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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
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第12章「氷が溶ける前に」


---


 白い椀が八つ、長卓の上に並んでいた。


 賓館共用広間。霜都入り二十七日目の朝。室温、零下一度。長卓の長辺の中央——ルキウスたちの向かいの席に、八つ目の椀が置かれていた。


 給仕の手順に従い、湯気が八つ分、立ち上っていた。立ち上り方が、七つと一つで違っていた。七つの椀の湯気は卓上で三呼吸ほど形を保つ。八つ目だけは、二呼吸の途中で輪郭を失った。失った跡から薬草茶の苦い匂いが、長辺中央の空席の上で、他の七つより薄く揺らいだ。湯気が運ぶべき匂い分子の量が、八つ目の椀の上だけ、半分に満たない。


 誰も座らない椅子の背に、碧光が落ちていた。影が他の七脚より一段濃く、床の石目を暗く沈ませている。沈んだ石目から、岩盤の冷気が、卓の脚を伝い、靴の踵の裏にまで上ってきていた。


 ユエンの碧い瞳が、その湯気の消失速度を計測した。


 〇・四秒早い。


 昨朝より、〇・一秒早い。一昨朝より、〇・二秒早い。


 数値が浮上したまま、訂正語彙は来なかった。


 来ないという事実を、ユエンは認識した。認識した上で、置いた。保留の棚の八段目——名称未定の段——には、もう送らなかった。送るという動作自体が、今朝は、来なかった。


 卓の周囲、七人の輪郭。


 長卓の短辺の角にユエン。報告会の進行役として、向かいの短辺に首席司書が臨席していた。長辺の一方の中央にルキウス、その右にシグル、左にライラ。向かいの長辺の、ルキウスの正面に当たる位置——八人目の席。その右にシリン、左にオーシン。長辺の端、ルキウスから最も遠い位置にアシュル。


 誰もそれを話題にしない。


 話題にしないことが、卓の上の合意だった。三十日間、毎食、八つ目の椀の湯気だけが他より早く消える。作法だけが共有され、湯気の消失そのものを査定する言葉は、誰の発話にも乗らない。


 霜都入り初日の夜、椀が八つ並ぶのを、ユエンは長辺の角の席から計測した。三十日。八十一回の食事。誰の口からも、空席への言及は、一度も発話されなかった。発話されなかった、という事実だけが、八十一回分、保留の棚の同じ段に積まれていた。


 今朝も、その段の高さは、変わらない。


 シリンの視線が、ほんの僅か、八つ目の椀の方角へ滑った。


 〇・二秒。


 すぐに戻った。戻る速度が、十二日前の朝と同じ。十二日前から、シリンの視線の往復速度は、変わっていない。


 変わっていないという事実だけが、宙に置かれた。


 首席司書が碧い氷の杯に薬草茶を注いだ。注ぎ口から杯の縁へ落ちる湯の音が、卓の天板の上で短く響いて消えた。匂いの帯は、ユエンの鼻腔の奥に届く前に、舌の根元の苦味の記憶を、ほんの僅か、突いた——入都の朝、門前区で計測した、あの帯域。


「では——成果のご報告を、序列の若い方から順に」


 司書の声は、紙を読む声だった。情報の伝達のためだけの声。蒼氷派の標準的な発声。


 ルキウスの左隣で、ライラが顔を上げた。


---


「ライラはね、欠けた番号を、追ってたの」


 ライラの声は、いつもどおり少し遠かった。耳に届く音と、口の動きの位置が、僅かにずれて聞こえる種類の声。


「ライラの試煉のお題は、『失われた物語の地図を作ること』。蒼氷派の凍結番号って、欠けてる場所が、模様みたいに並んでるの」


「……地図」


 オーシンの声が、低く、半拍遅れて重なった。空席を挟んでシリンと並ぶ位置で、白い陶器の椀の縁を両手で包んだまま。


「うん。地下の三層から、地上の三層まで——五-五十-連番の帯と、四-八十-連番の帯。あと、二-四十-連番の、古い場所」


「鎖の番人が、灯を一つだけ持って、立ってた——みたいな話」


 長辺の端、アシュルの肩が、ほんの僅か、動いた。


 動いた、というのは、ユエンの補正後の判別だった。動かなかったように見えるが、動いた。肩甲骨の右側、衣の上に走った線の角度が、〇・五度ずれた。ライラが「鎖の番人」と発音した瞬間に。


