように感じる。
「下手なまねすると撃つからね」
中年のおっさんを引き連れてゆっくり離れる。ゆるやかな曲線を描く舗装された歩道が延びている。若い警官が肩に装備している無線を外して口元までもっていくと、何やら報告をはじめた。応援を呼んでいる。
中年のおっさんの襟を掴んで引っ張っていく。
等間隔に配置された街路灯の明りを頼りに進む。途中に案内図があって、歩いている道が公園を背骨のように貫いていることがわかった。公園は『森林公園』とまで文字が確認できても残りは日焼けして読み取れない。もっと場所を特定したかったけれど、大半の文字が消えていた。
森林公園というほど木が密集しているわけじゃなく、膝丈くらいの草花が一面に敷き詰められ、木々の間が離れている。舗装された道を外れても隠れる場所がない。早く公園を出て街の雑踏に紛れないといけない。
「早く歩きなさいよ!」
わざと下半身に体重をかけて拒もうとするで、背中に銃口を強く押し当てる。
ガサガサッと、草花が自然に揺れる音。
もう囲まれている?!
釈然としない気持ちのまま、警戒心を張る。
足を止めて息を潜めた。
黒い影が茂みから飛び出してきて、即座に銃を構える。
「ニャ~」とこっちを威嚇しながら黒猫が横切った。
舌打ちをして、撃てる機会を失ったことを残念がる。
内心はドキドキだ。
一瞬気を緩めてしまった。
その隙を狙っていたかのように、地面に這って草木に身を伏せていた武装集団が一斉に立ち上がり、行く手を阻む。さっき無線で呼びかけたばかりで、魔法でも使わない限り時間的にありえない移動手段。
納得できない出来事が積み重なる。
ひょっとして詰んだかな?
切迫した緊張感よりもなぜかお気楽な気分に支配されている私。
中年のおっさんのこめかみに銃口を当てた。見えやすいようにわざとカチャカチャ音をさせながら強く押し付けた。
「本当に撃つわよ」
人質を盾にする作戦は精神的にジリジリとした状態が続くことを覚悟しないといけない。
距離を空けて黒い集団がゾロゾロ付いてくる。
全員がグロックを構え、頭にヘルメット、防弾ベスト、ポリカーボネート製の防弾盾のフル装備。公園の外へ出られる進路方向はふさいでないので隙はある。
わざと道を空けているのだろうか?
公園の出口が見え、都会のごく有り触れた喧騒が待っていた。
パトカーや武装した車の姿がなく、代わりにタクシーがドアを開けて待機しているのを発見。運がこちらに傾いていると思うより、罠だと考えるほうが妥当な状況。
それでも私は中年のおっさんをタクシーに押し込み、自分も乗った。
この緩くて優しい波に乗るしか道は用意されていない気がする。
タクシーの運転手は週刊誌を呑気に読んでいた。
とりあえず銃を向ける。
「できるだけ遠くへ行って」
「は、はい!」
雑誌を助手席に放り投げ、タクシーは急発進。
よほど脅しが効いたのか、スピードを出して赤信号に変わる寸前の交差点を突っ切る。
パトカーが追ってくる気配もない。
その後は青信号が続き、スムーズに流れる。
「あのーひょっとして指名手配されている沢木さんですか?」
運転手から思いがけない言葉が飛ぶ。
「どっちの沢木?」
「えっ?」
「二人とも沢木っていう名前らしいのよ」
「あなた、週刊誌に載ってるよ」
運転手が私をチラ見してから視線を左下に落とす。
「早く取って」
中年のおっさんに命令して、無造作に奪う。
「何ページ?」
週刊誌を捲りながら訊く。
「え~と、真ん中くらい……だったかな」
アバウトすぎるヒントにいちゃもんをつけてやりたくなる。
ページを捲っていくと『花の名前連続殺人犯がまた警察から逃亡』という見出しの記事に、私の顔写真が載っていた。意識しなくても自然と記事に目が走り出す。要約すると、花の名前がついている人物を無差別に六人も殺した沢木 京(32才)の逮捕から逃亡にいたる経緯が記されている。どうやら世間に知れ渡っている逃亡犯らしいのだが、どこでどうやって取り逃がしたのか具体的に書いていない。全体的な内容は警察を非難するもので、責任は免れないとの見通し。
けれど、ここで疑問なのは、中年のおっさんが私の事件のことを知らないというのは筋が通らない。同姓同名なのだから事件に関心を抱かないのはおかしい。
「あなた嘘ついたわね」
週刊誌を顔に叩きつけてやると、中年のおっさんが何か言い訳をしようと口を開けたが、銃口をねじ込んでやった。嘘しか言えない口はふさぐしかない。
トリガーを引く。カチッと鳴った音は死刑宣告に等しかったはず。
中年のおっさんが首を振ってまだ否定しようとする。銃口をさらに奥まで突っ込んで大人しくさせる。
「そんなに死にたい?」声を低くして尋ねると、僅かに首を横に動かして死にたくないと意思表示をしてくる。「あなたの使い道が不明だわ」と言って銃を口から抜く。銃口についた涎は中年のおっさんのスーツで拭き取った。
こんな中年のおっさんを誘拐してきたのは、それなりに利用価値があるんだと思う。しかし、お荷物になりそうな予感もする。
殺そうか、生かそうか、悩ましい選択肢に苛立ちを感じはじめた隙を縫うように、急ブレーキをかけられて助手席におでこをぶつけた。
「何すんのよ!」
荒っぽく憤慨する半面、検問でもやっているのかと前方に目を凝らしても、真っ直ぐ伸びている道路に進路を妨害するものはない。
運転手が腕を水平にさせて指をさす。
何度見ても障害物らしきものはない。ただ、街灯が奥にいくごとに減って闇にはなっているだけ。
