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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
嵐の前(修練編)
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8 激動

 西海国との小競り合いは、このところさっぱりと止んでいた。それが嵐の前の静けさだと、だれもが理解していた。


 御所の空気が常に張りつめている。武装した兵たちがせわしなく行き来するのを見た女たちは不安そうな顔をしているし、気丈な和泉も落ち着きなく外を気にすることが増えた。


 きっと西海国の側でも、戦の準備に追われているのだろう。


 その日、まほろは女宮に呼びだされた。


 伝えられた部屋に赴くと、帝や女宮、恰幅のいい武将などがそろって地図をにらんでいた。武将がこちらを見て訝しげな顔をする。なぜ小娘がと言いたいのだろう。


「来なさい、まほろ」


 女宮に手招かれ、おずおずと進みでる。


「狼守りの娘だ」


 ひと言だけの紹介でも、その場にいる者には伝わった。依然として居心地の悪さはあるが、まほろは背筋を伸ばす。もうあとには退かないと決めたのだから。


 武将たちの報告から、戦場(いくさば)となるのが天辰(あまたつ)の大河付近にある篠見(しのみ)の原であることを知った。篠見の原は東と西をそれぞれ山に囲まれている。両国とも、山に陣を敷くことになるようだ。


「琥春と赤羽を前に立たせて、兵たちは援護にあたる。へたに兵が出ると、琥春たちの立ちまわりの邪魔になるだろうからな。まほろ、それでいいな?」

「はい。構いません」


 戦の話が粛々と進んでいく。まほろは息苦しさを感じながらも、冷静にその話を聞いていた。聞いて、考えなくてはと思った。琥春と赤羽のためにできることを考えなければ。


 すべての確認が終わると、武将たちは部屋を辞していく。


 まほろもつづこうとしたところで、帝に呼びとめられた。


「まほろ。平気かい」

「はい。お役目は、きちんと果たします」

「……ああ、頼む」


 すこしの間があったのは心配してくれているからだろう。帝はやさしい。きっとそんなひとなら、赤羽ともうまくやれると思った。一族と狼たちのようにはならないはずだ。


 ――大丈夫、役目は果たす。


 自分自身にそう言い聞かせたとき、兵がひとり部屋に訪れた。ちらりとまほろを見てきた兵はなにか言いたげだった。その表情に嫌な予感がする。


 女宮が用件を問うと、兵は頭を下げて口を開いた。


「また、狼が来ております」


 まほろは帝たちと顔を見合わせた。帝は眉をひそめる。


「よい知らせであればいいがな」


 まほろもうなずきながら、心がざわつくのを感じていた。


 三人と数人の兵が連れだって、森を進んだ。途中、赤羽のもとにいた琥春にことの次第を告げると、彼もまた険しい顔になった。


「琥春はどう思う? 弥琥たちに動きがあったのかな」

「だとすれば、いい知らせとは言えないだろう」


 それでも聞かなければならない。戦において情報は大切なのだと、いつか、生家にいたときに父から教えられたことがある。知は力だ。知ることで対処できることは確実に増える。だからまほろも胸騒ぎがしようとここから逃げることはできない。


 想定する限りの最悪な状況を想像しながら、なにがあろうと動揺しない心づもりをつくって歩いていく。狼と手を組んだ西海国が取る行動はなにが考えられるだろう。まほろを怨む狼たちは、なにをするつもりなのか――。


 石橋まで来ると、その先に三頭の狼がいるのが見えた。


 琥春がぴたりと脚を止める。まほろも歩みを止めた。


「琥春? どうしたの」


 琥春の瞳に、鋭さが宿った。


「――ちがう」

「え?」


「あれは、俺の眷属じゃない」


 その瞬間。


 狼たちが光の矢のような素早さで飛びだしてきた。結界に触れた刹那、青い火花が狼たちの身体を駆け、そこから血が噴きだした。それでも彼らは止まることなく、突き進んでくる。結界を無理やり越えてきたのだ。


「まほろ、退け!」


 声とともに、まほろは後方へ突きとばされる。視界には琥春の衣しか映らない。なにが起きているのかわからなかった。それでも、狼たちが飛びかかってくるのは見える。


 毒の匂いがした。狼たちの牙から、一族に伝わる毒ではない匂いが。


 三頭が一斉に琥春の脚、腕、首筋に噛みついた。琥春はうめき、膝をつき、小さな狼の姿にもどってしまう。


「琥春……っ!」


 狼の一頭が、琥春ののど元をくわえて引きずり、駆けていく。


 残った二頭がまほろめがけて再度地を蹴った。息を呑む。まほろの身体は凍りついていた。狼の血走った目が恐ろしい。動けない。記憶が駆け巡る。血、叫び、燃え、死――。


「追え!」


 女宮が兵に叫び、二頭もろとも剣で弾きとばした。狼の血が飛び散り、まほろの頬にかかる。そのあたたかさに意識が引きもどされ、ぞっとした。一瞬前まで狼の身体を流れて命をつないでいた血はぬっとりとあたたかい。