 アシュル本人は、頷きも返事もしない。ただ、湯気の上の視線が、半呼吸分、卓の縁の方へ落ちた。


「灰鎖派、と呼ばれていた家ですわね」


 シリンが穏やかに引き取った。声に温度はないが、温度がないという形で温度を扱う種類の声。


「ライラ殿の蒐集された欠番の分布——もう少し、後ほど、共有させていただいてもよろしいかしら」


「うん。ライラの紙、見せてあげる。あんまり、整ってないけど」


「整っていない方が、わたくしは助かります」


 シリンの口元の角度が、ほんの僅か、上がった。上がり方が、卓の上の他のどの動作とも、違う種類の上がり方だった。


 ユエンは、その輪郭の重なり方を、宙に、置いた。解釈は、来なかった。


「次、僕」


 オーシンが声を発した。発する前に、卓の縁を両手で確かめる動作が一つあった。卓があることを、もう一度、掌で確かめる動作。


「凍結番号の、三十——『地理・気候』の帯を、追わせてもらいました。穀倉地帯の、過去三百年の、降雨と土壌の記録。一年単位の、変動と——」


 オーシンの声が、一度、止まった。


 止まった位置は、「変動と」の後ろ。発話の続きが来るべき箇所に、半呼吸分の空白が置かれた。


「——それで」


 ようやく続いた。


「直近三年の、土壌の枯死の、面積。三年前に比べて、倍に、なってます。記録上の、自然変動の幅を、超えてます」


 声に芯が通り始めた。声の通り方が、口からではなく、首の付け根の窪みから来ていた。


 大地の話になるとオーシンの声が変わることを、ユエンは知っていた。査定モデルでは「予測可能な変数」に分類している。だが今朝の声は、その分類の枠の外に、僅かに、はみ出していた。


 ルキウスの右隣、シグルが、顎を引いた。


「三年前から、倍」


 シグルの声は短かった。前置きを省いた声。


「オレの方も、それだ」


 卓の上の視線が、シグルの方へ、寄った。


「凍結番号の、五——『軍事』の帯。北方の魔獣の出現頻度。三年前から、倍。同じ数字だ。違う場所、違う種、違う帯。同じ倍。理屈はオレにはわからん。だが、肌で覚えがある」


「同じ三年だ」


 卓の上に、沈黙が一拍だけ積もった。


「凍結番号の、四十——『歴史・年代記』の帯」


 ルキウスの声は、簡潔で、断定的だった。光の品格と呼ばれる発声法。


「太陽派の——わたしの家の——三百年前以前の記録に、欠けがある。詳細は、後ほど、書面で。今朝、申し上げておきたいのは、欠けの形が、ある一定の様式を持っているということだ。様式は——シリン殿の月影派の記録の欠けと、構造的に、同じだ」


 シリンの瞳が、僅かに、光を増した。


「同じ形」


「同じ形の削除が、二つの家の記録の、同じ時代に、走っている。家の名誉のために、これ以上は、書面でのみ申し上げる」


 ルキウスの声は、家の名誉、という語の上で、不自然に止まらなかった。整いすぎた速度の中を、整える前に通過した何かの痕跡だけを、ユエンは、書いた。


---


 シリンが、目を伏せたまま、白い指を卓の縁に滑らせた。


「凍結番号の、四十、四十五、六十の三帯——『歴史・年代記』『宗教・信仰』『家系・系譜』」


 声は涼やかだった。


「わたくしの試煉の対象は、三百七年前の冬の——『帝国編年大成』第三十七巻の、欠番の所在の、確認でしたわ。書架の研磨痕も、目録室の余白の書き換えの跡も、確認させていただきました。詳細はやはり、書面で。ただ、この場で——」


 シリンの視線が、ほんの僅か、八つ目の椀の方角へ、もう一度、滑った。


 今度は、〇・三秒。


 〇・一秒、長くなっていた。


「——この場で、ひとつだけ、申し上げておきたいことがございますわ」


 シリンは顔を上げた。卓の正面、首席司書ではなく、長卓の中央——八つ目の椀のさらに向こう、誰も座らない椅子の背に向かって、視線を置いた。視線を置く先が、人ではなく、空席だった。


「三百年前の冬の記録の中に、ひとつ——八番目の席の話が、残ってございました」


 卓の上の湯気が、八つ分、揺らいだ。八つ目の椀の上の湯気だけが、他の七つより半拍早く、ふっと、形を失った。


「監査の席、と書かれていましたわ。見張る側、ではなく——均衡を、見る席。詳細はやはり、書面で」


 シリンの声は、最後まで、温度を持たなかった。


 月影派が本来「見張る家」ではなく「均衡を見る家」であった、という史的位置づけは、蒼氷派の書院でも教えられていた。教科名と頁番号の索引が、ユエンの内側で、即座に呼び出された。呼び出した上で、査定モデルは、続きを構成しなかった。


 書院の頁の上の「八番目の席」は、抽象的な制度概念だった。三百年間、概念のままで保留されていた席が、今朝シリンの口から、卓の上の特定の椅子の背に結びつけられた。結びつき方の速度を、ユエンの査定モデルは予測していなかった。予測の枠の上端を、〇・四秒ぶん、超えていた。