「何かあるの?」
私が感情を抑えて尋ねても運転手は腕を伸ばしたまま。顔が青ざめている。気持ち悪くなった私は外へ出て、中年のおっさんを車から引っ張り出す。
「もし逃げたら撃つからね」
お金を払う代わりに運転手に脅しをかけて離れた。もしものときのために逃げる保険は残しておく。運転手からの返事はない。
両側に高層ビルが建ち並んでいるのに、どこの窓からも明りがもれていなかった。まるでゴーストタウン。対向車が一台も走ってこない。
運転手は蝋人形みたいに固まっている。
現実世界で暮らす人間の振る舞いには見えない。
「なんか変だ」と中年のおっさんは年甲斐もなく震えている。
その様子を見た私の心は悪戯っ子みたいに、他人が嫌がることへと傾く。
「行ってみましょうよ」
背中を銃口で何度も突いて中年のおっさんを先に歩かせた。自分の目が狐のように細くなっているのを想像できる。
歩いていくにしたがって、奥の方がどうなっているのか見えてくるはずなのに、闇の濃淡の境目がない。街灯も途中からなくなっているようだ。
「えっ?!」
「あっ……」
声を揃えて驚いてしまった。
道が切れていた。工事中の標識などはなく、巨大な鋭利な刃物、異性人が乗ってきた宇宙船からの攻撃でスッパリ、淀みなく一直線上に切られたみたいに見える。道路だけじゃなく、建物や景色そのものが切り取られ、向こう側は黒い闇で常識的にはありえない異次元空間の闇の境界線が広がっていた。
しばらくすると白いモノが浮かんでくる。
「数字……か」
中年のおっさんが闇の中を覗き込んで言う。真っ暗な空間に0と1の白い数字がくっきりと不規則に黒い闇を漂いながら浮かび上がってくる。0と1の数字は下にいくごとに小さく、かなりの深さがありそうだ。
「ちょっと待って、どうして数字だってわかったの?」
「す、数字にしか見えないだろう」
「私には楕円形と真っ直ぐな棒にしか見えなかったけど」
「そんなこと言われても」
「たったいま一番近くまで浮かんできた『1』の左下から右上の斜線を確認できなければ数字だなんてわからないはず」
「いや、その」
「0と1の数字は2進数。ここは仮想空間……なわけないか……蛇の皮を被ったブリッジクックマンが創った偽りの世界にまだ私はいるわけね」
私は銃を構えた。
「お、おい、早まるな。おれは何も知らないんだ」
「あっ、弾がもったいないか、バン!」
銃声を幼稚に真似た擬音だけで、中年のおっさんは後ろの黒い世界に片足を滑らせ、バランスを崩した。私はそれを見逃さず、もう片方の足を蹴る。叫び声を上げる暇なく、中年のおっさんは掃除機に吸われるように黒い闇の底へ落ちていく。
しばらく様子を見ていても、浮揚する数字にこれといって変化がない。と思われた。それまで自由気ままに漂っていた0と1の数字が、生き物みたいに忙しく動きはじめる。予期しなかった出来事にうろたえる昆虫の群れを連想させる。しかも中年のおっさんが落ちた地点を中心に渦を巻く。闇の世界が動揺している。
騙された。現実の世界をひと目見たいという願いを踏みにじられた。
羽音が脳内から響いてくる。久し振りにスズメバチが湧いてきた。花子を始末すれば消えると思っていたスズメバチ。これを利用しない手はない。この精神世界を破壊するくらい暴れるとブリッジキックマンは何らかのアクションを起こすはず。中年おっさんを闇に落として変化があったのは、困っている証拠。
スズメバチが私の脳を突く。体内が熱くなるのに、それほど時間はかからなかった。自分でもかなり頭にきているのがわかる。熱が充満していく。どれくらい溜めてから力を解放すればいいのか加減なんてわからない。
地鳴りがして地面にヒビが入る。縦横無尽に亀裂が走り、細かいアスファルト片や土の塊が空中に浮き始めた。私の怒りを地球が表現してくれている。超能力者になった気分。優越感に浸れた。これは癖になりそうな気がする。地球の残骸を次々剥がして空中に浮遊させた。
「ここが現実の世界じゃないことくらい、わかってるのよ!」
大声で叫んでみた。こっちが必死で呼びかけているのに、相手が無反応なのは余計頭にくる。一気に怒りが沸騰点に達して、頭の中が真っ白になった。地面が揺れていると思っていたら、自分の体じゃないみたいにふらついている。
怖くなってきた。このままだとブリッジキックマンにダメージを与えるよりも、自分の身を先に滅ぼし兼ねない。力の使い方のバランスが悪いみたいだ。ここはいったん冷静になって違う方法でアプローチしないといけない。
落ち着け、と心を整える。
大人になった私なら感情をコントロールできるはず。脳内のスズメバチを退治しないといけない。そんなに簡単にいかないのは自覚している。私の数少ない過去の記憶から知恵を振り絞らないといけない。私は思考をセピア色に変化させ、記憶からヒントになるようなものを検索する。
冷たい水を飲んだとき、冷静になれた。
スズメバチが冷たいものが苦手?というヒントになるような記憶があったはず。お父さんと日曜日の午後にTVで見た古い映画を思い出した。殺人バチが人間を襲うパニック映画。ラストは車に張り付いた殺人バチを引き連れてドームのアメリカンフットボール場で室内の温度を下げて殺人バチを死滅するストーリー。その映画で室内温度がマイナスになると車についていた殺人バチが砂のように落ちていった。
ここがブリッジキックマンの精神世界なら私の記憶も偽りの記憶なのだろうか?
