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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
人と狼(戦編)
50/62

1 嵐の前の

 まほろ、と叔母に呼びかけられ、首をめぐらせてふり返れば、彼女に部屋にもどるようにと示された。叔母の後ろで和泉もこくこくとうなずいている。渡り廊でぼんやりしていたまほろは、もう夜になっていたことにはじめて気づいた。


「狼さまが心配なのはわかりますが、お部屋にもどらないとまほろさまがお風邪を召します。大切なときなのですから、無理をなさらず」


 和泉にも言われて、ようやく立ちあがったまほろは小さく笑ってみせた。


「ごめん、もどるから。怒らないで」

「怒ってはおりません。……心配しているのです」


 琥春が帰ってこないまま、戦がはじまろうとしていた。そろそろ、まほろも御所を離れて陣に移らなければならない。ゆっくりできる夜は残りすくない。


 休めるときに休んでおかなければと、頭ではわかっている。だが寝床に入ったところで休める気はしなかった。浅い眠りが数度あるものの、はっと目が醒めることの繰り返しで余計に疲れる。


 その日も、ほとんど眠れないまま朝日が御所を包みだした。着替えて赤羽のもとへ向かう。そこには帝がいた。


「また眠れなかったのかい?」


 彼はふり向くと、気づかわしげな顔になる。


「薬師に眠り薬を煎じてもらうといい。まほろがそんな顔をしていると、赤羽も不安がる」

「申し訳ございません。赤羽(あかばね)も、ごめんね」


 ぐいぐいと頭を押しつけてくる赤羽も、心配してくれているのだろう。


 琥春がいないいま、戦で頼りになるのは赤羽だけだ。帝の指示はきちんと聞いてくれるようになってきたが、どれほど戦で立ちまわれるのかは実際にやってみるまではわからなかった。まほろ自身、国同士の戦に赴いたことはない。どうなるのか予想できない。それでもやるしかない。


 琥春(こはる)はきっと、西海(さいかい)国にいる。もし弥琥(やこ)たちに殺されていないのなら、戦で勝てば会えるかもしれない。そう信じて進むしかなかった。彼がもう死んでいる、なんて考えない。大丈夫。大丈夫。大丈夫――。


 赤羽の修練はいつもどおりに行った。琥春を思い出そうとする自分をふりきって、無心で赤羽に対した。それが終わると、どこからか笛の音が聞こえてきた。赤羽が心地よさそうに目を細める。まほろも疲労した身体に力がもどっていくのを感じて察した。これは山吹の笛の音だ。帝に一礼して、音のするほうへ向かった。


 木々にまぎれて、師が立っていた。笛を吹く彼はいつものぞんざいな姿ではなく、御所の貴族たちにも負けない気高さがあった。山吹に勝る奏者はこの国にはいないだろう。


 ――この唄。


 風に乗る旋律は、むかし聴いたことがあった。はじめて山吹と出会ったとき、彼はこの音でまほろを助けてくれたのだ。


「調子はどうだ、まほろ」

「……すごくいいよ。さすが師匠」


 一曲が終わると、山吹は疲れたように肩を鳴らした。そうするともう、御所には似合わない男にもどってしまう。まほろはすこしだけ笑ってみせた。


「ずっと笛を吹いていれば、師匠も引く手あまたなのにね」

「褒めてるのか、貶してるのか」

「褒めてる」

「ならいい」


 ふたりでふっと噴きだした。


「昨日、実家の連中に会ってきた。もうずっと放浪していたから、どの面を下げて帰ってきたって大目玉だったがな」


 山吹が憂鬱そうに木にもたれかかる。まほろもそのとなりに立った。


 このところ曇り空がつづいていたが、今日は陽が照っていてあたたかかった。そんなことにも、ついさっきまで気づかなかった。いまの自分には余裕がない。でも、それではいけない。琥春のためにも戦を乗りきらないと。


「でもまあ、この時世だ。不届き者でもいないよりはましと言われたよ」


 山吹の言葉で、思考が現実にもどっていく。


「あいつらも俺には敵わないが、いい奏者だ。戦で怪我をしたやつは全員きれいに癒してやれるだろうさ」


 山吹はまほろの頭を乱暴に撫でる。慰めてくれているのだ。また、守られてしまっている。


「……心強いね」

「そうだろう、そうだろう。――琥春のことは心配するな」


 ふいに山吹の声から軽快さが消えて、まほろは顔を上げた。


「そのうち帰ってくるよ。あいつ、まほろに惚れてるからな」


 山吹は喉を鳴らして、手の上で笛を器用に回す。まほろの口からはなんの言葉も出てこなかった。その代わり、じわりと頬に熱がさすのがわかる。そんなまほろに、師匠はまた愉快そうに笑った。


「似合いだと思うよ、おまえらは」

「……当然でしょ。わたしたち、小さいときからずっと一緒だったんだから」


 いや、あの生家ではともに過ごしていたが、そのあとは数年離れて生きていた。それでも、琥春に再会してからはその空白を感じさせないほど彼といる時間が心地よかった。それこそずっと一緒にいたと思えるほどに。


 きっと、自分たちはそういう風にできているのだ。どうあっても、ともにありつづけたいと願う。まほろにとって琥春は欠けてはいけない存在だ。琥春にとってもそうであってほしいと思う。


「まほろさま、お師匠さま。握り飯を持って参りました」


 遠くから、和泉と叔母が盆を持って歩いてくるのが見えた。まほろは早足でふたりのもとに向かう。いまはただ、自分にできることをするしかない。これ以上、後悔することがないように。そう思って、必死に日々を過ごした。


 ――その数日後、なんの脈絡もなく、また狼が現れた。

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