5-3 災禍
視界が黒く染まりかけた。
突然、背後で羽ばたく音がした。まほろの視界に羽根が舞う。
それは赤羽だった。赤羽が身を起こして琥春に身体をぶつけていた。
「赤羽……、まだ、動けたの?」
生きていた。死んでいなかった。まほろの涙が落ちた。
ふたつの影がぶつかりあう。まほろを襲う琥春と、まほろを庇う赤羽の争いを、呆然と見つめた。それでもわずかに残った理性が、考えろとまほろを急かす。
――わたしより西の呪者が強いなんてこと、あるはずない。わたしは正統な狼守りの一族で、琥春だってわたしと契ろうとしていたんだから。なのに、どうして。どうしてわたしの契約が負けるの。
脳が沸騰しそうなほど考えた。琥春からはまだ西の呪者の匂いがする。呪者の血の匂い――。
「血……?」
そういえば、琥春から呪者の血の匂いがしている。
はっとした。その気づきが身体を貫く。
もしかして、契約の仕方がちがうのだろうか。
まほろは獣が呪者と契っているのかどうか気配でわかる。赤羽と帝の契約も感じ取ることができていた。だが獣から血の匂いがしたことは、いままでなかった。
呪符を介した契約で、獣に血の匂いは移らない。ならばきっと琥春は呪符を使っていないのだ。彼は直接呪者の血を呑んだのかもしれない。それは狼守りの一族でかつて使われた契約方法だった。呪者と狼が互いの血を呑むことで成立するが、狼と強いつながりを持てる反面、強制力が強く負担も大きい。そんな深すぎる縁を結ぶべきではないと、一族では呪符を用いた術が主流になった。
琥春は西の呪者と、血の契約をしたのかもしれない。だから、まほろの契約で塗り替えることができなかった。呪符の契約は弱いから。
だが、それほど強い契約を使っていても、琥春はまほろを殺せずにいるのはなぜだろう。
「琥春」
ぴくりと、琥春の耳が立った。まほろの声はたしかに届いている。血の契約すら越えて、彼はまほろの声を聞いている。
――琥春の想いが、残っているから?
琥春が西の呪者との契約を望むわけがない。彼はまほろを主と決めていたのだ。その想いで、琥春はいまも必死に抗おうとしているのかもしれない。どれだけ彼は自分を慕ってくれているのだろうと、まほろは目頭が熱くなった。
まだできるだろうか。彼を取りもどすことが。
血の契約を、覆せるだろうか。
流れ出る自分の血を見つめる。だくだくと流れる自分の血。狼守りの一族の血……。
ふと思い出した。
そのとたんに、ああ、いけるかもしれないと希望を見出し、同時にまほろはやるせなさにうなだれた。
血の契約であっても、いや血の契約だからこそ――、まほろのほうが優っているかもしれないと気づいた。だって琥春たちは、すでにその命を狼守りの一族によって歪められているのだろうから。
琥春は言っていたじゃないか。契約をしていなくとも狼守りの一族のそばにいるだけで、なにか感じるものがあったのだと。もしかしたら、それは彼に流れる血のせいかもしれない。
一族と狼たちの先祖は、ずっとむかし、血の契約を繰り返していた。それならば、子孫であるまほろや琥春の血には、契約の下地のようなものが生まれたときから刻みこまれていると言えないだろうか。彼らの血は一族に従うようにできてしまっているのだ。だから彼らは一族に服従してきた。その血に抗うことができなくて。
――生を受けたときにはすでに生きざまが決められているなんて、狼たちにとっては屈辱だろうな。
だがもしそうなら、西の呪者が琥春の真の主になれるわけもない。彼の血と意志が、まほろを主として望むのだから。
まだ、いける。
まほろは立ちあがった。肩から長い髪がすべり落ちる。呪者のあかしである、長い髪。まほろは呪者だ。狼守りの一族だ。狼を、ほかの呪者になんて渡さない。
赤羽が琥春に吹きとばされる。琥春がまほろを見た。左腕を庇い、まほろも琥春を見つめる。
「琥春」
呼びかけた刹那、琥春が飛びかかってくる。
まほろは左腕を顔の前にかざした。その腕に、琥春が食らいつく。もう腕の感覚は感じなくなっていた。だが、これまで感じたことのない衝撃に襲われて崩れ落ちた。それでも悲鳴を殺し、右腕と膝で、琥春の顔を上下に押さえつける。
「琥春、呑んで!」
間近で呼びかけるまほろの声に、ぴたりと、琥春の抵抗がやむ。あふれ出すまほろの血が、琥春ののど元を通っていく。
それを見てまほろは琥春の頬に、まほろが突きつけた刀傷から流れ出る血に、口づけた。琥春の血がのどを過ぎ、身体にしみていく。どくん、と心の臓が跳ね、身体中に血をめぐらせる。あたたかかった。琥春の鼓動も心も、すぐ近く、自分の胸の内にあるように感じられる。
呪符が駄目なら、血を使う。この方法で、まほろが西の呪者に遅れを取るはずがない。
もどってきて。
まほろは琥春を抱きしめた。
「わたしと契約しよう、琥春」
わたしは望む。だから琥春も望んで。
それだけを願った。