いや違う。
なにか切っ掛けになるものがなければ、私の記憶も創れなかったはず。
私の幼い頃の記憶はブリッジキックマンの記憶そのモノ。
スズメバチを使って異次元的な発想を具現化できるということは、大人になった私は新たにできた第六の人格じゃなく、ブリッジキックマンが第一の人格を利用して創った世界に違いない。
感情をうまくコントールできればなんでも可能な世界。
冷却スプレーの気化速度を利用したマイナス四十度の噴霧を創造して、スズメバチを殺傷していく。亡骸がボタボタと落下して粒子になって消滅。同時に体内の熱が下がるのがわかる。
ガクッと片膝が落ちた。肩で息をしている。安堵して力が抜けたかもしれないけれど、思ったよりも体にダメージが残っている感じがする。危なかった。スズメバチはしばらく使わないほうがいい。無駄にエネルギーを浪費しなくても、ブリッジキックマンが現実の世界で薬を飲むまで待てば、自然にここからは抜け出せそうな気がする。
スズメバチを脳内に創造させたのは私のミス。ただ、腹の虫がおさまらない。よくよく考えてみれば、数字が浮かぶ闇に中年のおっさんを落として変化があったのだから、ブリッジキックマンと直結している可能性がある。
一か八かの賭けだけれど、面白いことが起こるかもしれない。
銃を構えた。
果物ナイフ以外の武器があるのに、宝の持ち腐れになってしまうところだった。
ハンマーをフルコックの位置まで引き下げた。1よりも0の方が当たりやすそうだ。リアサイトの凹型の溝にフロントサイトの凸型を一直線に揃える。ごく自然にサイティングの体勢に入っていた。タクシーの運転手が持っていた週刊誌の内容は嘘じゃなさそうで、トリガーを引くことに迷いはなく、過去に人殺しをしているのは間違いなさそう。ただし、ブリッジキックマンが考えた設定なはず。存分にその腕前を利用してやる。
トリガーを引く。
火薬の臭いがして銃弾が発砲されたはずなのに、命中した音が聞こえてこない。でも、目を凝らすと、0と1の数字が渦を巻き、回転を始めた。中年のおっさんを突き落としたときと同じ現象かと思っていると、地響きが起こったのが数秒後。空気の破裂と膨張、絶縁破壊などの雷に匹敵する音。
さらに、車のエンジン音が紛れるように耳に入ってきた。
振り向くと、タクシーが十メートル先まで迫っている。
運転手の顔は無表情で、それがかえって怖かった。
避ける時間がない。
タイヤを狙って撃つ。
破裂音がしてタイヤが外れ、傾いた車体を道路に擦りつけながら火花を散らす。横滑りのあと、切断されている道路に半分はみ出して停止した。車の底だけが道路の端と接触して、微妙なバランスを保って揺れている。少し押してあげれば闇へ転落するだろう。
銃を構えながらゆっくり車に近づく。
運転手はハンドルに顔を埋めていた。息はしている。助手席のドアを静かに開ける。写真付きの身分証を見て驚いた。名前が沢木 京となっていた。ここは完全に私を惑わすために大人の沢木が創った虚構の世界に間違いないと確信。
運転手がムクッと起きて顔をハンドルから離した。そして、血でべっとり濡らした顔を私に見せる。
「そのゾンビみたいな動きで、私を怖がらせたいの?」
思わず首を傾げてしまう。つまらないブリッジキックマンの演出だ。何をしたいのかさっぱりわからない。
「まったく……馬鹿にしてるわ」
大人に成長している私は冷静さを見失うことなく、冷酷さと非情さを持ち合わせていた。車体を後ろから押す。片手の力だけで簡単にあっさりとタクシーを落とすことができた。
イメージして具現化される速度が速い。
本当に便利な世界。
それだけブリッジキックマンの力が弱くなっている証拠かもしれない。
私は貴重な弾をもう一発使った。また移動することになれば、銃なんて貴重な武器を所有させてくれるわけがない。
カン!と車体に弾が命中した乾いた音がして、燃料のLPGという液化石油ガスに見事に引火。そして瞬時に爆発。タクシーは炎に包まれて、最後は赤い小さな点になって消えた。
「遊びはこれくらいにして、早く薬を飲んで私に会いなさいよ!」
地声を響かせて叫ぶ。
返答はすぐにやってきた。
★
★
★
私は校庭で気を失っていた。