 超えた、という事実だけを、ユエンは、書いた。


 ユエンは、八つ目の椀の方角を、見なかった。


 見ない、という動作を、選んだ。


 選んだという事実を、誰にも気取らせない速度で、選んだ。


 その選びの速度が、十二日前より、〇・二拍、遅くなっていた。


 遅くなったという事実だけが、ユエンの内側で、短く立って、消えた。


「アシュル殿」


 首席司書が、進行を、長辺の端のアシュルへ移した。


 アシュルが、半呼吸分、姿勢を整えた。整える、というより、整っていた姿勢の中で、首の角度が一度だけ、卓の中央へ落ちた。


「俺の方は——凍結番号の、二十——『魔法』の帯。それから、地上六層と七層の、原炎期の文書」


 アシュルの声は、短かった。短く抑制された声の中に、敬語と素の口調の境目が、僅かに揺れていた。


「読めた巻数は、六。途中までしか読めなかった巻が、四。読めない巻が、まだ多い。ただ——」


 アシュルの視線が、卓を越え、ユエンの肩の向こうへ滑った。


「『鎖魂の七結』、という言葉が、原典にあった。七者の魂の回路を接続する術式の、正式な、名称だ」


 卓の上に、四秒、沈黙が積もった。


 ライラが、白い指で、自分の左手首を、軽く、押さえた。押さえる動作の意味を、ユエンは知らない。査定の枠に置けない。置かないことを、選んだ。


「灰鎖派の番人が、起点を担っていた——という記述も、あった」


 アシュルは、それ以上、続けなかった。続けるべき政治的言語は、彼の声の中に用意されていなかった。続けるべき言語の不在が、卓の上に、一つの空白として、置かれた。


 その空白の縁を、誰も、踏まなかった。


 踏まないという卓の上の合意が、薄く、置かれた。


 ルキウスの瞳が伏せられ、シリンの口元が結ばれた。シグルの顎が、半寸、引かれた。オーシンは、卓の縁を、両手で確かめ直した。ライラは、左手首を、押さえ続けていた。


 六つの動作が、同じ拍の上に、揃った。


 揃ったという事実だけが、卓の上を、薄く、渡った。


---


 首席司書の視線が、卓の西側に、移った。


 ユエンの番だった。


 ユエンは、姿勢を変えなかった。掌の上で、記録板の角を、卓の角と揃え直した。


 揃え直す速度が、いつもの速度より、〇・二秒、遅かった。遅かったという事実を、ユエン自身が、計測した。


「凍結番号の、十——『経済・租税』、および、十五——『法令』の帯」


 声は低く、乾いていた。標準。


「シュアン家の蔵書体系における、過去三百年の、動向の、要約は、書面で提出いたします。ここでは、要点のみを」


 ユエンは、八つ目の椀の方角を、見なかった。長辺の端のアシュルの方角へ、視線の角度を、〇・五度、傾けた。傾けた角度が、計測の標準範囲の、上端だった。


「アシュル殿のご報告にあった、『鎖魂の七結』に関する記述——その一部は、シュアン家の凍結番号の体系の中で、別の主題分類の帯に、横断的に現れています。具体的には、二十五——『継承の儀・血統』、八十——『言語・文字』、四十五——『宗教・信仰』。三帯の交叉点に、一冊、関連する写本が、地上五層に、ございます」


「五層」


 アシュルが、半拍、置いて、繰り返した。


「写本一冊。標題は——『七結の起点と、その移譲についての考察』。著者の家名は、削除されています。成立年、推定で、二百九十二年前。焔武帝の勅令の、五年前」


 卓の上に、誰も、息を、吐かなかった。


 ユエンは、続けた。


「写本の存在は、シュアン家の内部記録にのみ、記載されています。外部の目録には、ございません。記録権の——」


 ユエンの声が、ほんの僅か、止まった。


 止まる位置が、いつもの位置より、半文字、後ろにずれていた。


 止まったまま、〇・八秒、訂正語彙が、来なかった。


 卓の上の七人の視線が、その〇・八秒の宙の中で、ユエンの口元に集まった。集まり方の角度が、それぞれ違っていた——アシュルは正面、ルキウスは半側面、シリンは伏せた瞳の上から、シグルとオーシンとライラはそれぞれ違う遠さの場所から。


 首席司書だけが、目を、卓の上の自分の杯に、落としていた。


 司書の指が、杯の縁から、半寸、浮いた。浮いたまま、戻らなかった。


 ユエンは、その浮きを、計測した。


「——記録権の条件を、撤回します」


 声が、出た。


 出た瞬間に、ユエンは、その声の周波数を、自分で計測した。


 標準より、半度低い。


 低い理由を、言語化しなかった。言語化しないことを、選んだ。


「写本の中身は、本日午後、地上五層の小閲覧室にて、七人全員に、開示します。手袋の着用は、義務とします。閲覧時間は、各人、半刻。記録は——」


 ユエンの声が、もう一度、半拍、止まった。


「——記録は、各人の責任で、行ってください。シュアン家は、記録の独占を、求めません」


 首席司書の指が、杯の縁の半寸の上で、動かなかった。


 ユエンは、司書の方角を、見なかった。見ない、という選択が、〇・五秒の中で、行われた。


 長辺の端、アシュルの瞳が、ユエンの方角に向いた。瞳の焦点は、ユエンの顔面ではなく、肩の右側——標題が読まれた瞬間に動かなかった肩——の方角に、半呼吸分、留まった。


 アシュルが、口を開いた。


「……ありがとう」


 短かった。


 ユエンの内側に、訂正語彙が、浮上しかけた。「礼は不要です」「合理的判断です」「家の利益の——」。候補が、三つ、〇・三秒のうちに並んだ。


 三つとも、発話されなかった。


 発話しないという選択を、ユエンは、計測しなかった。計測の装置が、もう一度、止まっていた。


 代わりに、声が、別のものを、出した。


「……どういたしまして」


 声が、自分の唇から出た瞬間に、ユエンは、その声を、外側から聞いた。


 「ございます」も「我々」も、その一文には、入っていなかった。


 入らなかった、という事実を、ユエン自身が、ようやく、〇・四秒遅れて、認識した。


 卓の上の湯気は、もう、八つとも、消えていた。湯気が去った後の白い陶器の表面に、卓上の冷気が薄く降り、椀の縁が、外気と同じ温度に、ゆっくりと近づき始めていた。


 胸腔左上の位置——ライラの方角——で、〇・〇五度、温度が、上がっていた。


 上がった事実を、ユエンは、計測した上で、訂正しなかった。


 首席司書の指が、評価表の上に、戻った。指の腹が、卓の上の七つの席を、ひとつずつ、なぞる順序で、評価の印を、置いていった。なぞる速度の中で、指は、ユエンの席ではなく、長辺の端のアシュルの席の方角で、半寸、長く、留まった。


