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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
狼の旅路(逃走編)
37/59

10 侵入

 新しい年を迎え、街はにぎわいに包まれる。それも静まった夜に、まほろと琥春は御所のそばまでもどってきた。御所を囲む堀には相変わらず水が満ち、外と内とを切り離している。


「俺は御所の中まで入れない。ひとりで行けるか?」


 ひとの姿をとった琥春の瞳は気遣わしげに揺れていた。御所には結界が張ってある。狼である琥春に中までついてきてもらうことはできないから、ここから先はまほろひとりで行動することになる。


「くれぐれも無理はするな。なにかあれば俺を呼べ」

「御所には入れないんでしょう?」

「力づくなら結界を越えられる」

「でもそれをすると、琥春もただでは済まないんだよね。大丈夫。わたしだけで、なんとかするから」


 まほろは堀を指さし、水底から青白く立ちのぼる光の位置を伝えた。あの光が結界だ。琥春には光を見ることができないようだった。


 赤羽を外に出そうとして使った石橋には警備の兵がいるから、今日は使えない。それに堀を泳いで渡ったとしても、御所の側の崖は堀に反り返るようにつくられているから、のぼることはできそうになかった。


 残る道は、ひとつ。


「お願い。琥春」


 琥春はひとつ息を吸って、大きな獣に変じた。まほろがその背に乗ると、助走をつけて堀に飛びだす。示しあわせた場所――結界すれすれの地点まで届くと、まほろは琥春の背を蹴った。足もとに地面がないことへの不安で、ひゅ、と息がもれる。


 その背を、琥春の前脚がさらに御所へと弾きとばした。


 息が詰まるほどの衝撃を背に、まほろは御所の森が迫ってくるのを見た。歯を食いしばって受け身の体勢を取る。地面に触れたとき、それまでの比ではない痛みが身体を襲った。手足がばらばらになるのではないかと思った。御所の森を五回、六回と転がり、ようやく落ち着いてからも、起きあがることができずに地面に伏したまま荒い息をする。


 しばらくして身体を起こすと、あちこちを襲う痛みに悲鳴が上がった。生身の人間がするには無茶な侵入方法だ。今回は成功したようだが、もう二度とこんな真似はしたくない。


 堀の対岸を見ても、琥春の姿は見えなかった。兵たちに見つからないよう、小さな狼になって堀の水に潜っているのだろう。向こう側なら堀をのぼって逃げることもできる。


 まほろは息を吸って、まずは傷を癒すために小さく楽の術を使った。


 朝陽がのぼるまで、木の陰に身をひそめていた。橙の光があたりをぼんやりと照らしだすと身を起こす。寒さで思うように身体が動かないが、怪我自体は術で癒えていた。


 木々の中を足早に進んでいく。森の奥にはまだ日の光が届かず、薄暗い。だが進む先はわかった。獣の匂いを追えばいいのだ。


 やがて、白木の檻が見えてきて安堵した。


赤羽(あかばね)


 巨大な鳥がそこで眠っていた。


 まほろが最後に赤羽を見たのが、ずいぶん前のことのように思える。琥春に襲われたときの赤羽はひどく混乱していた。琥春には赤羽を殺すつもりは毛頭なく、ただ場を乱したかっただけだったようだが、また赤羽の警戒心が強くなっているのではと心配だった。だが檻の中で眠る赤羽は穏やかな様子だ。


 森を風が吹きぬける。赤羽が目を開いた。風に鼻を向け、匂いを感じとったのかまほろを見る。


 駆けよりたかったけれど、まほろは人差し指を口に当て、その場を離れた。反対側、御所のほうから人影がやってきたのだ。彼らの姿がぎりぎり見えるところまで距離を置き、陰から様子をうかがう。


 思ったとおり、やって来たのは叔母だった。


 赤羽の肩の手当てをしに、朝一番で叔母が来るだろうと踏んでいたのだ。だが彼女には御所の兵がふたりついていた。彼らに自分の姿を見られるわけにはいかない。


 まほろはそっと横笛を口もとに持っていき、音を響かせる。この森ではたまに貴族が遊んでいるというし、笛の音も不自然ではないだろう。鳴らすのは山吹から教えられたものではなく、狼守りの一族が狼に合図を送るときに使う音。


 叔母ははっとしたように顔を上げた。すこし考える仕草をしたのち、兵たちに何事かを言っているのが見える。彼らの声が聞こえるところまで、まほろは近づいた。


「今日の赤羽には、べつの薬が必要のようです」

「いつもの薬では駄目なのか?」

「獣にもその日の具合がありますから。狼守りの一族に伝わる秘薬を煎じましょう。申し訳ございませんが、外のお方には煎じるところを見せられません。そうですね……、もともと赤羽がいた蔵をお借りできますか」


 兵たちは叔母を信用したらしく、それならばと蔵に向かっていく。まほろも先んじて蔵へと駆けた。赤羽の世話のために建てられた蔵はもう使われていないようで、静寂に満ちていた。


 この高さならいけそうだ。


 壁に開いた明かり取りの穴を見つめた。かつて、まほろの指示で広げられた穴は塞がれることなく、そのまま残っている。


 懐刀を抜くと、壁の隙間を探して突きたてた。ぐっと奥まで押しこんでからその刀を頼りにして壁の小さな突起に脚をかけ、身体を持ちあげる。今度は刀を踏み場にして、明かり取りに手を伸ばせば、なんとか届いた。その穴から蔵の中へ忍びこむ。赤羽が使っていた藁の山に身を隠し、叔母を待った。


「では、みなさんは外でお待ちください」


 叔母の声がして、扉が開く。


「……まほろ? まほろ、いるの?」


 ふたたび扉が閉まると、叔母は小さな声でまほろを呼んだ。


「叔母上!」

「まほろ! ああ、よかった、生きていたのね!」


 藁の山から姿を現したまほろに、叔母は涙をにじませながら駆けよってくる。そのまま勢いよく抱きしめられた。ふわりと薬草の香りとともに叔母のあたたかさに包まれて、まほろは子どものように泣きたくなった。


「本当によかった! あなたが無事でいることをどれだけ望んだか。まほろまでいなくなったら、わたしは……。怪我は? なんともないの?」


 たしかめるように頬に触れてくる叔母に、まほろは涙をこらえて、静かにと指で合図する。叔母も外を気にかけ、口をつぐんだ。まほろが人目につかないようにしたいと思っていることは、きちんと伝わっているらしい。


 再会を喜びたいが、いまは時間がない。


「大丈夫だよ、叔母上。琥春が助けてくれたから、わたしは平気」

「琥春……、それはまさか、狼? あなたが幼いころともにいた狼がその名前だったわよね。そうなの? でも、どうして狼が、あなたを」


 困惑する叔母に、まほろは首をふる。


「ごめんなさい、詳しく話している時間がないの。師匠がわたしのせいで御所に捕らえられてる。わたしは師匠を助けるためにもどってきたんだよ。だから、叔母上。わたしを手伝ってほしい」

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