体をチェックしてみたけれど、傷も痛いところもなかった。制服を着ているから容姿は高校生に戻っているみたいだ。
法則のように机があって、習慣のように机の中から果物ナイフを取り出す。銃は見当たらない。いままでと違うのは、さっきより天気が悪くなっている。雲が厚くていまにも泣き出しそうだ。風が吹き、雲が流れ、隠れていた太陽が現れた。射し込んだ日差しが倒れているブリッジキックマンを照らす。死んではいないだろう。そうなればこの精神世界は崩壊して、私の存在は消えている。
罠かもしれない。
何をしてくるかわからないので、スローな動きで様子を探りにいく。僅かに動いて呼吸はしている。攻撃できる体力があるとは思えない。
それまで果物ナイフの先端を向けていたけれど、右腕を下げた。
「ずいぶん、疲れているみたいね」
「み、惨めな姿だろ」
私が話しかけると、大人の沢木は深いため息を吐いてから視線を上げた。顔を持ち上げる体力もないくらい消耗している。
「私はいったいどこへ飛ばされていたのかしら?」
果物ナイフの刃の側面でペチペチ自分の太腿叩きながら睨む。
「まだ、おれに、質問してくれるのか?おれの言葉を信用できるのか?」
ブリッジキックマンが苦笑いを浮かべて訊いてくる。
「信用なんてはじめからしてないわ。能書きを聞いてあげるだけ」
気の毒なくらい弱っている相手に、とどめを刺したくてしょうがない。
「能書きなら聞いてくれるのか」
「さっさと話しな」
喋り方が男っぽくなっている。というよりさっき二十代に成長している殺し屋っぽい自分を引きずっているみたいだ。
「最後の体力を使って生意気なおまえに意地悪したのさ」
「あっ、そう」
相手にするのが馬鹿らしくなってくる。
「現実の世界を見せてやるつもりが、失敗してしまった」
「言い訳はもういいわ」
「本当に……邪魔が入ってしまって予想外の出来事が起きた……んだ」と言ってからガクッと首が垂れた。まだ息はある。
「別の精神世界を見せるように、私がお願いしたの」
振り向くとエリカが立っていた。いつからそこにいたのかまったく気づかなかった。雰囲気が変だ。血の気が引いた顔で、私と視線を合わせないように横を向く。男の子の沢木はエリカの後ろに隠れてスカートを掴んでいる。
「あのお姉ちゃん怖い」
「あんなくだらないモノを見せるように、お願いしたってこと?」
エリカがブリッジキックマンからお願いできるような強みを持っていたということになる。俄かに信じられない。
「ごめんね」
エリカは謝るだけ。しかも顔が強張っている。
「殺されそうになったんだけど。私が邪魔になった?でも、私が直里を消したことを非難しといて、自分はいいんだ」
「ごめんね」
「謝ってすむと思っているの?現実の世界へ行く切符を独り占めしたくなった?」尋ねてもエリカは答えない。答えられないのかもしれない。視線を泳がせて質問から逃げた。「黙っているということは、エリカも現実の世界に行きたいんでしょ?譲ってあげるわよ。私を消して行けばいいじゃない!」
じれったくて不満が爆発。本心はまったく逆のことを言ってしまう。現実の世界をひと目見て傷跡を残したいという想いが、胸の中を駆け巡って離れない。ブレてはいけない核となる部分。これを失うと私の存在自体がブリッジキックマンの完全なコピーになってしまう。
「勝負しようよ」
傲慢な態度を晒す。このブリッジキックマンが創った世界で、楽しみも希望もない。絶望しか残されていない世界で、唯一の光が現実の世界へ行ける生身の人間を手に入れチャンスだけ。
数分間待ってもエリカから答はない。それどころか完全に後ろを向いてしまう。露骨な拒否反応。イライラが募ってくる。
「エリカには勝負なんて、できっこないか……ブリッジキックマンとなにがあったのか、説明する気もないの?」私はエリカの沈黙に負けそうになった。挑発したところで無駄なことはわかっている。「背中を向けていても容赦しないよ。刺すよ」と言うと筋肉が硬直した。本当に刺せるの?と自分の体に再確認されている。エリカに躊躇うように操作されている感じもする。あえて背中を向けて殺意を阻害させる作戦かもしれない。
「行くよ!」
邪念を振り払い、果物ナイフの刃先を向ける。
こっちを見て少しは抵抗してよ、エリカ!
