2 厭わしい気配
まほろが帝と赤羽のもとを訪れていたとき、兵が慌ただしく駆けこんできた。この状況に覚えのあったまほろは帝を見る。帝もまた、まほろを見つめていた。お互い感じるものは同じらしかった。
「主上! 狼が、また!」
琥春か敵か。いや、考えるのはあとでいい。間髪入れず駆けだそうとしたまほろの腕を、帝がつかむ。
「待ちなさい、まほろ」
「嫌です!」
琥春がいなくなってからの不安が、一気に身の内から表に流れだす心地だった。戸惑いと驚きと不安がないまぜになって、自分でもよくわからない。とにかく必死だった。
「琥春かもしれません、行かせてください!」
「以前のことを忘れたかい? 敵の狼かもしれない。落ち着いて」
「そうだとしても、わたしが行かないと。狼のことがわかるのは、わたしだけです!」
もう琥春はここにいないのだから、自分が行かなければ。だが、ふりほどこうとしても帝の力は存外強く、どうしてもふり切ることができない。まほろの目の奥が熱くなったとたん、涙がこぼれた。泣きたくないのに。もっと強くなりたいのに。
「ほかの狼だとしても、琥春のこと、なにかわかるかもしれないんです……!」
帝は一瞬たじろいだものの、すぐに表情をひきしめた。
「ああ。だがまずは落ち着いて。ともに行こう」
帝は以前よりも多くの兵を呼んだ。女宮も現れ、帝からまほろを託される。女宮はしっかりとまほろの腕をつかんで言った。
「まほろまでいなくなれば戦が立ち行かない。自分の命の重さを理解したうえで動け」
うなずくしかなかった。自分はそんな大層な人間だろうかと思いながら。
「しかし、狼が来るのは三度目か。前回と同じ手であれば芸がない」
女宮はつぶやいて歩きだす。
まほろの鼓動が一音一音、胸の中心で鳴り響く。はやる気持ちを宮が腕をつかんでくることで制されていたが、額にはじっとりと汗をかいていた。早く、石橋へ。そう思えば思うほど、石橋までの道が長く感じられた。
「あの狼です」
兵が示したのは、橋の向こう側だ。遠目ではよくわからないが、一頭の狼が血まみれで倒れているらしい。大きさは普通の狼のそれだ。ここからでは琥春なのか、それ以外の狼なのかわからない。
狼のまわりを、兵たちが刀を構えて囲んでいた。
「生きているのか?」
「かろうじて。すでに手負いでした。あたりにほかの狼も怪しい人影もありません」
「ちがいないな?」
冷たい風に乗って運ばれて来た匂いに、まほろは胸がつかれた。
「琥春です!」
女宮は訝しむようにまほろを見て、つぎに狼を見る。沈黙のあと、兵に命じた。
「縛って連れてこい。くれぐれも用心して」
鎖で手足を封じ、口にも鎖を噛まされ、琥春が石橋を渡ってくる。結界を越えたところで、まほろは女宮の手をふり払って駆けだした。
「琥春!」
あまりにも息が浅く、死んでいるようにも見える姿だ。
だが、眠っていた琥春の目が細く細く開かれた。まほろを映して、そこに安堵の色が浮かぶ。それは一瞬で、すぐさま眠りに落ちてしまったけれど。まほろは兵から琥春を奪って抱きしめた。琥春の重みとあたたかさに胸がつまる。
よかった。琥春が帰ってきた。もう会えないのではとすら思っていたのに。
「どういうことだ。なにが起きている」
横に立った女宮が怪訝そうに問いかける。
「わかりません。でも、この子は琥春です」
それだけしか言えなかった。状況はなにもわからないけれど、琥春が帰ってきたならそれでいい。それ以上になにも望まない。まほろは鼻先を琥春の毛並みに押しつける。血にまぎれて、たしかに春のあたたかな匂いがする。そうして――。
違和感があった。
一瞬で、まほろの首筋に冷たいものが走った。
そうだ、敵に連れ去られて怪我だけで済むわけがない。そんなことを弥琥たちが許すはずがないのだ。無事でいられるなんてありえない。
「――離れてください」
ぽつりと、つぶやく。女宮が眉をひそめた。
まほろは顔を上げる。
「牢を用意して、結界に秀でた呪者を呼んでください」
「理由は」
「気配が……」
知らない気配が、血の匂いがする。琥春の身体から。
「琥春は、西海国の呪者と契約しています」