 留まった半寸を、ユエンの碧い瞳は、計測した。


 計測した上で、内側の査定モデルが、ひとつの結論を置いた——蒼氷家の蔵書体系の熟知度による量的な成果は、卓の上で最大値を示した。だが、原炎期の文献の、削除された家名の下の写本一冊を地上五層から本日午後に読み出せる人間は、卓の上に一人しかいない。その一人は、ユエンではない。


 訂正は、来なかった。


---


 報告会が散会した後、ユエンは廊下を歩かなかった。


 賓館の共用広間を出て、連絡橋を渡らず、図書館本館の北側の階段を、下に降りた。地上一層、地下一層、地下二層、地下三層。


 さらにその下——岩盤を掘り抜いた、誰の手も触れない通路の入口の前で、ユエンは立ち止まった。


 扉はなかった。


 ただ、岩盤の中に、人ひとりが屈んで通れるだけの開口部があった。縁の石は、研磨されていない。掘り抜いた当時の鑿の跡が、千年分、そのまま残っている。鑿の跡の凹凸の上に、薄く、霜の粒が、結晶していた。


 地上6〜7層の死蔵区画よりも、さらに一段、低い気温——零下五度——が、開口部の向こうから、額の皮膚に、ひと触れだけ、届いた。届いた冷気の中に、紙の酸化の匂いはなく、鉱物の匂いだけが、純粋に、立ち上っていた。


 ユエンは、屈まなかった。


 屈むという動作が、今朝は、来なかった。


 あの水面を最後に見たのはいつだったか。


 その問いが、肋骨の裏側で、形を持った。問いは、現在形を、避けた。「今、見るか」ではなく、「最後に見たのはいつか」という形で、立ち上がった。立ち上がり方の角度が、過去の方角を指していた。


 地下三層のさらに下の、岩盤の中の空洞。凍った水の上に、儀式の間がある。継承の儀の場。氷結魔法そのものが液体のように身体を包み、外側からではなく内側から凍らせていく場所。


 最初に凍ったのは怒り。次に悲しみ。それから喜び。最後に凍ったのは——恐怖。


 恐怖が凍った瞬間、もう何も怖くなくなった。だが同時に、何も美しくなくなった。


 ユエンは、その記憶の系列を、外側から、もう一度、読んだ。


 読むという動作は、いつもの動作だった。記憶を、他人の症例のように、扱う動作。だが今朝は、読み終わった後の余白が、いつもより、半段、広かった。


 広い余白の中に、訂正語彙は、来なかった。


 「美しい」という語の、対極にある語の方が、来なかった。


 ユエンは、開口部の前から、半歩、退いた。


 退く動作の、踵の角度が、〇・三度ずれた。揃え直さなかった。


 揃え直さないという動作の不発動が、卓の上の選択と、同じ系列に並んでいた。並んでいるという事実だけを、ユエンは、認識した。


 岩盤の通路の奥から、ごく微かな、音が、届いた。


 水音ではなかった。氷の粒子が、互いの位置を、半分子分、ずらす音。聴覚の閾値の、ぎりぎり下の、帯域。蒼氷派の書院で訓練された耳でなければ、聞こえない音。


 閾値の下に普段は沈んでいる音が、今朝、なぜか、閾値の縁に、上っていた。


 耳の奥の鼓膜の裏側で、その音は、骨の中の細い管に響くような形で、半呼吸分、留まった。留まった残響の温度が、額に届いた冷気の温度より、わずかに、温かかった——春の解氷の音が持つ、温度の方向。