心の叫びを抱いて踏み込む。
そのとき、エリカの陰に隠れていた男の子の沢木が、白い歯を出したのを私は見逃さなかった。口元だけが薄く歪んでいた。子供らしさなんて微塵も感じない微笑み。すぐに違う創造を上書きする。でも、時間が短すぎた。感覚として、果物ナイフが軽く背中に当たるくらいの修正を試みた。でも、力を弱めるだけだと、結局はエリカを傷つけてしまう……果物ナイフの刃がエリカに深く吸い込まれていく。
「ふっ………………ふ…………ふふふ……ふふふふふ」うずくまって倒れたエリカの後ろにいた男の子の沢木は腹を抱えている。「あはははははははぁ………」と仕舞いには仰け反って大声で笑いはじめた。
「何がそんなにおかしいの?」
脳内に焼き付いてきそうな笑い声が不快で、子供相手に睨んでしまう。
「僕が何もしなくても、他の人格が次々死んでくれるんだから、こんな楽しいことないじゃないか」と言ったあとも男の子の沢木は語尾に笑いを足す。
「容姿は子供でも性格が腐っているところは同じなのね」
「へぇ~意外と冷静だね」
「何が?」
いまさら性格分析されたところでうれしくもない。
「親友を殺したのに、平気なんだねってことさ」
男の子の沢木は屈辱的な言葉を浴びせたつもりなのだろうけれど、私は痛くも痒くもなかった。
「殺してないわ」
男の子の沢木が、えっ?と間の抜けた顔になる。
「咄嗟に果物ナイフの刃をバネ仕掛けのおもちゃにしてみたけど、なんとか成功したみたいね」果物ナイフの先端を指で押し、伸び縮みさせながら柄の中へ刃を引っ込ませた。「プラスチックじゃなく本物っぽく見せるためにステンレス製にしたんだけれど、ちょっとバネが思ったよりきつかったみたいね」
エリカは刺されたと勘違いしたみたいで、視界に入らない背中を見ようとしている。果物ナイフはある程度自在に操れる自信はあった。運が良かったというより、私の能力の賜物。
「ふ~ん、そういうことか」男の子沢木はなにもかもわかったような顔をしてうなずく。「僕は二人に裏切られたわけだ」
「二人?私の独断でやったことよ」
「意外と友達想いなんだね。でも、エリカお姉さんはすでに僕の味方だよ」
私がエリカを庇ったと思い込んでくれていようが別にかまわないけれど、すぐに落胆させるようなことを言ってくる。
「味方というより、脅してるんじゃないの?」
小さい子供が脅すなんて固定概念はすでに私の中では排除している。
「観覧車に乗っている間に僕とエリカお姉さんの空気感が変わったことを見抜いたんだね」
「見抜いたというより感じたのよ」
自慢話のように口を滑らせてしまい、言ったあとで恥ずかしくなる。
「このお姉さんを助けたいの?」
男の子の沢木は校庭の土を蹴った。そして私に向かって細かい土の粒子をばら撒く。
「今の……」
瞬きしている間に、男の子の沢木はエリカの隣に立っていた。
「瞬間移動が僕の武器だよ。子供らしい発想でしょう」
「物理的な武器を選ばないなんて、確かに子供らしいわね」
「馬鹿な大人には浮かばないアイディアでしょ」
男の子の沢木は子供らしからぬ口調で言う。
「あなたの目的も現実の世界を見ることなのかな?」
「当然でしょ」
「そうよね」激しく同意したあと「こいつに何かした?」とブリッジキックマンを気に掛ける。オリジナルの人格が消えてしまえば、この精神世界は消えて現実の世界に行けなくなる。
「さぁ、どうかな」
男の子の沢木は小首を傾げて微笑む。なぜ余裕でいられるのかわからない。消えてなくなるという認識が薄いのだろうか?
「ねぇ、まだ生きてるんでしょ」
私は後退りしながらブリッジキックマンの体を足のつま先で突いて揺らす。
「うぅ~」と苦しそうに呻く。意外と元気そうだと思うことにした。
「僕に現実世界へ行ける権利を譲ってくれないかなぁ~」
男の子の沢木は後頭部で手を組んだ。お願いする態度じゃない。
「権利なんてもう意味がないと思うけど」
子供でもわかることなのだが、もう力づくでしか権利はない。
「自分から消える気はないんだね」
男の子の沢木が残酷な笑顔で目的を告げた。
「同じ目的でも坊やとは共有できないみたいね。あっ、共有って意味わかるかな?」
挑発して宣戦布告をしてみたけれど、相手は瞬間移動なんて異次元の戦いを仕掛けてくるから勝てる見込みなんてない。私の言葉は強がりにしか聞こえないだろう。
「僕の出る幕はないよ」男の子の沢木は横を向いて戦意を消す。「お相手してあげてよ、エリカお姉さん」
エリカが目を見開き、首をせわしなく横に振って拒否反応を示す。
「二人で協力して一番目の人格を殺さないと、現実の世界を見れないよ」
男の子の沢木は耳元に囁くような真似をして話し、横目で私を見て笑う。
「エリカ、そんな怪しい子供の言うことに騙されないでね」
「騙されているのは、どっちかな」
エリカに言ったのに、答えたのは男の子の沢木の方。
「騙されている?私が?」
会話を邪魔されて怒るはずが、ちょっと不安にさせられるひと言で動揺してしまう。
「まぁ、それはいずれわかることだから別にいいんだけど……先にそいつをなんとかしないといけなくなったかも」
私の不安を煽っておきながら後回しにした男の子の沢木の顔に、一瞬だけ影が走った。この精神世界がいますぐにでも崩壊の危険に直面していることにやっと気づいたのだろうか?
