03名前のない街
テーブルトークRPGにおいて『世界観』は非常に重要な要因として、ルールブックに記載されている場合が多い。
世界の地図、国家、街、宗教、習俗。それらはゲームの方向性を定める上で、役に立つ情報となる。中には、『世界観』を再現したいが為に作られたRPGルール、というものも存在する。
アニメや漫画などとのコラボレーション的な企画によくあるパターンだが、その場合は非常に細かな『世界観』が定められている。
逆に『世界観』にあまりページを割かないRPGルールもある。
これらは細かい裁量をGMに任せることで、プレイの自由度を上げる目的がある。中にはルールだけ作られ『世界観』はGMに丸投げ、というものさえ存在する。
「マーベルさんは森の中で目覚めたんですね?」
3人、もとい2人と1個は、森を左手にして草原を進んだ。1個たる薄茶色の宝珠はマーベルの手により運ばれている。これが問いを発したGMの今の姿である。
「うん。というか目覚めたらあのゴブっちの群れに引きずられてた」
「ゴブっちて…」
「なんか言えなかったし」
ゲームの世界である。なぜかテーブルトークRPGの世界の中に、肉体を持って存在している彼らは、行動のいくらかをゲームのルールに縛られているようだ。
キャラクターが知らないはずの名前は、言葉として出ない、それもルールの一つだ。
「群れってことは最低6匹くらいですか」
「森の『エルフ』の人に助けてもらっちった。街の話も教えてくれたよ」
「森エルフは純血主義で排他的です。よそ者のマーベルさんが、よく助けてもらえましたね」
「『まよいしいみごよ、そうそうにたちされ』って言ってた」
「『忌み子』て、ずいぶんな物言いじゃないか」
「そんなもんですよ」
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『エルフ』は森の民。細身で尖った耳が特徴的だ、また美形が多いと言われている。
『知力』『精神力』が高く、反面、『筋力』『生命力』で劣るため『魔術師』や『精霊使い』が多い。
森で暮らすエルフを『森エルフ』、街で暮らすエルフを『街エルフ』などと呼ぶ場合もあるが、どちらも同じ種族である。
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空にはゆっくりと雲が流れ、風は穏やかに渡る。陽気はまさに春そのもの。2人と1個は暢気に森沿いの小道を進んだ。
「あっちが西」
小道の行く先を指差したマーベルが得意げに言う。アルトはさほど興味なさそうに視線を向けた。はるか向うに地平線と、正体不明のデコボコが見えた。おそらく森や林か、それとも丘か、はたまた建築物かもしれない。
「それも『森エルフ』情報か?」
「うん。街の事と一緒に聞いたにゃ」
学校では女子と話す事もあまりないアルトだが、隣を行くのは子供にしか見えないし、ねこ耳がついた幻想生物だ。何も気負う事はない。
「ところで、たまに出る『にゃ』ってなんだ。キャラ造りか?」
「にゃ?」
不思議そうに首をかしげるねこ耳少女。少女愛者ではない筈のアルトでも、少しうずうずしてしまう。いや、これは性愛嗜好ではなく、子猫を見つけて撫でたくなる心境に似ているのではないだろうか。
「そんなこと、ない…よ?」
語尾がなにやら無理しているように聞こえるのは気のせいだろうか。
「ちょっと『なにぬねの』って言ってみろよ」
「にゃ、に、にゅ、にぇ、にょ…にょ?」
まるで今はじめて気付いたかのように驚愕の色を浮かべるマーベル。アルトは呆れてため息をついた。
「『ケットシー』の声帯が違うんですかね?」
フォローのつもりなのか、GMは暢気な調子で呟いた。
しばらく西へ進むと森から流れ出る川にぶつかった。頑張れば泳いで渡れそうな程度の広さの穏やかな川だ。
川は北に向かって草原の中を流れ、下流に視線を向ければ街が見えた。
偶発的に出会ってしまったらしい妖魔と死闘を繰り広げたアルトの身体は見るからにボロボロだった。GMに言わせれば、HPはすでに半分程度だそうだ。
現実世界で命半分ほどの怪我を負えばどれほどの苦痛なのだろう。それほどの重傷を負った事がないアルトには想像つかないが、歩けない程であるのは想像に難くない。
比べてこの世界での痛覚が向うの世界より鈍いのは確かなようだ。