 氷が、溶ける、前に——


 その四文字が、内面で、形になりかけた。


 形になる前に、ユエンは、踵を返した。


 踵を返す動作の中に、自己欺瞞は、入らなかった。聞こえなかった、という嘘も、聞こえた、という認識も、両方とも、入らなかった。


 ただ、踵が、回った。


 地下三層の階段を、上に向かって、ユエンは登った。


---


 地上一層の主階段の中段で、人影が、待っていた。


 アシュルだった。


 手袋を外していた。両手の指先が、外気に晒されていた。指先の皮膚が、白く、僅かに、震えていた。


 震えの周期が、氷の図書館の上層に通い始めた朝の震えより、〇・〇五秒、長くなっていた。長くなった震えだけが、卓の角と同じ精度で、ユエンの内側に、揃った。


 階段の中段の石の表面に、二人の足音だけが残り、足音と足音の間の冷気が、アシュルの剥き出しの指先と、ユエンの手袋越しの掌の間に、薄い帯を、置いた。


「ユエン殿」


 アシュルが、呼んだ。


「ウルク家代表」


 ユエンは、応じた。応じる声の温度は、低い。低いことを、保つ。


 保つという動作の重さが、いつもの重さより、半段、増えていた。増えた重さを、ユエンは、両足の裏で、引き受けた。


「先ほどの——記録権の撤回について、改めて、聞いていいか」


「はい」


 声が出た。「はい」の長さが、いつもより、〇・一秒、短い。短い理由を、言語化しなかった。


「家の利益に、反するんじゃないか」


「はい」


 二度目の「はい」は、一度目より、〇・一秒、長かった。


 アシュルの視線が、ユエンの顔面ではなく、ユエンの右肩——地上五層の方角——を、半呼吸分、追った。追って、戻ってきた。


「だが、撤回した」


「はい」


 三度目の「はい」は、二度目と、同じ長さだった。


 アシュルは、それ以上、踏み込まなかった。踏み込まないことを、選んだ。選び方の角度が、〇・五度、八つ目の椀の方角から、外れていた。


「……ただ」


 アシュルの声が、半拍、止まった。


「ただ、封書庫外壁の——七つ目の、その先の。八文字目以降の、解読は——続けてくれるか」


 古代文字の話だった。


 封書庫外壁の、七つ目の文字。昨日、二人で読んだ位置。八文字目以降は、アシュル一人では、読めない位置。ユエンの索引と、シュアン家の主題分類と、地上五層の写本との交叉点。今朝、撤回した記録権の、その先の作業。


 ユエンは、応じる前に、自分の声の温度を、内側で、確かめた。


 半度、低いまま。


「封書庫外壁の、八文字目以降の解読は、続けてください」


「……ああ」


 アシュルの声は、卓の上の空白の縁に置かれた、あの「ありがとう」と、同じ温度だった。


 二人の間に、もう、言葉は、発生しなかった。


 アシュルが、回廊の北側へ、歩き出した。両手の指先は、まだ、晒したまま。手袋を、嵌め直さなかった。


 嵌め直さないという選択を、ユエンは、見送る視線の中に、置いた。保留の棚の、八段目には、送らなかった。


 送らないという選択が、ユエンの内側で、もう一度、来た。


---


 翌朝。


 霜都入り二十八日目。第二刻。


 共用広間の卓の上に、八つの椀が、並ぶ前に、賓館の正門の方角から、足音が、届いた。


 規則のない足音だった。蒼氷派の給仕の足音ではない。図書館の司書の足音でもない。外から来た者の、息の上がった足音。


 オーシンの随員だった。


 深根派の若い使者。土の色の旅装。両肩の上に、まだ、外気の冷気が、白く、貼り付いていた。


 広間に踏み込んだ瞬間、卓の上の薬草茶の匂いの層を、別の匂いの帯が、突き破った。乾いた汗、馬の毛、泥——そして、霜都の高原には決して存在しない匂いが、その奥に、一筋、混じっていた。穀倉地帯の、肥えた黒土の匂い。蒼氷派の鼻腔がほとんど経験したことのない、有機の、湿った、重い匂い。


 匂いは、卓上の白い陶器の縁の冷気と、互いの背中を見せ合いながら、長辺中央の空席の方角へ、ゆっくりと、流れた。


「オーシン様——ケルナッハ様」


 声が、震えていた。震えの周期が、卓上の湯気の揺らぎより、僅かに、速かった。ユエンの碧い瞳が、計測した。


「西の——西の畑の——」


 使者は、息を、整えるために、半呼吸、待った。整えるための呼吸の中に、馬上で長く晒された喉の粘膜の乾きが、ひと音、混じった。


「五日前に、もう一面、枯れました。続けて、北の二面も。土の表面が——黒く、硬く、なっています。例年の枯死とは、違います。種を、もう、植えられない、土になっています」


 オーシンが、立ち上がった。


「立ちます」


 声は、低かった。低いが、首の付け根の窪みから、芯が、通っていた。


「行きます。今、行きます。穀倉地帯へ、戻ります」


 卓の上の七人の輪郭が、一斉に、揺れた。


 揺れ方が、それぞれ違っていた。


「行こう」


 シグルだった。


「オレも行く」


 シグルの声は、短かった。前置きを省いた声。


「オレ——いや、オレは、北方の魔獣の話と、土の話、別の話だと思って、報告した。だが昨日、シリンの八つ目の椀の話を聞いて、別の話じゃないかもしれん、と思った。同じ三年だ。同じ場所には、行かなきゃならん」