「ねぇ、聞こえてる?あとどれくらい時間あるの?」
ブリッジキックマンを揺さぶってみる。初めて蛇の皮に少し触れてしまった。ゴムみたいな素材でしっとりと水で濡れている。本物の蛇の皮じゃない。
「き、聞こえてるよ」
弱々しくブリッジキックマンが目を開く。
「余命は何時間?」
もっと強迫観念を抱かせる訊き方をすべきだったけれど自重した。
「そんな具体的な時間まで、わからない」
ブリッジキックマンは苦しそうに咳き込む。
「いま、どんな容態なの?」
心配するような言葉をかけた。下心が見え見えなのはわかっている。
「気を失っている間、現実の世界で少し目を開くことが……ゴ、ゴホッ……で、できた」と言ったブリッジキックマンは赤い血を吐いたが、話しを止めない。「病院のベッドの上で電気ショックを受けて、な、なんとか意識を回復した後だった」
「それが原因で私は自分が成長した精神世界へ行ったの?」
「あぁ…イレギュラーが起こったんだ」と言ったあと、ブリッジキックマンは顔を傾けて男の子の沢木とエリカの方を見る。眼球が真っ黒。蛇なのに瞼があって半開きにしてぴったり寄り添っている二人に視線を送る。
「ふふっ……傑作だよ、傑作すぎる」
こちらを指差して男の子の沢木が唐突に笑う。
気が狂ったとしか思えず怖いくらいだ。
「僕がオリジナルの人格だってやっと気づいたみたいだから」
男の子の沢木は天地をひっくり返すことを言った。しかもその後でペロッと舌を出してうっかり喋っちゃったみたいな顔をする。
ブリッジキックマンは歯軋りが聞こえてきそうなくらい顔を歪めた。
「僕はオリジナルで、彼が五番目の人格だよ」
興奮気味で喋りたくてうずうずしている男の子の沢木。こちらが驚いたり、くやしがる表情を見たくてしょうがないといった感じがする。
「オリジナルだっていう証拠見せてよ」
喋りっぱなしの男の子の沢木にくさびを打ち込む。
「五番目の人格が死ねばはっきりするよ」
男の子の沢木が冷酷でわかりやすい回答をする。
「さっきは死んでしまうと困るようなこと言ってたくせに」
「そんなこと言ってないよ。先にそいつをなんとかしないといけなくなったかも、と言ったんだよ」
私の言葉尻を掴んで愉快そうに笑った顔は小悪魔そのもの。確かに殺すとは言っていない。ペラペラ喋っているようで、肝心なところは話していない。
「あなた、自分でオリジナルだっていう確証はあるの?」
私はブリッジキックマンに疑念を持って尋ねた。
「俺も自信がなくなった」
頼りない言葉をこぼす。
「少しでもあなたを信じた私はどうなるのよ!」
「すまないな」
ブリッジキックマンは白い牙を覗かせた。いままでなら卑しい笑顔に見えたはずなのに切なさを感じる。
「彼は僕が創造した中で最悪な失敗作だよ。余計なことは喋るし、オリジナルだと思い込んでいるから天下を取ったつもりで調子に乗りすぎたね」
「どんな手を使えば、五番目の人格をオリジナルだと勘違いさせられるわけ?」
「精神世界の理想と現実を見せてあげただけなんだけどね」
返ってきたのは抽象的な答え。男の子の沢木のほうがオリジナルだとすると、エリカが言いなりになるのもおかしくない。もしも絶大な力を持っているとすれば、ブリッジキックマンより危険な臭いがする。
「理想と現実?あなたが私達を弄んでいただけでしょ?」
「違うよ、余計な人格を殺して自分で治療しているんだよ」
言葉づかいは子供らしく、内容は狂気染みている。殺すことを治療としか思っていない。そんな私も現実の世界をひと目見るだけで直里も消した。はっきりしているのは、精神世界の私達はクズだということ。
「子供のくせに、いろいろ苦労してるのね」
「現実の世界で、僕は子供とは限らないよ」
「それは容赦なく痛ぶっていいってことね」
「やめたほうがいいと思う」
男の子の沢木は自信満々に言い切る。瞬間移動という武器、エリカも味方、しかもオリジナルの人格なら殺されないという確信があり、現実の世界で健康体の可能性もある。
容赦しない。先に動いく。果物ナイフを右手で握り、柄の底を押し出すように左手を添え、左脇から勢いをつけて突き出せる構え方をする。片足で反動をつけて飛び出す。
いきなり男の子の沢木の姿が消えた。移動先は背後をイメージ。私は後ろ向きのまま右腕をしならせて弧を描く。逆手で握っていた果物ナイフが刺さる感触があった。痛がって泣く姿をイメージ。手加減しないと、この精神世界がなくなってしまう。
振り向いて勝ち誇った顔を見せつけてやるつもりだった。
「エ、エリカ……」
果物ナイフの刃がエリカの左腕に刺さっていた。真っ赤な血が滲む左腕を抑えて苦痛に顔を歪めている。
「体さえ掴んでいれば一緒に移動できるんだ」男の子の沢木はエリカの後ろに立っていた。すぐに種明かしをするのは自慢したくてしょうがない子供そのもの。「僕を殺せばこの精神世界もなくなるから、手を抜いたみたいだね」
「女の子を盾にするなんて畜生ね」
「自分だって母親と親友を殺したくせに、よくそんな台詞が言えるね」
「坊やは現実の世界でろくでもない奴なんでしょうね」