以前、脚のオデキを病院で切って貰った事がある。直径で1センチほどの小さなオデキだ。あの時は施術中、ずっと枕カバーをかみ締めて耐えたように記憶する。麻酔が効いてすらそうなのだ。
だが『短剣』で殴られた痛みはそれより軽い。痛いのは確かだし、できればもう浴びたくはない痛みだ。でもその程度は『体育教師から貰う拳骨』数発のようなものだろうか。
今もゴブ公から貰った打撲はズキズキと痛む。しかしそれが半殺しされた程かと問われれば、そうでもないのだ。
「回復が欲しいわ」
つい口をついて出たアルトの弱音だが、外傷の程度が見る者の同意を誘う。仲間は2人になったが、いずれも回復魔法を使えないし、魔法の軟膏も持っていない。
当初のプレイ予定ではいたはずの回復役、『聖職者』もここにはいないのだ。
「他のメンバーもこの世界にいるのかな」
何時間前の事なのか、何日前のことなのかわからない、あのアパートの一室に思いを馳せる。あそこにいたのはあと3人。いずれも2人より年上だったはずだから、いれば彼らより頼りになるだろう。それにやはり回復役とはぜひ合流したい。
「『エルフ』の人は、アタシとアっくんしか見てないって言ってた…よ?」
まだ語尾を気にしているのか、言葉尻が曖昧なマーベル。彼女は思ったより『エルフ』と多く話したのかもしれない。
「近くにいる可能性もあります。が、そもそもこの世界にいるかどうかも確かめるすべが無いですね」
GMの言葉にうなづきかけ、アルトは眉を寄せてマーベルを振り向く。その表情が困惑なのか傷の痛みによるものなのかはわからない。
「…ちょっと待てアっくんって何だ、オレか?」
「アっくんはアっくんだよ」
マーベルの回答は解った様な解らない様な、あえて言うなら解りたくない回答だった。
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魔法を使う職業は3つある。
『魔術師』『精霊使い』そして『聖職者』。
『聖職者』は宗教者であり、神の奇跡『神聖魔法』を使う。
『神聖魔法』は傷、病気、その他の状態を回復し、死霊などの不死の怪物との対決に長じている。
また他の魔法職と違い、装備品を制限されないと言う特徴を持つ為、戦士職などと兼ねることも可能だ。
もっとも、信仰する神の示す戒律を守らなければならないので、まったくの自由と言うわけではない。
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「まぁ最悪の場合でも、街で教会に寄進すれば、回復くらいしてくれますよ」
GMの言葉に財布の中身を回想する。なんにせよ心もとない枚数だ。
「全財産、銀貨12枚か。足りるかなぁ」
雑魚寝のような安宿に泊まったとして銀貨10枚。安い外食が銀貨3枚。まさしく家出中学生の所持金に等しい。
もっとも、マーベルの所持金も合わせれば当座を凌ぐ分にはどうにかなるだろう。
「街ならどこでも回復できるの?」
これがコンピュータゲームなら、どんな小さな街でも、システマチックに教会の業務として組み込まれていることだろうが、テーブルトークRPGではどうだろう。コンピュータゲームしか経験ないマーベルにとってそれは素朴な好奇心でもあった。
「教会にいる司祭次第ですね。大きい街なら間違いありませんが、小さい街だと司祭の実力的に微妙です」
「え、てことはあの街じゃダメかも知れないってこと?」
コンピュータゲームしかやった事がないのはアルトも同様で、彼は疑問にも思わず『出来る』と思い込んでいた。それだけに驚きも大きい。
焦ったアルトがマーベルから宝珠をひったくり激しくシェイクする。
「どうなんだ、そこのところどうなんだ?」
現在、HP回復が至上命題のアルトには、まさしく死活問題だ。たしか初めにGMから聞いた雑談の中では『宿に泊ってもHPはあまり回復しない』とのことだ。もし視線の先のあの街でダメなら、アルトはしばらくこのまま傷だらけである。
「あばばばば、大丈夫ですよ、あの街は。たぶん私がデザインした街ですから」
GMの言葉に、2人の動きが一瞬止まる。
「メリクルリングRPGでは小さな街までデザインされてませんからね。あの川沿いの街なら間違いないでしょう。今回のシナリオの為に私が設定した街です」
未だ思考が空白に囚われている2人に、追い討ちをかけるようにGMは言葉を続けた。アルトは諦めたようにため息を吐くのだった。
