9 国境の争い
その夜、まほろは琥春のとなりで月夜に輝く大河を見つめた。御所にもどる前に、西との国境付近を流れている天辰の大河を見にきたのだ。戦の原因となったものを、この目で見ておきたかった。
ひとの都合など関係なく、ゆったりと水をたたえている川は優雅で広大だった。ひとびとはみな、この川を欲している。東も西も。
「いっそ河が涸れれば、話が変わるかな」
「それがおまえの望みなら叶えよう。川の神を殺せば済むだろうからな」
ひとに変じた琥春の静かな表情と声からは、真面目に答えているのか冗談を言っているのか判断が難しい。まほろは目を伏せて自嘲した。
「川がなくなれば、戦をするより多くのひとが死ぬ。それだと意味がない。それに、この川の神を制するすなんて、わたしには無理」
先日出会った山神よりも強大な神が、この大河にはいるのだろう。まほろと琥春で太刀打ちできるはずもない。そんなものは夢物語だ。
ひとに恵みを与える川。ひとに争いをもたらす川。
やるせなかった。
ふと、視界に赤い炎がちらついた。
「あれは……?」
「燃えているな。西との小競り合いが起きているのかもしれない」
炎に照らされた中に、黒い影が見えた。おそらくは争っている影が。
話には聞いていたが小競り合いを目にするのははじめてで、まほろはうつむいた。だれかがあそこで傷ついているのだろうか。死ぬ者も出てくるのかもしれない。
本来ならば、狼守りの一族があの場にいて西の民を退けているはずだったのだろう。自分たちがいないから、あの場でだれかが襲われる。もしひとが死んだなら、まほろはその者を見殺しにしたことになるのだろうか。
「まほろ」
地面に座りこんだまほろを琥春が呼んだ。まほろは目を閉じて荒い息をする。腹の底から熱いものがこみ上げてきた。この国の民を殺させたくはない。でも、西の民を殺すこともまた望まない。そんな重い選択を自分に負わせないでほしい。そんなことを望んで、狼守りの一族に生まれたわけじゃない。
「――行くか?」
琥春が静かに言った。
「あの地と民を助けに行けば、御所には伝わるだろう。戦に力を貸したと思われる。だが、まほろはあれを見捨てられないんだろうな」
「……琥春なら、あれを止められるの?」
「無論だ」
見なかったふりができるほど、心は強くない。まほろは力なく立ちあがった。
……今回だけだ。目の前で死ぬひとたちを見過ごせない。それが甘い考えだとまほろだってわかっているけれど、でもそれ以外にどうすればいいというのだろう。どうしたら、ここで見て見ぬふりをできる人間になれるのだろうか。
琥春は呆れるでも怒るでもなく、無言で大きな獣になった。まほろが背に乗り琥春の毛並みをつかむのと、琥春が駆けだすのは同時だった。彼は風を切って炎の見える場所に向かっていく。
燃えていたのは、東庵国の西の果てにある田舎町だった。
小競り合いという言葉から想像していたほど、小さな争いではない。西の民たちが武器を携えて襲いかかってきている。
西海国を警戒して、御所からも兵を配置していたのだろう。あちこちで武装した東庵国の兵も戦っている。倒れているひとが見える。燃える家屋が見える。焦げる臭い、むせかえる血の臭い。叫び声、泣き声、許しを乞う声――。
戦が始まろうとしていることを肌で感じて、まほろは息を詰まらせる。
転げ落ちるように背からおりたまほろに琥春は頬ずりをして、一瞬で争いの中に駆けていった。軽く地を蹴り、西の民の目前に迫る。光の筋に見えるほど素早い動きだった。
「殺さないで!」
まほろの叫びが届いたのかどうなのかわからないほど間を置かず、琥春の爪が相手の腕を裂いた。血が飛び、叫ぶ声がする。琥春はすぐさま狙うべき相手を変えた。西の民たちは突然のことに驚き、逃げまどう。琥春はそんな彼らも見逃さず、牙をふるう。
圧倒的だった。それ以外の言葉がない。まほろは一歩も動くことができず、琥春を見つめた。
戦の道具。帝が、女宮が、民が望む、狼の姿。
琥春が放つ気配のうねりを感じる。まほろはそれに呑まれないよう自分の中にある呪者の力を放ち、琥春を包む。同調し、研ぎすまし、力を増幅させることが狼守りの一族が戦場で獣たちにする役目だった。幼いころから教えこまれたその術は、生家を離れ一度も戦に出たことがないいまのまほろにも扱えるほど身体に馴染んでいる。
西の民たちは血相を変えて逃げ帰っていった。
一瞬、琥春の姿に、かつて見た弥琥の姿が重なって見えた。その瞬間、まほろは琥春を心底恐ろしいと思い、そんな自分を心底呪った。琥春にああさせたのは自分のくせに。
いつのまにか、西の民はほとんど撤退していた。
「琥春」
ふり向いた琥春の首もとに抱きつく。
「ありがとう。ごめんね」
琥春がうなずいたとき、東庵国の兵たちがおそるおそる声をかけてきた。
「あなたは、呪者さまでしょうか?」
恐怖と期待の入りまじった瞳をしていた。まほろは兵や民を見回す。怪我をしている者はいくらでも目に入る。狼守りの一族がまだ生きていれば、そんな傷を負う必要がなかったかもしれないひとたち。彼らにはなんの罪もない。
まほろはゆっくりと息を吸う。
夜空に唄がのぼっていった。やがて、音は雨のように地へともどってくる。傷を癒し、高ぶったひとびとの気を落ち着かせていく旋律を紡ぎながら、まほろは家屋を燃やす炎が揺れるのを見つめていた。