痛いところをつかれたけれど、引くわけにはいかない。
「僕には邪魔な人格を退治する権利があると思うんだけど」
「でも、私達人格を直接力で殺すことはできない」私が言ったあと、微かに舌打ちが聞こえた。「瞬間移動なんて技を使うなら、とっくに私達人格を殺せるはずだしね。多重人格、つまり解離性同一性障害という病気は自分で治せるほど甘くないわ」エリカの血がついた果物ナイフをかざす。
「その知識はもともと僕のものだから、返してもらわないといけないね」
男の子の沢木は丁寧な言葉使いとは裏腹に威嚇を口にする。
「私に現実の世界を見せる気はないのね」
「そんなのはただの強欲だよ。人格を乗っ取られる可能性もあるし、そんな約束はできないし、ぼくはブリッジキックマンより甘くないよ」
「お互いの不信感は永遠に払拭されそうにないわね」
「おっと……」突然男の子の沢木の表情が穏やかになった。「速報です。彼が完全に死にます」
ブリッジキックマンの体が真っ黒なチューブに包まれて消えた。
いままで人格が消える現象と一緒で地面に吸い込まれ、最後は黒い染みしか残らない。あっさりと男の子の沢木がオリジナルの人格だと証明されてしまった。精神世界に変化はなく、周りの景色に異常はない。
「これで残る人格はあと二つ」
男の子の沢木は “やっと ”と言葉の頭につけそうなくらい安堵した顔をする。
一緒に逃げよう!と、エリカに言葉をかけたい気持ちもあった。でも、冷静に考えてみると、男の子の沢木が直接手を出せないから、ブリッジキックマンを消すくらいのダメージを与えたのはエリカということになる。まだ武器を教えてもらってもいない。教えるつもりもないのかもしれない。手出しができない状況。手負いのエリカを攻撃対象から外すわけにはいかない。
果物ナイフを構えて防御の体勢も維持する。
「五番目の人格がね、現実の世界に行かせられないけど、僕と三番目の人格にどちらか一人なら残してあげてもいいよって、誘惑してきたんだよ。自分のことを知らないって幸せだよね。僕も同じ条件を提示しようかな」男の子の沢木は私を見て言った。エリカを切り捨てると本人の目の前で公言した。冗談と思ったほうがいい。「どうする?話し合いで決める?」と次はエリカと私を交互に見て尋ねてはきた。終始遊び感覚で思考を揺さぶってくる。
「現実の世界に行けないなら話しにならないし、そんな誘いに乗るほど馬鹿じゃないんだけど」
「友達と話し合いで解決させてあげようとしてるのに、それを拒否するなんて最低だね」
「最低で結構よ。私は……人間じゃないんだから」
私に人間的な理性なんかないんだ。
「人間になりたくてしょうがないんだね」
男の子の沢木の目に同情の色は浮かんでいない。
「言っとくけど、私は生身の人間になることは諦めていないんだけど」
むきになって言い返さないように、冷静な口調で返す。
「現実の世界で僕の体が健康でピンピンしていることは察しがついているのかな?そのとおり。現実の世界では持て余すくらい自由時間があるよ」
男の子の沢木は自分で質問して自分で答えた。
極上の誘惑の言葉。思わず唾を飲み込んでしまう。喉を鳴らした音が聞こえてしまってないか不安になる。
「そんなこと言われたら、無理やりにでもオリジナルの人格を奪ってやるわ」
「無理だと思うけどななぁ~」
男の子の沢木は腕を伸ばしながら欠伸をして挑発。
「もうやめようよ……アヤメ……」
エリカが囁き程度の声を使って私を止めようとする。
「いま立て込んでいる最中なのが、見てわからない?邪魔しないでもらえる」
ケガを負わせたエリカを睨む。
「現実の世界なんて、見ても楽しいことなんてなにもないんだよ」
エリカは頭を下げて地面に向かって喋った。私の目を見て言えないのか、痛みと戦っているのかわからない。
「まるで現実の世界を見てきたような言い方ね」
私の言葉は効果があったらしく、エリカがピクッと反応して体を震わせる。動揺が走ったのが明らかに見てとれた。
「勘がいいね」
男の子の沢木からの褒め言葉。
「なに言ってるのよ!」
エリカが男の子の沢木の声を遮るように、今まで聞いたことがない大声を出す。
「ごめん、ごめん」
男の子の沢木が笑って謝ったけれど、反省の色が微塵も感じられない。
エリカの怒り方は普通じゃなく、現実の世界を見たという言葉を否定したいのは感じることができた。それでも私の味方になってくれる気配がない。男の子の沢木の呪縛から抜け出せないでいる。有刺鉄線に絡まっている姿が私には見える。それだけ二人は歪められた絆で結ばれている気がする。
「ねぇ、こっち見て!冷静になって!」
エリカが痛いはずの左腕を使って私の袖を掴んでくる。この状況で仲裁しようとするなんて、どこまで頭の中がお花畑なんだろうと思う。
制服に血がついたし、でもそれは怪我させた私が悪いわけだし、さらにエサを強請る野良猫のような目をされてしまっては、男の子の沢木よりも卑怯な精神攻撃と感じずにはいられない。
自分が犠牲になれば、エリカを助けることは可能?