 シグルが、自分の一人称を、卓の上で、初めて、はっきりと、出した。


 オレ、という二音節。


 卓の上に置かれた瞬間、シグルの肩の角度が、半度、開いた。開いた角度が、七人に向かって、開いていた。


 閉じていた連帯が、二音節の上で、開いた。


「……行く」


 ルキウスの左隣で、ライラが、声を発した。


 その声は、いつもの「ライラはね」ではなかった。


 主語が、落ちていた。


 ライラ自身も、そのことに、気づいた様子はなかった。ただ、白い指で、左の手首を、軽く、押さえていた。押さえる動作が、昨朝より、少し、強かった。


 ルキウスが、立ち上がった。


「同行する」


 短かった。


 「考えておく」も「聞こう」も、その一文には、入っていなかった。


 シリンが、白い指を、卓の縁に置いたまま、僅かに、頷いた。


「わたくしも、ご一緒いたしますわ」


 アシュルは、立ち上がる前に、自分の両手の指先を、見た。


 手袋は、嵌めていなかった。指先は、まだ、白く、震えていた。震えを、見たまま、半呼吸、置いた。


 それから、立った。


「俺も行く」


 六人の視線が、ユエンの方へ、移った。


 ユエンは、姿勢を変えなかった。


 手袋越しの右手で、記録板の角を、卓の角と、揃え直した。揃え直す速度が、いつもの速度に、戻っていた。


「シュアン家代表として、同行いたします」


 声は、低く、乾いていた。標準。


 「我々」は、浮上しなかった。


 浮上しなかった、という事実だけが、ユエンの内側に、薄く、立った。送る、という動作は、もう一度、来なかった。


 来ない動作の不発動が、卓の上の七人の選択と、同じ系列に、並んでいた。


 立ったまま、ユエンは、椅子を、引いた。


 椅子の脚が、花崗岩の床を、擦った。


 擦音の高域成分が、首の後ろに、短く、刺さって、消えた。


---


 午刻。


 出立の準備が、賓館の前庭で、整えられていた。


 馬が七頭。荷車が二台。深根派の使者の連れてきた馬を加えて、八頭。八頭目の馬は、卓の上の八つ目の椀と、同じ位置で、待機していた。誰の馬でもない、と、形式上、定められていた。実務上は、共用の替馬として、扱われていた。


 ユエンは、地上五層の私室に、最後の一刻、戻った。


 扉の前で、半呼吸、止まった。


 白い石の扉の中央——碧い氷の象嵌の上に、髪の毛一筋ほどの細い裂け目が、走っていた。昨夜、就寝前に確認した時には、なかった裂け目。


 象嵌の奥で、氷の粒子が、互いの位置を、半分子分、ずらす音が、半拍ぶん、届いた。聴覚の閾値の縁。昨朝、地下三層の通路の奥から届いた、あの帯域の音と、同じ周波数。


 ユエンは、その裂け目を、計測した。長さ、十二分の一寸。深さは、肉眼の閾値の縁。


 計測した上で、訂正しなかった。


 扉を開けた。


 白い石壁の小部屋。書架と文机と椅子と寝台。室温、零下二度。標準。


 記録板は文机の中央に置かれ、板の角は卓の角と、正確に揃っている。揃えたのは、昨朝のユエン自身。揃え方が、過剰だった。過剰さの中に、補償が、入っていた。


 ユエンは、文机の前に、立った。


 立ったまま、半拍、動かなかった。


 半拍の間、書架の下段の方向から、微かな匂いが、立ち上った。時間の止まった水の匂い。地上六〜七層の空気が、外套の繊維に、長く染み付いていた匂い。私室の中で、その匂いだけが、継承の儀の間と、同じ嗅覚記憶の段に、登録されていた。


 鼻腔の奥で、匂いが、舌の根元の方角へ、ひと滑り、降りた。降りた先で、薬草茶の苦味の記憶と、ほんの僅か、触れた。触れた接点の温度を、ユエンは、計測しなかった。


 その匂いを、今朝は、意識した。


 意識した、という事実を、認識した。


 認識した上で、文机の抽斗に、手を伸ばした。


 取っ手の前で、指は、止まらなかった。


 止まらなかったという事実が、卓の上の選択と、廊下のアシュルとの対話と、扉の象嵌の裂け目を訂正しなかった選択と、同じ系列に、並んだ。


 並んだ系列の上で、指は、取っ手を引いた。


 抽斗が、開いた。


 帳簿の間から、薄い冊子を、取り出した。冊子の表紙は、何の標題もない、白い紙。内側に、押し花が、数十枚。幼少期から蒐集した、霜都の短い夏に咲く、高山植物の花弁。


 ユエンは、冊子を、文机の上に、置いた。


 頁を、ゆっくりと、繰った。


 三枚目の頁で、指が、止まった。


 薄紫の花弁。高山に咲く、夏の終わりの花。中心の花床は、乾燥して薄い茶色に縮んでいるが、花弁の縁の薄紫だけは、二十年前の色を、保っていた。保っている色の名前を、ユエンは、知っていた。知識として、知っていた。


 知っていた、という形で、知っていた。


 ユエンは、手袋を、外した。


 外す動作は、〇・四秒で、行われた。標準。


 剥き出しの指先を、押し花の、花弁の縁に、置いた。


 接触時間、一秒。二秒。三秒。


 入都の朝の時点では、三秒で、指は離れていた。


 四秒。五秒。六秒。七秒。


 数日前の夜の時点で、七秒に、達していた。


 八秒。九秒。十秒。


 今朝、初めて、十秒を、超えた。


 十一秒。十二秒。


 花弁の中心部の温度が、指先の体温で、ごく僅かに、上がり始めた。休眠していた揮発性の分子が、指先の上の空気を、ひと滴分、甘い方角に、傾けた。薬草茶の苦味とも、書架の水の匂いとも、別の段に、登録されていた、あの帯域——砂糖をまぶした温かい餅の、湯気の向こうで母が笑っていた、八歳の日の、舌の上の二音節。