「この世界の法則がなんとなーくわかっては来たけど、まったく変な感じだな」
「そだにゃー」
時すでに夕刻。日は傾き、空は茜の色に染まる。あの世界より空が綺麗に見えるのは、排気ガスなどが無いせいだろうか。
「それで『今回のシナリオ』とやらはあの街でどう発生するんだ? 先に聞いておきたいんだが」
少し茶色がかったダメージヘアを短髪にした『鎖帷子』の少年は、GMたる宝珠を手慰みにお手玉しながら尋ねる。これが生き物相手なら虐待だが、どうやら宝珠たるGMにはなんのダメージもないようだ。
「いやーそれは言えません。言っちゃったら楽しみがないでしょ?」
「マーベル、これ叩き割っていい?」
「たぶんダメ」
宝珠の表面に冷や汗が見えた。もちろん幻覚だ。
「物騒な人だ。冗談はさておき、そのイベントが発生するとは限りませんし、そもそもマスタリングしているのが私じゃない以上、先入観は危ないと思うんですよ」
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マスタリングとはGMの技術である。
用意されたシナリオの進行、ランダム性の高いプレイヤーの行動によって細かい修正、ゲーム世界の住人の行動操作、ルール管理などなど。これらのゲーム進行をマスタリングという。
同じシナリオを扱っていても、GMの性向や技術力の違いで全く違う味のイベントになることもある。場合によっては結末だって大違いだ。
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ならばGMの言うことも、もっともかも知れない。
「それに私のメタ発言も行き過ぎると抵触事項のようですし」
「抵触事項?」
「ルールに抵触する、ってトコロですかね」
アルトも『ゴブリン』と言う名詞を発言することができなかった。それはこの世界のルールに抵触したからだ。
今までの経緯からGMにはある程度、ルールを超越することを許されているようだが、それでもやはり世界の法則を大きく外れる発言は制限・削除されるらしい。
「さぁそんなことより早く街に入りましょう。夜になると閉門しますよ」
街の周りには高い塀がある。恐らく戦争や怪物への備えなのだろう。
「そういえば街の名前は何てーの?」
特別興味が有るわけでもなさそうにマーベルは問いかける。視線は左手の川を流れる小さな葉っぱを追っている。
「はぁ、名前なんてつけてませんよ」
「は?」
今日、何度目かの疑問符は2人のユニゾンとなった。
「だからこの街は今回のシナリオ用に適当に作った街ですなんです。名前なんてありません」
「適当ってアンタ無責任な、この街に住んでる人に謝れ!」
激昂したアルトは、再び宝珠を激しくシェイクした。
「あばばばばば」
「この街の名前? アルパだよ。なんだ、そんなことも知らずに来たのかい」
街の門にいた書記官がアルトたちの問いに答えた。
「驚きですね。自動命名システムでもあるんでしょうか」
GMは誰に聞かせるでもなく呟く。
川沿いには街道が整備されており、その街道の先には街の門があった。
門には衛兵と、門を通る者を台帳に記す書記官がいた。出入りする商品に対する税金徴収も彼らの仕事のようだ。
もう暮れの時刻なので、そんな彼らも閉門の準備中だった。
「だって来たばっかなんだもん」
マーベルが少しほほを膨らまして独りごちる。聴きつけたアルトは焦って肘でつつく。
書記官は少し怪訝な表情を見せたが、しばし考えてから大きく頷いた。
「ははぁ、あんたら大陸渡りか」
なにやら勝手に納得気味だが、マーベルとアルトは疑問符を顔に浮かべて向き合った。互いに相手の回答を期待した結果だ。
しかしお互いの顔をいくら眺めても、残念ながら回答は得られなかった。
何はともあれ、入門手続きは終わったようで、書記官は『街で騒ぎを起こさぬように』と言いつけて、自分の仕事に戻っていった。
「GM、あれってどういう意味にゃ?」
一応、他人に聞かれる恐れを避けて、宝珠に話しかけるのを躊躇うマーベルだったが、すでに書記官もここにはいないし、街行く人々も忙しそうに行き来するばかりだ。彼らの会話に気を止める者はいないだろう。
「メリクルリングRPGの世界は、中央の大陸と周辺にあるいくつかの島で成り立っています。ここは周辺諸島のひとつ、『アルセリア島』。面積は…そう九州と同じくらいですが、大陸からすれば田舎の島ですね。つまりあの書記官は『大陸から来たばかりだから田舎の島の事なんかを知らないのだろう』と解釈したわけです」
