8 御所のお触れ
日中は深く眠りについていた。夕暮れになって、まほろはようやく起きあがると、唄の術で肩の痛みを和らげた。
「この山は通らないほうがいい。里におりるぞ」
琥春はどこからか市女笠を持ってきた。まほろが笠をかぶると、琥春自身は小さな狼にもどってまほろに付きしたがう。ひとなつっこい犬に見えなくもない。
そこは小さな田舎町だったが、通りには灯りがともされ、にぎわいに満ちている。
「そっか、年越しの祭りか」
年の明ける五日前から、東庵国はどこの里も騒がしくなる。一年の穢れを祓い、次の年を迎えるための祭りがあるからだ。この冬はせわしなくて、祭りのことなどすっかり忘れていた。
まほろは里の者から椿の花びらを一枚譲りうけて、河原に向かった。花びらで自分の肌と琥春の毛並みをなでて川に流す。穢れを肩代わりした花びらはくるくると踊りながら、水の流れに消えていった。
生家にいたころは、一族が連れだって川に花びらを流したものだ。だが、狼たちの穢れを祓おうとする者はいなかった。人間よりも血に濡れて穢れを祓わなくてはいけないはずの彼らを、だれも気に留めなかったのだ。
かたわらにいる琥春をなでると、その瞳が不思議そうに見上げてくる。
「琥春だって、戦には出たくないよね」
弥琥の眷属だという狼たちを殺したときの琥春は、ひどく寂しそうな姿をしていた。本当は殺したくなかったのだろう。それなのに、まほろのために血に濡れた。
「もう、だれも殺さなくていいよ」
琥春は無言でこつんとまほろを小突き、旅路を急かした。山を越えるより里を通るほうが遠回りになる。あまり悠長にしている暇もない。
と、まほろの目に、白いものが映った。
「――蝶」
夕暮れどきにも目立つ、ほのかに輝いた蝶がひらひらと舞っていた。白い蝶は呪者によって放たれた御所のお触れだ。実体はなく念を飛ばしているだけのもの。
「ああ、またきたねえ」
里の女がつぶやいた。
見れば、あちこちに蝶が飛んでいる。夕暮れにその輝きは目立った。この分だとほかの里にもお触れが回っているのだろう。そしてそれは今日だけのことではないらしい。
美しいが、まほろにとっては恐ろしい光景だった。
これは自分に宛てたお触れではないだろうか。
琥春が低くうなった。構うなと言いたげに道の先を示す。だが、視界に舞いこむ蝶から目が離せない。その白い姿に、まほろは帝や女宮を思い出した。彼らがまほろになにかを言おうとしているのかもしれない。なぜだかその確信があった。
なにを言いたいのだろう。
まほろはためらいがちに、そっと蝶に手を伸ばす。琥春が制するように頭を押しつけてきた。一瞬手を引いて、迷う。この蝶が自分に利のある話をもたらさないことなどわかっていた。
それでも。
「なにも知らないまま逃げるのは嫌」
狼守りの邸から逃げてからいままで、琥春の思いを知らずにいたことを後悔していた。なにかあるなら、相手がこちらに伝えたいことがあるなら、まほろはそれを無視できない。
聞くだけ。知るだけ。ただ、それだけだ。そのあとの行動は自分で決める。すべて知ったうえで行動するのと、知らずに行動するのは、まったくちがうはずだから。
指先が蝶に触れた。
頭の中にお触れの言葉が響く。それは曇りなく澄んだ女の声だった。
秘されるべき呪者の術を外に持ちだした罪人を捕らえた由。また、飽きたらず、外の者に楽の術を教えたその罪、大罪也。魂追いの刑、執行す。
血の気が引いた。
「……師匠?」
お触れは間違いなく、師匠である山吹について言っているのだろう。呪者が家の秘術を外に出すことなど滅多にないし、それが楽の術となれば山吹のこと以外に考えられない。
――だけど、魂追いなんて。
あまりにもそれは重すぎる。
魂を身体から追われる、すなわち死罪。それが魂追いの刑だ。楽の術をまほろに教えたことはたしかに罪かもしれないが、そこまでしなければならないものだろうか。脳裏に女宮の美しい顔が浮かんだ。このお触れは、まほろが逃げるつもりなら師は死ぬぞ、とそう伝えるためのものだったのだろう。
「だから聞くなと言ったんだ」
いつのまにか、琥春がひとの姿になっていた。あわてて見渡したが、里の者は近くにいない。変じるところを見られてはいないだろう。
「無視して北宋国に逃げろ。ここで御所にもどれば連中の思う壺だ」
「でも、師匠は……」
「諦めろ」
琥春の瞳は冷たいわけではない。ただひたすらに冷静だった。
「まほろの師であれば、俺と同じことを言うだろう。俺は時おり、おまえの様子を見に行っていたのだから、あの男のことも知っている。あれはそういう人間だ。まほろがもどることを望みはしない」
「だけど」
「あとすこしで国境だ。おまえは逃げることができる」
まほろは琥春の瞳を見つづけることができず、顔を伏せた。




