5 御所の女
牛車は、がたがたと揺れながら道を進む。
はじめのうち、まほろは山吹に教えてもらった音曲を口ずさんでいたが、それにも飽きるだけの時間が流れた。唄ったところで、この状況が変わるわけでもない。山吹の術はひとに癒しを与えても、縄を解くことや役人を退けることはできないのだから。
役人はまほろが連行される理由を、尊き方を傷つけた罪のためと言った。まひろは昨夜のことを思い出す。寺で逢ったあの美しい女。思いあたるのはそれしかなかった。
彼女は狼ではなく、貴族かなにかだったのだろうか……。
牛車の車輪は壊れそうに軋んでいたが、いつしか動きを止め、まほろは外へ連れだされた。冷たい空気にさらされ、まわりを見渡す。
白木の寝殿がそびえていた。穢れを知らないような美しさの殿舎がいくつもいくつも建ち、渡り廊でつながっている。庭には小川が流され、名も知らぬ小さな花が儚げに咲いていた。花の色はすべて無垢な白だ。それにこのあたりは昨夜、雪が降ったのだろう。花にまぎれて雪もその白さで庭を彩っていた。すべてが清らかで、清浄だった。
自分の置かれた状況も忘れてその光景に見惚れてしまう。まるで極楽浄土だ。
でもここはひとの生きる場所。この国の中枢である御所なのだった。
まほろの背を、役人が押した。
「歩け」
いくつかの殿舎を通りすぎる間、御所に務めているひとびとを見かけた。すべての者が華やかな装束をまとい優雅に廊を進んでゆく。やはりそれも、極楽の世のような光景だった。
ぽつり、と頬に雫が落ちる。気づけば空には重い雲がたちこめていた。
雨だ。ひと粒ひと粒、まほろの上に落ちてくる。
大きな池に、吹きさらしの廊が張りだしていた。その先にだれかが座している。役人はまほろの背を押して廊に上げ、行け、と顎で示した。
まほろは息を吸うと、歩みを進める。
雪になりきれなかった雨たちが強さを増していく。横から入りこむ雨粒が廊の端を濡らして、床板をまばらに染めた。視界の先で、人影がふり返る。
「よく来た」
白い布が巻かれた手でまほろに座るよう促すその声に、覚えがあった。
「昨夜はすまなかったな。ずいぶん、おびえさせてしまったらしい。荷もいつのまにか寺からなくなっているし、どこに消えてしまったのかと案じていたぞ」
そう語りかけてくるのは、寺でまほろが傷つけた女にちがいなかった。
ただし、昨夜とは異なり上等な衣に身を包んでいる。そのうえ、なぜだか白の狩衣と白の袴姿だ。それは男の装束であるはずなのに、彼女はなんのためらいもなく着こなしている。
立ち尽くしたままのまほろの視線を感じたのか、女は微笑んだ。
「兄上が忙しく働いているのでな、わたしも手足となって動いているのだ。この姿のほうが都合もいいし、似合っているだろう。御所の女たちには評判がよいのだぞ」
軽やかに笑うそのひとに、まほろは聞いた。
「あなたは、だれなのですか」
女はふうと息をつき、姿勢を正す。
「女宮と、ひとは呼ぶ。わたしは今上帝の妹だからな」
言われた呼び名を、まほろは口の中でくり返した。自分には縁のないその呼び名が耳になじまなかった。それは、ひとに尊ばれ畏怖されるものだ。なにせ彼女の言うとおり、女宮とは今上帝の妹を指すのだから。そして今上帝とは、この東庵国を統べる王のこと。なによりも尊ぶべき相手だった。
彼女が女宮だなんてなんの冗談だ、と返せたらよかった。けれど、帝の妹なんて現実味のない言葉もすんなりと受けいれてしまうだけの御所になじんだ姿で、彼女は目の前にいた。わずかな間をおくこともなく、まほろは彼女の言葉を信じるしかないと悟った。そうして、青ざめた。
昨日、自分はなにをしたのか。
この高貴な女性に、傷をつけてしまったのではなかったか。
女宮はまほろを見て、愉快そうに喉を鳴らした。
「昨夜のことなら気にするな。御所お抱えの呪者のおかげで、もう傷はなくなっているのだ。こうして布を巻いていたほうが、おまえにわかってもらえるかと思っただけのこと」
彼女は、するすると手首の布を取りはらう。そこに、まほろがつけた刀傷はなかった。
「意地が悪いと思うか? すまぬな、わたしはそういう人間なのだ。ほら、手を出しなさい。丁重に連れてこいと言ったのに手荒な仕打ちをされたものだな」
女宮は懐刀を出してまほろの手首を縛っていた縄を解くと、肩をすくめて笑った。
「わたしを傷つけた罪など、はじめから問う気はない。そう案ずるな」
「……ですが、わたしは罪人としてここに来たはずでは」
「役人たちを動かすにはわかりやすい理由が必要なだけだよ」
女宮は刀を置き、代わりに脇に置いていた琵琶を引きよせた。
「昨夜の詫びに、ひとつ聞かせてやろう。おまえのように特別な力はないがな」
撥で弦を弾くと、低い音がびん、とまほろの腹をふるわせる。一音一音ゆっくりと音が紡がれていくのを、まほろは黙って聞いていた。きっと彼女は、まほろが落ち着くまでの時間を与えてくれているのだろう。
池には雨の波紋が広がり、まわりには白い花が咲いている。この御所はどこもかしこも美しく、すべてが夢のように思えてくる。まほろはゆっくりと思考をめぐらせた。
ここに呼ばれた理由が昨夜の無礼を償わせるためでないのなら、……あの一族の生き残りを捕らえるためだったのだろうか。きっと、そうなのだろう。御所はあの力を欲しているのだ。
最後の音を伸ばし、女宮は顔を上げた。
「おまえ、まほろと言ったな。わたしは、まほろの力を借りたいと思っている」
その言葉がまほろの心を刺し、彼女の視線がまほろを射た。
「――つまりは、狼守りの力を借りたいということだ」
撥を廊に置く、乾いた音だけが響く。
「おまえの一族が滅んだことを、わたしたちはずっと憂いていた。ようやく生き残った娘を見つけることができたのだ。どれほど喜んだか、わたし自らまほろを迎えに行ったことからも察しておくれ。狼守りの力は、東庵国になくてはならぬものだ。戦に優れた、その力が」
明朗な彼女の声に、まほろの頭はしびれる。――戦なんて、そんなもの。
「……恐れながら申しあげます」
塞がってしまいそうになる喉から、なんとか声を絞りだす。
「わたしには、もう、狼がおりません。戦う手など残っていないのです。狼守りの一族は滅びた、それがすべてです」




