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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
人と狼(戦編)
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5 災禍

 まほろは叔母に見守られながら、琥春と契約するための呪符をつくっていた。浄めた紙に、墨で文字を書きつけていく。ずっと幼いころに習っただけの文字の並びなのに指先になじんでいた。この呪符を媒介にして互いの血を交わし、契約をする。それが狼守りの一族に伝わる術だ。


「本当なら、もっとむかしにつくるはずだったものよね」


 すべて書き終えて筆を置いたころ、叔母が言った。


「まほろったら、わたしたちが止めているのに琥春を式神にしようとするから、わたしたちはみんな困っていたのよ。琥春は身体が小さかったから武器にするにはふさわしくないって」

「でも間違っていなかったでしょう。琥春は、いい子。わたしの見る目が正しかったの」

「……そうですね。ええ、本当に」

「それから、武器なんて言わないで。契約はするけど琥春は武器じゃない」


 叔母ももう否定しなかった。深くうなずき、それから目を伏せる。


「わたしは琥春に謝らなければならないわね。ずっと虐げてきてしまったわ」


 まほろは石橋で相対した弥琥を思い出した。あの怨みに染まった瞳は、いま思い出しても汗がにじみ出る。だが、彼らをあんな瞳にさせたのはまぎれもなく狼守りの一族だ。謝らなければならないのは、まほろも同じだった。


 家族はみな、殺された。あのときの狼の恐ろしさは、ずっと胸の内にある。


 いや、本当はあの夜以前から、まほろは狼たちを遠巻きにしていたのかもしれない。彼らが一族を憎んでいると当時からおぼろげながら気づいていたから、琥春以外には近づけなかった。狼たちの扱いには疑問を持ちつつ、弥琥たちのつらさは見て見ぬふりをしてしまった。邸でともに過ごしたのは、琥春だけ。ほかの狼と時間を共にしたことは、ほとんどない。それがいけなかったのかもしれない。


 呪符を胸に抱く。


 彼らに謝るためにも、戦に出なければ。だれも死なせず殺さず、争いを終わらせる。


「まほろさま!」


 慌ただしい足音がして、和泉が駆けこんできた。ほとんど転がりこむようにして現れた少女に、まほろも叔母も驚く。尋常ではないとすぐにわかった。


「どうしたの、和泉」

「お逃げください! 御殿の奥、主上(おかみ)のお部屋まで。あそこが一番、守りが堅いから!」


 必死の顔で言う和泉に戸惑った。なにかが起きているのだろう。


 叔母は素早く障子を開けて渡り廊に出た。その顔から血の気が引く。


「燃えてる」

「え?」


 まほろも走って廊に出る。たしかに、夜の闇をはね返そうとでもするように、鮮烈な炎が上がっていた。かつての狼守りの邸を思い出したまほろの身体が固くなる。


「狼さまが牢を抜けだしたんです!」

「……琥春が?」


 和泉の言葉にまほろは思考が止まった。


 琥春が、逃げた?


 炎が上がっているのは、琥春を封じていた廊のあたりだ。わけがわからず、和泉の肩をつかんだ。


「どういうことなの!」

「く、くわしいことは、わたしにもよく……。でも狼さまが暴れて、牢を壊して、兵たちも怪我をしたものが大勢いると。いまも狼さまは逃げていて」

「どうして。琥春がそんなことするはずない、それに牢には結界が張ってあるでしょう! 琥春は動けないはずなのに!」


 和泉はびくっと身体を跳ねさせた。まほろは気づいて、和泉をつかんでいた手から力を抜く。彼女にあたったところで仕方がない。


「ごめん、和泉」

「いえ……。侵入者が見張りの兵を殺して、結界の札も破いたらしいのです」

「侵入者? 西海国の?」

「はい。石橋にあやしい者はいなかったようですが、ただ、その、堀で大きな狼を見た者はいたようで」


 はっとした。年明けの日、まほろが琥春の手を借りて堀を越えたことを思い出す。まさか西海国の人間が、同じ方法を使って御所に侵入したのだろうか。そうして、琥春の牢を破った?


 そう思ったとたん、なにが起きているのかを察した。


 すべて、西海国の思惑だったのだ。


 西から来たものは琥春だけだと思っていたが、こちらが琥春に気を取られている間に、ほかの人間まで来ていたのかもしれない。その人間が、琥春の結界を破った。結界がなくなれば、琥春に呪者の命令が届いてしまう。


 一度琥春を自分の意志で御所に帰らせて、まほろたちが油断したところで内側から崩す。そういうことなのだろう。狼にばかり警戒して人間の侵入者に気を配らない――東庵国が狼にだけ依存して恐怖している状況を利用された。


「行かなきゃ」


 まほろはすぐさま部屋にもどって呪符をつかみ、駆けだした。


「まほろさま、どこへ!」

「琥春を止めるの!」

「でも危険で――」


 和泉の言葉は、庭におり立った黒い影のために止まった。


 あ、と彼女の声がこぼれる。


 静寂が落ちて、そうして気配が強く揺らぐ。


「――琥春」


 巨大な狼が、まほろを見ていた。


 けれど――、これは本当に琥春だろうか。


 澄んだ瞳だったはずなのに、いまは血走って狂気だけが宿っている。琥春の口元から赤く染まった唾液が落ちた。牙や爪にこびりついた血が月明かりに浮かびあがる。低いうなりが空気を揺らした。


 記憶にある弥琥の姿が、目の前にいる琥春に重なった。


 ひとを殺す恐ろしい獣。


 まほろの身がすくむ。だが、我に返り庭に飛びだす。


「叔母上、和泉と逃げて!」


 琥春は叔母たちには目もくれず、走りだしたまほろを追うために地を蹴った。


 操られているのだ。まほろを殺すために、琥春は御所に帰されたのだろう。

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