「戦国時代の日本みたいにゃ。アタシらバテレン人、みたいな?」」
「そうかもしれませんね。でもこの島、別に単一国家ではありませんよ。ここは島の北側のうち2/3を占める『ニューガルズ公国』です。他には東に『タキシン王国』、南の山脈向こうに『レギ帝国』があります」
「九州に3つも国があるんだ。小さいにゃぁ」
そもそもこの島の人口は約50万人、大陸も合わせた総人口でも1億人程度だ。現実世界の常識から見ればどの国も極小国でしかない。
「ちょっといいか?」
この世界の住人に名を連ねてしまった彼らにとって、世界の情報は重要な話だった。しかし今、そんな話よりもっと重要な案件をアルトは抱えていた。
彼は息も絶え絶え、青い顔でのたまった。
「そんなことより、まず教会、探そうぜ」
「大丈夫ですよ。まだHPは半分残ってますから」
薄茶色の宝珠が、アルトの幻覚の中で親指を立てた。
「なぁマーベル、もうこれ叩き割っていいよな?」
「たぶん、まだ、ダメ」
日は沈み、深い藍の帳が空を覆う。
現代日本と違い、路を照らすのは街灯ではない。心細い星明りと、それぞれの家から漏れる小さな団欒の明かりだ。
街の門からは立派な石畳の大通りが一本北へ伸びているが、ひとつ通りを外れれば土を踏み固めただけの小道も散見された。
小道は大通りに比べるとなお暗く、陰に潜むかもしれない何者かに、いっそうの不安をかきたてる。
幸い街の教会は大通り沿いにあった。
2階建ての古びたレンガ造りがほとんどの街並みの中、ひときわ高い尖塔を持つ1階建て、それが街にある唯一の教会だった。
尖塔には街に祝い事や悼み事を知らせる鐘。正門たる大扉の上には信仰を現す聖印が掲げられていた。
「なんかあのマーク、見たことあるよね」
十字の上に屋根のような『へ』の字を被せた紋。GMによれば、『へ』の字は聖域たる『ガイン山』を示し、十字はその山に眠る彼らの神の御身を示していると言う。
だが確かにマーベルが言うように、そのマークは日本の会社が使っていてもおかしくない。実際、『へ』の字に『サ』なんてマークは日本人なら日常的に見かけるだろう。
「『ドム』って感じ?」
アルトは思わず教会の扉に頭をぶつけた。あまりにあんまりなマーベルの論に、膝の力がすっぽ抜けた結果だった。
「もし、どちらさまですかな?」
教会の大扉の奥から声がした。アルトもマーベルもはじめは何事かと戸惑ったが、アルトの放った頭突きが、図らずもノックの役割をしていたことに思い至った。
だがどちらも元はただの高校生。心の準備もなしに、知らない大人に願い事をしなければならないこの状況で、咄嗟の言葉が出てこなかった。
無言の後に返答をしたのは、マーベルの手の中の宝珠だった。
「旅の者です。司祭様の力にお助けいただきたく、訪ねてまいりました」
再びの無言。しばしの時が流れると、古びた蝶番の擦れ合う音とともに、教会の大扉が小さく開いた。
中から顔を出したのはやせ細った初老の男だった。
白くゆったりとした、飾り気のない服を着ている。唯一のアクセサリーは胸に下げられた聖印のペンダントだった。
司祭はアルトの傷に気づくと、すぐに二人を教会の中に招き入れた。扉をくぐると、そこは学校の教室ひとつ分くらいの礼拝堂だった。
司祭は礼拝堂にいくつもある椅子のひとつにアルトを座らせ、床に膝をつき美しい音節の詠唱を始めた。聖職者の使う回復魔法『キュアライズ』だ。怪我などによるダメージを回復し消し去る効果がある。
司祭のしわだらけの掌がアルトの足元を指し示すと、床に円形の聖印が青白い光で描かれる。すると円を囲う壁のように光が天へ伸びあがり、アルトの身体をすっぽりと覆った。
暖かい聖なる光の粒子がアルトに流れ込む。その粒子は身体についた打ち身、切り傷
にそれぞれ集合し、跡形もなくはじけ消えた。するといくつもの傷は粒子と共に何処へともなく消え去るのだ。
「うわ、これスゴイわ。癖になりそう」
傷の具合を確かめながら、おかしなことを呟くアルトをよそに、マーベルは厳かな態度で司祭の前に進み出た。
「かみにかんしゃします、おおさめください」
そう言って小さな包みを司祭に差し出す。おそらく数枚の銀貨を包んだものだろう。大きさからして10枚程度だろうか。これでアルトの残金は銀貨2枚だ。