偽善的な思考が駆け巡ってきた。
精神構造の基がブリッジキックマンだろうが男の子の沢木だろうが、どちらのせいにする気もないけれど、私の心が真っ黒い心に左右されてきた。まんまとエリカの策略にはまって、善という清らかな情報が私の頭の中に流れてきた情報がバグを発生させたらしい。
目を閉じて首を振ったけれど、エリカに対する想いは簡単に消えてくれない。 余計な感情は後々邪魔になるだけだ。
「もう自分ではなにもできないことがわかったでしょ」
私が首を振った仕種を見て、負けを覚悟しているとでも勘違いしたのか、男の子の沢木は得意気だ。
「私の心が読めているつもり?いま、違うことを考えていたんだけど」
「強がらなくていいよ」
「強がっているのはあなた」
「さっきから僕を子ども扱いしてない?僕の力を見くびってない?」
男の子の沢木はまるで首が捻挫したかのように不愉快そうに首を傾げる。
「ブリッジキックマンが消えたことで、あなたがオリジナルの人格なのはわかったわ。でも直接的に消すことができないなら、そんなに怖くはないわ」
「それが全然違うんだな」
「エリカを味方につけてるから有利だって言いたいわけ?単なるお荷物にしか見えないけど。あぁそうか、一人じゃなにもできなんだ」
間接的にエリカにひどいことを言った裏にはそれなりの計算があった。もしかすると、意地を張ってエリカを自由にしてくれるかもしれないと俄かに期待する。
「いらない荷物でも燃やせば燃料になるよね」
意味不明なことを子供っぽい口調と無垢な表情で言われた。返って怖さを感じる。さらに変化があった。男の子の沢木の目の動きが止まった。眼球が静止している。魂が抜き取られたみたいに無表情。
もしかして、チャンス?!
でも、罠かもしれない。
心臓が早鐘で踊らされた。
どっちなのか判断がつかない。
「やばい、やばい、気を失っていた……思ったより体力を使っちゃったかな」
迷っている間に表情が戻っていた。
千載一遇のチャンスを逃したのではないかと、後悔がよぎる。
「体を静止させていただけで、体力を使っているようには見えなかったけど?」
「観覧車からタクシーで逃げてきた世界を見せてあげたと思うんだけど、そのときに使った体力が時間差で奪われたんだよ。副作用みたいなものかな」
「あなたがやったの?」
聞くまでもなかったかもしれない。殺し屋もどきの私、怯える中年オヤジ、警察やなぜか現れた武装集団、ぶった切られた境界線の闇に浮かぶ数字、意味不明の行動を取ったタクシーの運転手など、よくよく考えれば子供染みた発想からきたモノ。
「体力は消耗するけど、今度は違うところへ連れて行ってあげるよ」
「違うところ?」
意味深な言葉で返されて私の顔は自然と曇る。
「僕は色々な世界をエレベーターのように移動できるんだ」
男の子の沢木は自慢気に目を細めた。
「エレベーターのように移動できるって…それが瞬間移動なの?」
矛盾点を突きつけて訊く。
「ぼくの精神世界だから基本はなんでも可能。君達を直接消す以外わね」とブリッジキックマンにも聞かされたことを言ったあと「瞬間移動は水平、エレベーターは各階層ごと縦に移動できる。だから移動という概念は変わらないんだよ」とまるで先生みたいに男の子の沢木が説明してくれた。
私と会話をしたくてなんでも喋ってくれるんじゃないだろういかとさえ思う。でも、単純に考えれば焦っているだけ。やっていること、やろうとしていることはブリッジキックマンと同じ。段々早口になってきているのがその証拠。
「あなた、現実の世界では切羽詰まった状況なんでしょうね」
「あんまりのんびりしている時間はないんだ」男の子の沢木は否定しなかった。「くどいようだけど、もう一度聞くよ。そろそろ白旗揚げてくれないかな」
「嫌よ」
「一番目の人格さんは頑固だなぁ~」と言いながら髪を乱暴にかきむしったあと、男の子の沢木は真顔でこちらを見て言った。「オリジナルの僕は決断するよ」
その言葉が切っ掛けになったとしか思えない強い風が突如として吹く。
自分の髪で視界が遮られて、慌てて払い除けると別世界になっていた。