「結界で弱っている! 捕らえろ!」


 琥春を引きずる狼の足取りは遅い。結界を越えようとした影響だろう、死にかけている。もはや動かない脚を気力だけで動かしているようだった。


 まほろも遅れて駆けだす。


「琥春!」


 兵たちの身体の隙間から、石橋の上で琥春が結界の向こうへ抜けたのが見えた。兵たちも必死に走っている。


 早く追いつかなければ。狼たちは裏切り者として琥春を殺す気だ。いま止めなければ、琥春はきっと帰ってこない。


 全身の血が逆流しそうだった。絶対に追いつく、琥春を渡さない。


 しかし――幸いと言うべきなのか、兵が剣をふるうより、相手の狼の命が尽きるほうが早かった。狼は道半ばであっけなく動かなくなる。倒れたその姿に、兵たちに安堵の気配が流れた。結界を越えられはしたものの、最悪の事態は免れたようだった。


 まほろは膝から力が抜けそうになる。肌は粟立ったまま、指先がふるえていた。


 妙な毒の匂いは西海国のものだろうか。早く癒してあげなければ、琥春の命も危うい。前にいる兵たちが邪魔だった。まほろは「どいて」と叫び、人垣をかきわける。それでも琥春のもとへたどりつくのは難しかった。


「どいてください! お願い、どいて――」


 そのときだった。


 風が吹いた。


 街から突然、別の影が躍りでてくる。


「あ」


 巨大な、白い狼。


 まほろはそれを見たとたん息が詰まり、足が動かなくなった。一瞬が引き延ばされたかのような錯覚に陥って、ただただ、その姿を見つめる。


 幼いころの記憶が蘇る。火の海の中で骸を棄てていた、あの狼。


「――弥琥」


 弥琥は一瞬、死んだ狼を見下ろした。それから、兵たちを爪でなぎはらう。ひしゃげた悲鳴を上げて兵たちは血を流し、弾きとばされて、石橋から落ちていく。その様子がまほろの瞳にべっとりと張りついた。ひとつの眼がまほろを見ていた。死におびえた眼だった。ああ、あのひとはもう助からない。重たいものが水に落ちる音がした。澄んだ水が穢れていく。


 一瞬の静寂が落ちた。


 はっと我に返った残りの兵たちが、恐慌に駆られて石橋を引き返してくる。彼らにもまれ、まほろは倒れた。それでもまほろの目は弥琥にだけ向いていた。


 弥琥がゆっくり、まほろを見る。


 憎悪。恐れ。怨み――、そんな感情が、弥琥の瞳から流れこんできた。全身がふるえだす。弥琥の爪が地をかく。低くした体勢は、まほろに飛びかかろうとしているのだ。


 殺される。駄目だ、死んでしまう。


 だが、弥琥は直前でぴたりと動きを止めた。無言で見つめあい、彼はふっと顔を背け、力の抜けて動かない琥春をくわえると風のように街へ駆けだした。


「……あ、琥春!」


 まほろは弾かれたように立ちあがった。そんなまほろの腕を女宮がつかむ。


「行くな、まほろ。結界の外に出れば狼の思う壺だ。死ぬぞ」

「でも琥春が!」

「兵に追わせる。各地の兵に伝えろ、狼を逃がすな!」


 指示をされた兵たちはそれぞれ駆けだした。だが、みなおびえている。狼に関わりたくないと、その顔が物語っていた。女宮は舌打ちしてつぶやく。


「捨て身で結界を越えてくるとはな」


 彼女は荒々しい動作で御所に踵を返した。腕を引かれて、まほろは彼女について森にもどることしかできない。騒々しい気配がまほろの肌をなぶっていく。ふり返っても、弥琥の姿はもう見えない。一瞬の所業だった。


 琥春が連れていかれた。自分をかばって怪我をした。追わないと。


「まほろ、部屋にもどろう。琥春はきっと兵が守ってくれるよ。案ずるな」


 帝の気遣うような声に、まほろはなにも返せない。


 きっと人間に、弥琥は止められない。彼らに琥春を取り返すことはできない。裏切り者の琥春は、狼たちにどんな仕打ちを受けるのだろう。……さきほど、ひとが死んでしまった。また、死んでしまった。死んで――。


 目の前が白く染まるのを感じた。帝に名前を呼ばれるのを遠くに感じながら、まほろは意識を手放した。

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