気が合う
「山がお好きなんですか?」
男はたまたまカフェで知り合った女性に声をかけた。女が履いていた靴が、その筋では有名なメーカーのものだったからだ。
それは彼も愛用している、登山メーカーのものだった。元が登山用の靴なので、町中で履くには少々無骨な印象を与える。
それをあえて日頃から、それもカフェのような場所にまで、この女は履いてきている。
気が合うな。と、男はついつい自然と声かけていた。自身もたった今、まさにそのメーカーの靴で、このカフェにきていたからだ。
「ええ、本格的な登山ではないんですけど」
女もまんざらではないようだ。男のその足下を見て、にっこりと微笑む。
女はカフェをぐるりと見回す。
山小屋をモチーフにしたと思しき、木材を多用したデザインの店だ。大振りの木材が、柱や梁に使われている。もちろん全てが本物の木材ではない。
だが間違いなく、アウトドア趣味の店だ。
そんなカフェに他の客は、普通の服装や、靴で来店している。
無粋だと女は思う。山小屋のカフェなのだから、客も登山客然としているべきだと思う。
もちろん女とて、リュックを背負って来店した訳ではない。だが少なくとも、店のコンセプトが分かった格好をしているべきだ。
おしゃれな雰囲気だけに惹かれて、日常の――町中の姿できているのだろう。
女は内心がっかりしていた。そんな時に声をかけられたのだ。気の合いそうな男に。
「いい靴ですね」
「お互いにね」
男と女はクスッと微笑み合う。女は正面のイスに置いていた鞄を、己の横にどけた。
「あれ? 靴だけじゃないですね」
男はその鞄を見て、更に頬が緩んだ。やはりその筋では有名な登山メーカーの鞄だ。もちろん男の持っている鞄も同じメーカーだ。
何より鞄をどけてくれている。拒否されなかったのだ。男は機嫌よく腰を降ろした。
「靴と鞄だけかしら?」
女がクスクスと笑う。
「本当だ。これはしてやられた」
男はそう言って己を見下ろす。シャツにパンツ、腕時計まで。およそ目につくブランドが、皆女と同じ登山メーカーのものなのだ。
「山がお好きなんですか?」
男はわざと、最初と同じ台詞を口にする。
「ええ、好きですよ。気が合いますね」
女はにっこりと微笑んだ。
二人はこの週末に、山に登る約束をした。登りたい山まで同じだった。
二人は本格的な登山スタイルで落ち合った。
やはり二人は示し合わせたかのように、同じメーカーの服装と装備で身を固めていた。
「気が合いますね」
どちらともなくそう言って笑い出し、二人は山に登り出す。
プランもペースも同じだ。歩幅。呼吸。足の置き場。手を着くところ。全てが先をいく相手をなぞるように、後ろの者がついていく。
休憩のタイミングや、給水に持ってきたミネラルウォーターまで同じだった。
声をかけて欲しい時に声をかけ、手を貸して欲しい時に黙って手が出てくる。それは互いに自然と出るタイミングだった。
「気が合いますね」
やはりどちらからともなく微笑んだ。
頂上に近づいていく。その疲労からか、二人の口数は徐々に減っていく。だが必要な言葉もそれに合わせて少なくなっていく。
何より気が合うのだ。声をかけずとも、お互いを自然とフォローする。
二人にはもはや言葉は要らないようだ。
息づかいを聞くだけで、相手のペースが分かった。頷くだけで、止まる、歩くのタイミングが知れた。目を合わせるだけで、相手の気持ちが伝わってくるような気がした。
気持ちが高ぶってくる。
運命すら感じていたのかもしれない。
荷物は重い。汗は身にまとわりつく。呼吸は乱れている。疲労は足にきている。
だが二人はどちらともなく手を取り合い、山頂への最後の一歩を全く同時に踏み込んだ。
二人で登った山頂から見える、その景色。
そのあまりの美しさに――
「絵に描いたような美しさだ……」
「絵にも描けない美しさね……」
二人は内なる感動のままに、それぞれの感想を述べた。
「……」
「……」
二人は無言で下山し、麓で別れてそれっきり会わなかった。