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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
狼の旅路(逃走編)
34/61

8 御所のお触れ

 日中は深く眠りについていた。夕暮れになって、まほろはようやく起きあがると、唄の術で肩の痛みを和らげた。


「この山は通らないほうがいい。里におりるぞ」


 琥春はどこからか市女笠を持ってきた。まほろが笠をかぶると、琥春自身は小さな狼にもどってまほろに付きしたがう。ひとなつっこい犬に見えなくもない。


 そこは小さな田舎町だったが、通りには灯りがともされ、にぎわいに満ちている。


「そっか、年越しの祭りか」


 年の明ける五日前から、東庵国はどこの里も騒がしくなる。一年の穢れを祓い、次の年を迎えるための祭りがあるからだ。この冬はせわしなくて、祭りのことなどすっかり忘れていた。


 まほろは里の者から椿の花びらを一枚譲りうけて、河原に向かった。花びらで自分の肌と琥春の毛並みをなでて川に流す。穢れを肩代わりした花びらはくるくると踊りながら、水の流れに消えていった。


 生家にいたころは、一族が連れだって川に花びらを流したものだ。だが、狼たちの穢れを祓おうとする者はいなかった。人間よりも血に濡れて穢れを祓わなくてはいけないはずの彼らを、だれも気に留めなかったのだ。


 かたわらにいる琥春をなでると、その瞳が不思議そうに見上げてくる。


「琥春だって、戦には出たくないよね」


 弥琥の眷属だという狼たちを殺したときの琥春は、ひどく寂しそうな姿をしていた。本当は殺したくなかったのだろう。それなのに、まほろのために血に濡れた。


「もう、だれも殺さなくていいよ」


 琥春は無言でこつんとまほろを小突き、旅路を急かした。山を越えるより里を通るほうが遠回りになる。あまり悠長にしている暇もない。


 と、まほろの目に、白いものが映った。


「――蝶」


 夕暮れどきにも目立つ、ほのかに輝いた蝶がひらひらと舞っていた。白い蝶は呪者によって放たれた御所のお触れだ。実体はなく念を飛ばしているだけのもの。


「ああ、またきたねえ」


 里の女がつぶやいた。


 見れば、あちこちに蝶が飛んでいる。夕暮れにその輝きは目立った。この分だとほかの里にもお触れが回っているのだろう。そしてそれは今日だけのことではないらしい。


 美しいが、まほろにとっては恐ろしい光景だった。


 これは自分に宛てたお触れではないだろうか。


 琥春が低くうなった。構うなと言いたげに道の先を示す。だが、視界に舞いこむ蝶から目が離せない。その白い姿に、まほろは帝や女宮を思い出した。彼らがまほろになにかを言おうとしているのかもしれない。なぜだかその確信があった。


 なにを言いたいのだろう。


 まほろはためらいがちに、そっと蝶に手を伸ばす。琥春が制するように頭を押しつけてきた。一瞬手を引いて、迷う。この蝶が自分に利のある話をもたらさないことなどわかっていた。


 それでも。


「なにも知らないまま逃げるのは嫌」


 狼守りの邸から逃げてからいままで、琥春の思いを知らずにいたことを後悔していた。なにかあるなら、相手がこちらに伝えたいことがあるなら、まほろはそれを無視できない。


 聞くだけ。知るだけ。ただ、それだけだ。そのあとの行動は自分で決める。すべて知ったうえで行動するのと、知らずに行動するのは、まったくちがうはずだから。


 指先が蝶に触れた。


 頭の中にお触れの言葉が響く。それは曇りなく澄んだ女の声だった。



 秘されるべき呪者の術を外に持ちだした罪人を捕らえた(よし)。また、飽きたらず、外の者に(がく)の術を教えたその罪、大罪(なり)魂追(たまお)いの刑、執行す。



 血の気が引いた。


「……師匠?」


 お触れは間違いなく、師匠である山吹について言っているのだろう。呪者が家の秘術を外に出すことなど滅多にないし、それが楽の術となれば山吹のこと以外に考えられない。


 ――だけど、魂追いなんて。


 あまりにもそれは重すぎる。


 魂を身体から追われる、すなわち死罪。それが魂追いの刑だ。楽の術をまほろに教えたことはたしかに罪かもしれないが、そこまでしなければならないものだろうか。脳裏に女宮の美しい顔が浮かんだ。このお触れは、まほろが逃げるつもりなら師は死ぬぞ、とそう伝えるためのものだったのだろう。


「だから聞くなと言ったんだ」


 いつのまにか、琥春がひとの姿になっていた。あわてて見渡したが、里の者は近くにいない。変じるところを見られてはいないだろう。


「無視して北宋(ほくそう)国に逃げろ。ここで御所にもどれば連中の思う壺だ」

「でも、師匠は……」

「諦めろ」


 琥春の瞳は冷たいわけではない。ただひたすらに冷静だった。


「まほろの師であれば、俺と同じことを言うだろう。俺は時おり、おまえの様子を見に行っていたのだから、あの男のことも知っている。あれはそういう人間だ。まほろがもどることを望みはしない」

「だけど」

「あとすこしで国境(くにざかい)だ。おまえは逃げることができる」


 まほろは琥春の瞳を見つづけることができず、顔を伏せた。

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