 タグの名前だけが届き、感覚の中身は、まだ、凍ったままだった。


 戻った分子の量を、ユエンの碧い瞳は、定量化しなかった。


 代わりに、声が、出た。


「……美しい」


 二音節。


 声は、低く、乾いていた。だが、温度が、半度、高かった。半度の温度が、二音節の中に、入っていた。


 訂正語彙が、浮上しかけた。


 「効率的な構造の——」「色素分子の——」「植物学的な——」。候補が、三つ、〇・三秒のうちに、並んだ。


 三つとも、発話されなかった。


 発話しないという選択を、今朝は、ユエン自身が、訂正しなかった。十秒を超えた接触時間の延長と、同じ系列に、並んだ。


 ユエンは、指先を、押し花の縁から、離さなかった。


 その瞬間、指先の関節の筋に、絹糸より細い、震えが、走った。


 震えの周期は、数日前の夜の、抽斗の取っ手の前の震えと、同じ周期。今朝は、抽斗の前ではなく、押し花の上で、発生していた。


 震えの上で、指は、離れなかった。離さないという動作が、訂正の不在と、同じ列の、もう一段、内側に、置かれた。


 二〇秒。


 二〇秒の間、何も、計測されなかった。何も、保留されなかった。何も、訂正されなかった。


 ただ、置かれた。


 名前のないまま、押し花の上に、指先が、置かれた。


 指先と花弁の縁の接触面で、皮膚の体温と、二十年分の乾いた色素が、ごく僅かな熱の橋を、渡した。橋の上を、甘い帯域の分子が、ひと滴ずつ、室温の方へ、抜けていった。


 室内の空気の中で、薄紫の匂いの濃度は、定量化できない量で、〇・〇〇〇何かの位の、上昇を見せた。


 窓の外の夕光が、まだ、薄紫の方角に、傾く前。


 二〇秒の不在の終わりに、ユエンは、ようやく、指を、離した。


 離した指先は、押し花の温度と、僅かに、近い温度になっていた。指先の皮膚が、それを感知した。


 感知した感覚の名前を、ユエンは、知識として、持っていた。だが今朝は、その名前を、内面で、構成しなかった。


 ユエンは、その三枚目の頁の、薄紫の花弁を、一枚だけ、選び取った。


 文机の上の文具入れから、別の薄い透き紙を、取った。花弁を、その中央に、挟んだ。透き紙の縁を、二度、折った。折る指の動きに、揺れは、なかった。


 冊子を、閉じた。


 閉じる音は、しなかった。


 冊子本体は、文机の抽斗の、もとの帳簿の間に、戻した。


 透き紙に挟んだ、薄紫の一枚——それだけを、外套の内側の、胸の高さの内ポケットに、滑り込ませた。袖口ではなかった。胸の、心臓の左上の位置——血盟以降、ライラが近づいた時に、〇・〇四度、温度が上がる、あの位置。


 花弁を挟んだ透き紙の、薄い厚みが、外套の内側で、平らに、収まった。


 収まった瞬間、その位置の皮膚の温度が、〇・〇五度、上昇した——朝の卓の上で、湯気が消えた後に計測した、あの上昇と、同じ位の温度差。


 ユエンは、手袋を、嵌め直した。


 嵌める動作の中に、揺れは、なかった。


 部屋の扉を、出た。閉めた。白い石の扉の中央の、碧い氷の象嵌の、細い裂け目は、入室時より、髪の毛半分ほど、長くなっていた。長くなった、という事実だけを、ユエンは、書いた。


 地上五層の回廊を、降りた。


---


 賓館の前庭。


 六人が、既に、馬の傍に、立っていた。


 前庭の石畳の上に、馬の体温と、八頭分の呼吸の白い湯気と、革と藁と汗の匂いが、層をなしていた。共用広間の薬草茶の苦味とは別の段の匂い。生き物が動いている匂い。蒼氷派の鼻腔がほとんど登録していない、有機の、温度のある、層。


 オーシンが、深根派の使者の馬の鞍に、両手を、置いていた。両手の掌で、鞍を確かめる動作。卓があることを確かめていた、あの動作と、同じ動作。


 シグルが、自分の馬の手綱を、左手に、握り直した。握り直す動作の角度が、卓の上で「オレ」と置いた時の、肩の開きと、同じ開き方をしていた。


 ライラが、ルキウスの馬の鼻先を、白い指で、軽く撫でていた。撫で方が、いつもの撫で方より、少し、強かった。「ライラはね」と言わない、強さだった。


 シリンが、自分の馬の鞍に、革の小さな袋を、結んでいた。結び方が、月影派の標準ではなかった。半結び、ゆるい。ゆるい結び方が、卓の上の「覚えておきますわ」と、同じ系列に、置かれていた。


 ルキウスは、自分の馬の傍に、姿勢正しく、立っていた。立ち方の中に、整いすぎた速度は、もう、なかった。整える前に通過していた何かが、整わずに、肩の上に、置かれていた。


 アシュルは、まだ、手袋を、嵌めていなかった。両手の指先が、夕光の中で、白く、震えていた。


 震えを、ユエンは、見送る視線の中に、置いた。


 ユエンは、自分の馬の傍に、立った。


 手袋越しの右手で、外套の胸の内ポケットの、平らな厚みを、確かめた。


 確かめる動作は、二度、来た。


 一度目は、論理が、確かめろ、と命じた。二度目は、命令が来る前に、手が、動いた。手が動いた後に、論理が、追いかけて、理由を組み立て始めた。


 組み立て始めた論理を、ユエンは、途中で、止めた。


 組み立てない、という選択を、した。


 した、という事実を、ユエン自身が、認識した。


 認識した上で、馬の鞍に、手を置いた。


 鞍は、冷たかった。冷たさが、手袋を通って、掌の中に、半呼吸分、届いた。届いた冷たさの上に、内ポケットに収まった、薄紫の一枚の、平らな厚みが、覆い被さって、感知された。