そのマーベルの立ち居振る舞いときたら、まるで育ちのいいお子様だった。
マーベルらしからぬ態度に目を皿にするアルトだったが、すぐにGMの差し金だろうと思い至った。だいたい思い出してみれば今のセリフも棒読みだ。
「ほうほう『古エルフの森』の近くで、ですか。それは災難でしたなぁ。『古エルフの森』は文字通りエルフ族の聖地。エルフの集落も数多くあります。天敵であるゴブリンはあまり近づかぬのですが」
司祭の名はウッドペックといった。彼は『聖職者』でありながら『学者』でもあったようで、アルトたちの話を聞き、すぐにその妖魔の名を言い当てた。
不思議なもので『あれがゴブリンである』と教えられれば、それ以降、アルトたちの口からも『ゴブリン』と言う名を語る事ができた。
見た物の名を教えられれば、『学者』でなくとも憶える。そういう理屈なのだろう。
「おっと、そのような事は冒険者の皆さんには常識でしたな。失礼しました」
「いやその、オレたち『大陸渡り』なもんで…」
アルトは憶えたばかりの言い訳を早速使ってみる。これで納得してもらえるなら、この世界において物知らずで常識知らずなアルトたちの強い味方となるだろう。
「そうでしたか。ではこの街の事もあまりご存じないでしょう?」
「ええ、まぁ」
知らないのは街のこと、どころではないのだが。
「もう日も落ちました。これから宿を探すのは骨でしょう。質素な部屋でよろしければ泊まって行かれてはいかがです?」
やけに親切だな、とアルトは少し警戒する目で司祭を眺めた。
宗教家と言えば街角で『あなたは神を信じますか』などと言いながら霊感アイテムを売り付けて来たり、日曜の昼にやってきてなかなか帰ってくれない、そんな連中ばかりのイメージを持っていた。日本に住まう者なら割と身近な光景だろう。
しかし、と考え直してみる。
本来は『神に仕える者』というのは、こういうものかもしれない。
質素で人に優しく、戒律に厳しい。『隣人を愛せよ』なんてのも聞いた事がある。
この世界の神のことは知らないが、怪しい宗教家や不真面目な宗教家ばかりの日本に育ったアルトには、目から鱗が落ちる思いだった。
「助かります」
まだどう話すのが礼儀に適うのかもわからなかったアルトは、言葉少なく謝辞を述べ頭を下げる。先ほどから黙ったままのマーベルも後に続いた。
「では部屋を準備してまいります。しばしこちらの礼拝堂でお待ちください」
初老の司祭はそういって微笑むと、足音も静かに奥の廊下へ出て行った。どうやらこの教会に住んでいるのは彼一人で、全ての庶務は彼の仕事のようだ。
「ぷはーっ! あー苦しかった」
と、司祭の姿が見えなくなったとたん、マーベルはなくなった酸素を取り戻すかのように息を継いだ。
「なにやってんだ?」
「静かすぎると、喋っちゃイケナイ気がしない?」
「あー、わかります。そういうの日本人らしいですよねー」
礼拝堂の静かで厳かな雰囲気は、とたんにコメディの色に染まった気がした。
「しかし『冒険者』ですか。そう呼ばれると、ここがテーブルトークRPGの世界なんだなぁと思い出しますね」
「いや、忘れてねーけど」
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冒険者とは、世界のあらゆる危険に挑み、未踏地を踏破し、新しい発見を追い求める者の事である。
しかしテーブルトークRPGにおける『冒険者』とは、本来の意味よりも広い意味を持つ言葉だ。
『冒険者』とは世界を旅し、数々の妖魔・怪物を倒し、その結果、巨万の財宝を追い求める者。だけではなく、人々の依頼を受け、真相を暴き、事件を解決する、そういう私立探偵のような存在をも指す。悪をくじき、世界を救う英雄であることもあれば、一方で風来坊のならず者と同義であったりもする。
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はたして寝室は司祭の言う通り質素であった。
飾り気のない簡素なベッドに、水差しを置く小さなテーブルだけの小さな部屋。それでも個室なだけマシといえるだろう。
この世界で目覚めてから、緊張の連続と感情の激しい起伏により、すっかり疲れ果てていたアルトには、とにかく『静かに休めるベッド』と言うだけで何にも勝る至宝だ。
