9 狼たち
弥琥は西海国まで一気に駆けてから、人間の血で汚れた爪や毛並みを舐めて整えた。
琥春をさらう目的は達した。眷属の狼たちを死なせたことには心が痛むが、必要な犠牲だった。彼らはよくやってくれたと思う。それに比べてろくな仕事ができなかった自分を呪ってしまう。
――殺せなかった。あの娘を。
それだけが苛立たしい。まほろは結界の内側にいたとはいえ、爪も牙も届かぬ距離ではなかったのに。殺せる隙があればそうしようと思っていたが、できなかった。
あの目。おびえきった少女の目が、頭から離れない。
いつもそうだ。彼女は琥春には笑顔を向けても、弥琥にはおびえていた。弱々しく生意気な小娘を殺してやりたかった。
だが、その思いに反して、弥琥の身体はそうすることを拒んでいた。それほどまで、自分たちには狼守りの一族に従属することが染みついているのだろうか。きっと彼女を殺せば、耐えがたい苦痛に苛まれる。それがわかってしまうから手出しできない。
弥琥はまほろが嫌いだ。殺伐とした丘の邸で、あの娘と琥春だけが特別だった。こちらの想いなんて気づかないまま、彼女たちだけは平和な顔をして笑っていた。
憎らしい。
「ずいぶんと、荒れていらっしゃるようで」
薄い布で顔を隠した男が、いつのまにか背後に立っていた。その腕には深い眠りについた琥春が抱かれている。弥琥は舌打ちして人間の姿に変じた。男が笑む。
「こちらは滞りなく済みましたよ……とは、言いづらいですが。なかなか術が効かないようなのです」
品のある口調で言うが、苛立ちが見え隠れしていた。彼は琥春を弥琥に引き渡し、肩をすくめる。男の腕からは血が滴っていた。それを布で縛りながら男が言う。
「あなたが教えてくれたとおりに術を施しているのですが、なにがいけないのでしょうね。いままでの狼にしてきたものより、今回のものは強い術なのでしょう?」
「……術には呪者の心も、獣の心も作用する。琥春はまほろに入れこんでいたから、おまえの術は無意識のうちでも跳ねのけてしまうのだろう」
「そうですか。とはいえ、弥琥さんたちにかけた術も効き目が薄いようだ。あなたもわたしに反抗心をお持ちですか? 困りましたね、わたしたちは協力関係にあるのに」
弥琥は鼻で笑う。
自分の身体にある不快な呪者の力。どうにもこの男とは相性が悪いらしい。狼守りの一族の術よりも耐えがたいものがあった。身の内が虫に食い荒らされているようだ。
「俺たちもまだ、おまえに気を許したわけではないからな」
「信用してほしいのですけどね。戦が終わるまでは協力しあいましょう? すべて終われば、あなたたちの自由は保障しますから」
では、と男は優雅に繕った仕草で去っていく。だがその足取りは重い。当然だろう。狼たち全員に、あの男は術をかけている。負担も大きいはずだ。
弥琥は男の背を見送り、狼の姿にもどった。ぐったりと動かない琥春の傷口を舐めて、毒を吸いだしてやる。狼とひとの血の匂いが交じりあって鼻先をつき、顔をしかめた。