 二つの感覚が、同時に、来た。


 冷たさと、平らな厚み。


 二つを、同時に、ユエンは、抱えた。


 抱える、という動詞を、内面で、初めて使った。


 使った、という事実を、計測しなかった。


 代わりに、視線を、ようやく、上げた。


 六人の輪郭が、夕光の中に、並んでいた。


 卓の上で揃った六つの動作の、その続きの輪郭。


「行きます」


 ユエンの声が、低く、乾いていた。標準。


 だが、その標準の声の中に、半度の温度が、もう一度、入っていた。


 半度の温度を、誰も、計測しなかった。ユエン自身も、もう、計測しなかった。


---


 馬上に、七人。


 深根派の使者を加えて、八人。


 八人目は、共用の替馬の鞍の上ではなく、使者の鞍の上に、座っていた。卓の上の八つ目の椀の、不在の構造とは、違う構造だった。違う構造の上で、八人目は、息を、整えていた。


 賓館の正門を、抜けた。


 門前区。霜都の西端。東方街道へ続く、出立の門。


 地面に薄く積もった霜が、馬の蹄鉄の下で、乾いた音を立てた。


 門前区の空気の中に、二十七日前の入都の朝、ユエンの鼻腔を、ほんの一筋、通過した、あの薬草茶の匂いが——高山植物の根と葉を煎じた、苦い帯——同じ位置に、同じ濃度で、立ち上っていた。あの朝、嚥下反射を引き起こした、あの帯。


 今日は、嚥下反射は、来なかった。


 来ない代わりに、舌の根元の苦味の記憶が、〇・三秒、卓の上の白い椀の縁の、湯気の消失速度の方角へ、傾いた。


 ユエンは、振り返らなかった。


 振り返らない、という動作の中に、振り返る、という動作の不発動の余地を、置かなかった。置かないという選択が、廊下のアシュルとの対話の時の、半呼吸分の重さを、もう一度、両足に引き受けさせた。


 背後で、氷点灯が、灯った。


 夕刻の碧光。尖塔の頂部で、蒼氷派の術師が維持する、霜都の象徴。


 氷点灯の波長は、昨日の同時刻より、冷たい方向に、〇・〇五度、ずれていた。〇・〇三度から、〇・〇五度へ。三日で、二倍。


 〇・〇五度の偏差は、街道脇の霜の表面に、肉眼ではほとんど判別できない、青紫の影を、ほんの一段だけ、深く落としていた。馬の鬣の白も、霜の白も、その影を一段、内側に抱えた色で、夕光の中に、並んでいた。


 ユエンは、その偏差を、計測しなかった。


 計測する装置が、もう、ここでは、置かれていなかった。


 代わりに、背後の高原湖の方角に、ユエンの碧い瞳が、ほんの一瞬、置かれた。


 馬上の高さから、霜都の白い屋根の向こうに、高原湖が、見えた。湖面の中心線に——肉眼の閾値の縁、蒼氷派の書院で訓練された目だけが捉える、極微の偏差として——ごく細い、亀裂のしるしが、走っていた。昨日まで、なかった徴。


 同じ方角から、ごく微かな音が、届いた。


 湖面の亀裂の、最初の音。氷の粒子が、互いの位置を、半分子分、ずらす音。昨朝、地下三層の通路の奥から届いた、あの帯域の音と、同じ周波数。先程、私室の扉の象嵌の亀裂の奥から、半拍ぶん、届いた、あの粒の音と、同じ周波数。


 三つの音が、一日の中で、同じ位置に、揃っていた。


 その音は、まだ、誰の耳にも、届いていない。蒼氷派の書院で訓練された耳の、閾値の縁に、ようやく、上ってきた音。


 ユエンの耳が、それを聞いた。


 聞いた、という事実を、計測しなかった。


 代わりに、外套の胸の内ポケットの、平らな厚みを、もう一度、手袋越しに、確かめた。


 確かめる動作は、もう、二度には、ならなかった。一度で、終わった。


 一度で終わる、という事実を、ユエン自身が、ようやく、〇・四秒遅れて、認識した。


 認識した上で、ユエンは、手綱を引いた。


 馬が、動き出した。


 六頭の馬が、続いた。深根派の使者の馬が、八番目の位置で、続いた。


 東方街道の、白い高原の道。穀倉地帯への、長い、降りの道。


 卓の上の、八つ目の椀の湯気の、消失速度の話は、誰も、もう、しなかった。


 話さない、という選択を、七人が、馬上で、共有していた。


 共有しているという事実を、ユエンは、馬の歩幅の、〇・五度の揃いの中で、感知した。


 感知した感覚の名前を、ユエンは、構成しなかった。


 構成しないまま、馬は、進んだ。


 背後で、氷点灯の碧光が、灯り続けていた。


 湖面の亀裂は、まだ、誰の目にも、見えなかった。


 氷は、まだ、溶けていない。


 だが、溶ける前の、最初の音は、立ち始めていた。


 乾いた音は、八つ、揃って、東方の道へ、続いた。


---


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