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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
人と狼(戦編)
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8 狼の叫び

 すべてがせわしなく過ぎていく。琥春は帝たちとともに篠見(しのみ)の原近くの陣に移った。


 赤羽のいないいま、わざわざ帝が戦場に向かわなくてもいいだろうと武将たちは言ったが、帝は国の行く末を見届けると言って聞かなかった。結局、山の陣からは動かず、なにかがあればすぐ逃げるという条件で、武将たちもうなずいた。


 困ったものだなとつぶやいた女宮は、前線で指揮を執ることになっている。


 篠見の原は広い平野だった。琥春が見渡すこの原が戦場になり、骸が幾重にも重なることになる――いや、そうさせないために、自分はここにいる。


「取りこぼさぬようにする。だが、そちらも気を抜くな」

「……まだ敵を殺さずにいるつもりか」


 女宮が鋭い目を向けてきた。


「悠長なことを言っていると、死ぬぞ」

「だれも殺さないことが、まほろの望みだ」

「おまえが死んでも、あの娘は泣くだろうに」


 琥春は女宮を見て、そうだろうなと、かすかに笑った。


「半端なことをして、こちらの兵を危険に晒すことも許さん」

「わかっている。すべて生かすさ」


 琥春は小さな狼に変じると、一気に野原を駆け、西の山に入った。


 東庵国の山は獣たちが逃げ、精気がなかった。西も同じようなものだ。まだ木々の緑はあるものの、いずれ枯れていくのだろう。死に向かう気配に満ちていた。


 琥春は匂いをたどって、山を駆けた。森には似合わない鉄や火薬の匂いだ。


 踏みならされた道に出た。西の陣はこの先にあるのだろう。だが人間に用はない。琥春はひとの姿をとった。


「弥琥、いるか」


 そろって山をおりようとしていた狼たちは、突然飛びだしてきた琥春に警戒の色を見せた。みな、小さな狼の姿だ。


「……生きていたのだな」


 一頭の狼が、ひとになる。鋭い目をした弥琥は琥春をにらみ、舌打ちをした。


「まほろと契約したのか。すっかり西の呪者の力は消えているな。なぜそうまでして狼守りの一族に従う。やつらの仕打ちを忘れたか。もどってこい、琥春。おまえを敵にまわすのは骨が折れる」

「断る。俺にはまほろが必要だ」


 琥春はそう言いながら、弥琥の気配を探った。彼の中にも西の呪者の力がある。だが血の匂いはしない。ほかの狼もそうだ。彼らは血の契約をせず、呪符を使っているのだろう。


 琥春にだけ血の契約を行ったのは、琥春がまほろに執心していたからか。


「弥琥、戦から手を引け」

「ならぬ。この戦を経て、俺たちは自由になるのだ」

「身の内に不快を抱えたままでか?」


 弥琥の目もとに鋭さが増した。


「西の呪者の力は、弥琥たちにも合わないだろう。そんな者と契約しても意味がない」


 琥春が声を張ると、狼たちは戸惑うような目をして弥琥を見上げる。弥琥は舌打ちした。


「……たしかにそうだ。だが呪者と契約しなければ、俺たちは虚ろだ。俺たちは神ではなく、ただの式神なのだから、主なしでは生きられぬ」

「弥琥も、気づいているんだな」


 自分たちがすでに神の座から堕ちた身であることを。人間がいなければ生きていけないことを。それは憂い、憤るべきことだった。琥春もそう思う。もともと自分たちは神であったという誇りを、狼守りの一族に踏みにじられた。


「だが、心が通わぬ主に意味などないだろう」


 弥琥が眉をひそめる。


「心?」

「俺たちには狼守りが必要だったんだ。あの一族を裏切るべきじゃなかった。俺たちの血は、もう、そうやって生きることを定められているんだ」


 血が呪いのように一族への忠誠を誓っているのだから。


「あの一族なしで、狼は生きていけぬと?」


 弥琥は苛立ちをおさえるように髪を後ろになでつけた。だが怒りを御することはできず、その瞳に鋭い光が宿る。


「狼は、あの一族に隷属しないと生きられないと言うのか」


 弥琥の静かで激しい怒りに、まわりの狼たちがぎょっとして弥琥を見上げた。それでも彼の怒りが伝染していくのか、やがてほかの狼たちも低くうなりだす。いまにも襲いかかってこようとする彼らの瞳に、琥春はこぶしを握った。


 そうだ、あの一族は憎い。だがまほろはちがう。人間のあたたかさを、ひとつの命として扱ってもらえることの喜びを、琥春は知っている。教えてくれたのはまほろだ。操られた琥春のことも、彼女は命を懸けて救ってくれた。


「まほろは、おまえたちが思っているような呪者じゃない。彼女は狼を道具だとは思わないし、俺たちを縛るようなことは絶対にしない。契るならば彼女にしろ!」

「狼守りなど信用できぬ!」

「俺もあの一族は嫌いだった。だが、まほろはちがう!」

「黙れ!」


 弥琥の声に合わせて、狼が二頭、飛びだしてきた。またたく間に巨大な姿に変じ、琥春に喰いつこうとする。琥春も後ろに飛び退きざま、大きな獣になる。


 身体が軽い。いつもより、まわりの動きもはっきり見える。狼たちの息づかいも、草のこすれる音も、もっと遠くにある人間の兵たちの声も、すべてを耳が拾っていく。


 琥春は跳びかかる狼たちをいなして、一頭には身体をぶつけて失神させ、一頭は前脚で踏みつけた。


「殺さぬか。甘いな」


 弥琥は口もとを歪める。


 琥春の力が増していると、狼たちも気づいたのだろう。二頭のほかに襲いかかってくる者はいなかった。だが、弥琥が「行け」と命じると意を決したように飛びだしてくる。


 囲まれ、四方八方から狼の牙が、爪が、琥春の身体に傷をつけていった。それでも琥春は立ちつづける。爪で地をかき、命を奪わないように狼を制す。


 西の呪者と契約したところで、彼らが力を取りもどせていないのは明白だった。琥春のそれは、まほろと契約してもどってきたというのに。だから、自分たちはまほろでないと駄目なのだ。狼守りの一族でないと。


 狼たちをふり払いながら、弥琥を見つめた。目が合うと、彼はだれに聞かせるでもなく、つぶやいた。狼たちのうなりの中でもその声を、琥春の耳はしっかりと聞きわけた。


「あの娘がやさしかったのは、琥春にだけだ」


 弥琥の妖力が高まっていく。ひとの姿が揺らぎ、獣の匂いが強くなる。


「琥春に、俺たちの気持ちなどわからないだろうな」


 狼になった弥琥が飛びかかってきた。その勢いは琥春もよけることができず、弥琥の爪に首元を押さえつけられる。息ができなくなった。


 ――うらやましいのか、弥琥。


 そうだろう。だって自分たちは、主なしには生きられない。そうして主にふさわしいのは、まほろだけなのだから。


 ――まほろがおびえていたのは、弥琥たちがまほろを遠ざけていたからだ。狼守りの一族すべてを厭っていたから、まほろも弥琥たちには近づけなかっただけだ。


 琥春は弥琥を押しのけ、距離を取った。


 狼たちが狂ったように走り、琥春を追いつめる。後退しながら、琥春は必死に応じた。そうしながら、考える。生まれてすぐ、まほろのあたたかさに触れられたことは、なんと恵まれたことだったのだろう。人間のぬくもりを知らずに生きるしかなかった彼らは、なんと憐れなのだろう。


 多数の狼に囲まれ、琥春は息を乱し、戦った。

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