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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
人と狼(戦編)
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5-2 災禍

「琥春、止まって!」


 叫ぶその声は琥春の耳に届かない。すこしでも足をゆるめたら死ぬ。純粋な殺意が背中を突き刺してくる。怨みなんかではなく、ただまほろを獲物として殺すために琥春は存在している。彼の爪がふりあげられるのがわかった。まほろはくちびるを強く噛んで、懐刀を抜く。琥春の爪が風の圧とともに襲いかかるのを、どうにかはじき返した。だが勢いを殺せず地に転がったまほろめがけて、琥春が牙を剥く。


 とっさに刀で受けとめた。だが牙が腕をかすって血が飛んだ。刀を噛んだ琥春は、暗く鈍い瞳でまほろをにらむ。


「琥春、やめて、お願い……!」


 いまの琥春はまさしく呪者に従う道具だ。琥春の牙が刀を噛み砕く。刃先が落ちるのを見ながら、まほろは一瞬迷った。だが、ためらっている余裕はない。柄を握り、歪になった刀で琥春の鼻面を突き刺した。ぶちりと肉が断たれる音がした。叫ぶ琥春の下から這いでて、まほろは血の流れる自分の腕を押さえ築地塀まで駆けこむ。


「どいて!」


 門を守っていた兵たちは琥春を見るや、蜘蛛の子を散らすように逃げだした。まほろは門を通り、森に入る。御殿にいるより、ひとを巻きこまずに済むはずだ。それに、ここには赤羽がいる。獣である琥春を制することができるのは、同じく獣である赤羽くらいだろう。必死に駆けた。息が上がり、倒れそうになっても、脚を動かす。


 何度も琥春に喰われそうになった。そのたび、かろうじて逃げのびる。狼の動き方をまほろはよく知っていたから、どうにか死なずに済んでいる。


 いや、それだけではないのかもしれない。


「琥春!」


 声を張りあげる。爪をふりおろそうと迫っていた琥春が、わずかに戸惑うように動きを止めるのが見えた。


 ――やっぱりそうだ。琥春は抗ってる。


 まほろを襲おうとするたび、一瞬彼の動きは鈍くなる。襲うことを躊躇していた。西の呪者に操られながらも、わずかに残った琥春の意志がそれを拒んでいる。琥春はこんな状態になっても、まだまほろを忘れていないのだ。まほろは荒い呼吸を繰り返しながら、再度足に力をこめる。熱いものが腹からこみあげてくる。


 諦めるな、絶望するな。


 走りながら、持っていた呪符に腕の血をこすりつける。これに琥春の血も含ませて契約すれば、西の呪者の束縛から抜けだせるかもしれない。自分と琥春のつながりはなによりも強いはずだから。まだ琥春を正気にもどすことができるはず。


 森に白い格子が見えてきた。まほろは赤羽の名を呼びながら駆けこんだ。


 だが、格子に近づいて、身体から熱が一気に消えるのがわかった。


「赤羽……、どうして!」


 赤羽の翼が真っ赤に染まっていた。美しかった白い羽の部分まで、赤く赤く。格子も一部が壊されている。赤羽は動かない。翼を投げだして、伏せている。


「なんで」


 背後で琥春がうなった。その牙にしたたる血を見て気づく。


「琥春が、やったの……?」


 琥春は血走った眼でまほろを見るだけだった。彼はきっと、赤羽とまほろを殺せと命じられたのだ。まほろのもとに来る前に、赤羽を()んだ。


 まほろは膝からくずおれそうになった。こんなの、どうしろっていうの。生身の人間が狼に敵うわけがない。狼の恐ろしさは理解している。赤羽もいないいま、自分ひとりでどうすればいいのだ。


 琥春が一歩一歩、まほろを追いつめる。


 まほろはふるえる手で、折れた刀を握った。


 ――ううん、駄目だ。こんなところで、死ねない。


 どうにか気を奮いおこす。琥春を武器とした西海国の人間たちの思いどおりになんてさせたくない。生身の人間は狼に敵わない。そうだ、普通の人間にはたしかに無理だろう。だけど、わたしは狼守りの娘だ。


 左手で呪符を握る。ふ、とまほろが息を吸ったとたん、琥春が飛びかかってきた。まほろは刀をふるう。だが怪我を負った腕ではうまく扱えない。琥春に簡単にさけられた。ならばと呪符を握った手を琥春へ伸ばし、彼の頬の傷に押しあてる。直後、雷のような熱が腕に走った。経験したことのない熱のあと、それは鋭い痛みに変わる。


 琥春に噛みつかれているのだと気づくのに、すこしの時間が必要だった。腕に突き刺さった牙が生みだす痛みが、腕から脳天へと駆けぬける。気が狂って叫びだしそうだった。それでも、まほろは歯を食いしばって、呪符に力をこめる。あるだけの力を注ぎ、必死に祈る。


 狼守りに伝わる契約の術。自分と琥春、どちらも望んだ契約は強いはずだから。


 だから、もどってきて。


「お願い、琥春……っ!」


 呪符の文字が光を放った。まほろの力が呪符に伝わっていく。契約ができる。この術は自分に扱える。琥春を正気にもどす。命に代えても琥春を傀儡(かいらい)になんてさせない。一層の力を込めたとき、呪符が白く輝いた。視界が白一色に染まる。バチッ、と強い音が鳴り、そうして――、まほろの指先が呪符から弾かれた。


「え?」


 視界も聴覚も痛覚も、その瞬間は一切機能しなかった。光が徐々におさまっていく。まほろも琥春も動かなかった。


 なにが起きたのだろうか。契約はできたのか……? でもいまの感覚は。


 永遠にも思える一瞬が過ぎ、やがて琥春がまほろの腕を離した。傷口から一気に血が流れだす感覚にまほろは気を失いそうになるが。奥歯を噛みしめて必死に耐える。


「琥春……、思い出した……?」


 離してくれたのは、そういうことかもしれない。へたりこむ。これがはじめての契約なのだから、よくわからない。けれど成功したのかもしれない。お互い怪我を負っても、琥春を取りもどせたのならそれでいい。ああ、よかった。でも、刀を突きたててしまったから、治療をしてあげなければ――。


 そう思ったとき。


 琥春が牙を剥いた。え、と目を見開く。迫ってくる琥春の姿がやけにゆっくりと瞳に映る。彼の眼に光はもどっていなかった。琥春は今度こそまほろの首を喰いちぎろうと、近づいてくる。


「なん、で……!」


 どうして。わたしの術より、敵の呪者の力が強いの。どうして、わたしの契約が弾かれたの。うそだ。そんなの、ありえない。

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