夕食に、と思い、ナップサックから取り出した保存用の携行食を握ったまま、アルトは吸い込まれるようにベッドに倒れこむ。彼は着込んだ『鎖帷子』を外す間もなく、深い眠りへと沈んでいった。
夜半過ぎ、アルトは部屋の戸を遠慮がちに、だが何度もノックする音で目を覚ました。またもや『鎖帷子』の重みの中の最悪な目覚めである。
「アっくん、ちょっと起きてー」
なかなか部屋の主が目覚めない事に業を煮やしたか、ノックの主は更に小声をあげた。今日一日でずいぶんと聞いた脳天気な声、ねこ娘・マーベルのものだ。
「どうした? 何かあったのか?」
半分寝ぼけながら、アルトはしぶしぶと戸を開ける。うす暗い廊下には、頬を赤く染め、恥ずかしげにうつむくねこ耳童女の姿があった。
しおらしげに、弱々しく立つ美しい金の髪の少女の姿は、得も言われぬ色香が見え隠れし、児童性愛者ではないと固く信じているアルトでも心臓を射抜かれる気分だった。
「あ、あのね」
もじもじとしながら、言いにくそうに言葉を絞り出す。心臓の高鳴りにすっかり眠気から覚醒したアルトは息を呑み、言葉の先を伺った。
「あ、あの…」
マーベルは息を整えようと目をつぶり、そして見開く勢いで言い放った。
「ト、トイレ付き合って!」
言葉が脳に達するまで、優に7秒の時間がかかった。
「…は?」
「いやほら、暗いし、電気ないし。ちょっと怖い…から、ね?」
「おまえ猫だろ」
「猫じゃないにゃ」
頭に昇った血液が、急速に冷却されていく。あとどうやら『ケットシー』は夜行性ではないらしい。
女子の夜中のトイレに同行などと、こんなイベントはいつ以来だろう。妹がまだ小学校低学年で、夏の恐怖特番を見てしまった日以来だ。
まぁ、今のマーベルも、その幼かった当時の妹と同じくらいの姿だが。でもホントは女子高生だ。
自分の事ではないのに何故か情けない気分になりながも、アルトはトイレの前まで同行せざるを得なかった。
トイレ前。出待ち。『音は聞くな』と厳命されたアルトは、仕方なく廊下の先の闇に意識を寄せた。こうすることでトイレの中からの音を意識的にシャットアウトするのだ。
電気による灯りがなければ完全な暗闇かといえばそうでもない。窓から差し込む僅かな星明かりだが、慣れれば歩くくらいは出来る程度に明るかった。
廊下の先は何があったろう。
部屋に案内されてすぐに寝てしまったが、トイレと食堂だけは知っていた。部屋に入る前に案内されたからだ。
寝室からは礼拝堂を挟んで反対の廊下にトイレはあり、さらに先が食堂だった。
その食堂から誰かの気配がした。
気配などというとオカルト的に聞こえるが、それは動く時に立てる僅かな音や、小さな呼吸の音である。この世界に来て、多少そういうものに敏感になったようだ。
トイレから意識を逸らすために、あえて廊下の闇に意識を集中した訳だが、そのお陰で気づいてしまった。
草木も眠る深夜の事。
電灯のないこの世界では人の就寝は圧倒的に早い。あちらの世界にいた時のアルトたちの就寝時間なんかより、数時間単位で前倒しとなる。
ならばこの深夜に食堂で仕事をする者とは一体誰だ。本当に人間だろうか。それすら疑わしい。何せここはファンタジーなゲームの世界なのだ。
「まさか…ど、泥棒か」
マーベルが部屋に来た時とは違う意味で心臓の鼓動が高鳴る。捕まえてやろう、などという気はないのに、猫を殺す類の好奇心がアルトの心を占めていった。
忍び足、には、残念ながらならない。アルトは『鎖帷子』を着たままだったし、床も古くて音を忍ばせることは不可能だった。
それでも闇の向こうの何者かは、こちらに気付く様子はなかった。
一歩、二歩。ゆっくりと、確実に廊下を進む。
進むにつれ、徐々に相手の様子がわかってくる。どうやらその者は食堂のテーブルに付き、こちらに背を向けているようだ。
息を呑み、もう一歩踏み出した。その時、一際響くように廊下が鳴った。あまりの緊張にアルトの心臓は止まりそうな勢いだ。
さすがに気づいたその者は、ゆっくりとこちらを振り向く。
細やかな星明かりに照らされるのは、白い質素な法衣に身を包み、ハーフアップにした明るい色の髪の上に白いピルボックス帽を合わせた女性だった。
それはあの部屋で、メリクルリングRPGをプレイする為に集まった仲間の一人、モルト・レミアムとの感動的な再会であった。
彼女の右手にはワインの入った水差し、左手にはかじりかけの大きなウインナーが握られていた。