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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
狼の旅路(逃走編)
33/59

7 山の気配

 目が醒めると、琥春がそばにいた。


 まどろみから抜けると肩に激痛が走り、まほろはまた気を失いそうになる。触れた右肩には布が巻かれていた。額に浮かんだ汗を琥春の指先が拭ってくれる。


「神隠しだな。主が気づいて慎んだようだから、もどってくることができたんだろう。肩以外に痛むところはあるか?」

「……平気」


 まほろと琥春は山の麓にいるらしかった。すっかり月が夜空にのぼっている。琥春の瞳を見るうちに落ち着いてきて、まほろは長く息をついた。


「あの狼、一族の者だと思ったけどちがった。山神だったんだね」


 この地を治める無二の存在。刀を向けるなどという不躾な真似をしたまほろが、これだけの怪我で済んだのなら幸いと考えたほうがいい。頬に添えられた琥春の指先のあたたかさに、瞳を閉じる。


「琥春はなにもなかったの?」

「同じ狼のよしみで見逃してもらえたらしい。この山、いまは荒れているようだから、さけて通ればよかったな。すまない」


 首をふり、まほろは小さく唄を口ずさむ。さすがに神につけられた傷だけあって、まほろの術では痛みどめ程度にしかならなかったがないよりましだろう。一曲が終わると、まほろは改めて山の気配を探った。


「あの山神、怒っていたね」


 山を覆う空気がどす黒く渦巻いているのが伝わってくる。山神もそのせいで虫の居所が悪かったのかもしれない。押しいってきた人間であるまほろに敵意を向けたのだ。あのまま刀をふるい続けていれば、きっと殺されていただろう。


 神は易々と関わりあうものではないな、と思い知る。


「あんな狼、見たことなかった。狼には慣れているつもりだったけど、狼守りに式神として扱われてきたあなたたちとあの神は全然ちがう。……琥春たちも、もともとはあんな風だったのかな」


 彼らだって、最初は山神だったはずなのだ。狼守りの一族にはそう伝わっている。それがいつしか一族に縛られ、ただの式神に堕ちてしまった。


「俺たちは年々弱っている。もう神とはほど遠い」


 琥春が言って、目を伏せる。


「式神になったから神の力を失った――、そういうこと?」

「ああ。だが、それだけじゃない。俺はそれほどではないが、ほかの狼たちは明らかにこの数年で力を失っている。狼守りの一族が滅んでからの数年で」


 まほろ脳裏に浮かんだ記憶にうつむいた。瞳にかかった髪を琥春の指先が払い、そっと離れていく。ぬくもりが離れてしまったことがまほろには心細く思えた。


「……どうして、狼は弱っているの?」

「弥琥たちは、狼守りの一族の呪いだと言っていた。一族を食んだとき、耐えがたい苦痛に苛まれたらしい。呪いを浴びせられたようだと、みな言っていた」


 かつて骸を棄てた弥琥の姿を思い出す。あれはとても恐ろしかった。だがあのとき、弥琥も苦しんでいたのだろうか。


 たしかに呪者である一族の人間であれば、死に際になにかの術をかけることはできたかもしれない。けれど彼らならば、呪うよりも先に自分たちを殺そうとする狼を止めていただろう。琥春もそう思っているのか、肩をすくめた。


「真偽はどうであれ、そのおかげで狼たちは二度めの苦痛を味わいたくないからと、主に近寄ることをためらっている。こちらにとっては好都合だ」

「……琥春は、わたしといるのが怖くない?」

「言っただろう。俺はほかの狼とちがってそれほど弱っていない。呪いというのも実感がないんだ。――俺があの夜、ひとりも殺せなかったからかもしれないな」


 琥春は言いながら、まほろを抱きあげた。山から離れた野原で腰をおろし、まほろが寒くならないよう身を寄せてくれる。まほろも、あたたかい彼の胸に頬を寄せた。


 耳もとで琥春の声がする。


「狼守りの一族が滅んだ日、俺はまだ小さかったから呪者を殺すことなんて期待されていなかった。それでも主のことは任せてほしいと頼んで、ほかの狼を遠ざけて主を逃がしたんだ。俺が邸にもどったころには、もうほとんど終わっていた」

「だれも殺さなかったんだね。……そうだね、琥春は優しいもんね」

「いや、ちがう。そうじゃない。俺は殺しこそしなかったが、狼たちを止めることもしなかったんだ。見殺しにするのは、この手で殺すのと同じことだろう。だから、あまり俺を信用するな。優しいなんて言われる資格も俺にはない」


 言葉でそう示しながら、彼の指先はまほろの髪をなでていた。まほろはその感覚を感じながらうつむく。信用するなというのなら、やさしい触れ方をしないでほしい。自分は弱いから彼にすがってしまうのだ。それはただの甘えでしかないのに。


「……琥春も、わたしたちのことを怨んでいた?」

「一族のことはそうかもしれない。――でも主は違う」


 その言葉で、まほろの胸に罪の意識と安堵が同時に湧いてどんな反応をすればいいのかわからなくなる。やはり、彼も狼守りの一族を疎んでいるのだ。琥春がなにを言おうと、自分があの一族の生き残りであることに変わりはない。


「琥春、わたしを主なんて呼ばなくていいよ」


 弱々しい声しか出せない自分が情けなかった。


「わたしは琥春を従えたいわけじゃない。そもそも、わたしと琥春は契約を交わしていないんだし、琥春はもっと自由に生きていいんだよ」


 神だった琥春たちが式神に堕ちたのは、人間と契約をしたからだ。琥春たちがまほろの一族を襲ったのも、不当な契約のため。同じ過ちを繰り返したくはなかった。主になんてなりたくない。


「――わかった。主が望むなら、まほろと呼ぼう」

「うん。それがいい」


 山から咆哮が轟いた。ふたりとも同じように山を見上げる。


「この山、変だよね。生き物の気配が多すぎる」


 山とは本来そういうものだが、ここはあまりにも命に満ちていて、山ひとつでは収まりきらないほどに膨れている気がした。


「西の山から逃げてきた獣たちが、ここに移り住んだようだな」


 琥春が鼻先を山へ向ける。


「もともと寛大な山だったのだろう。受け入れたはいいものの、山のほうが安定を欠いたらしい。それで神も苛立っている」

「獣たちは戦から逃げてきたの?」

「おそらく。獣はひとの動きに敏感だ。巻きこまれる前に、西の地を手放したんだろう」


 獣には山が必要だ。だが山も、獣を必要とする。獣がいなくなった山は死ぬ運命にあるのだから、きっと西の山はゆっくりと枯れていくのだろう。そうなれば、その土地に暮らす人間も飢える。


「戦なんて、馬鹿みたい」


 けれど、その戦の原因はまほろたち一族にあるのだろうか。


「まほろがすべてを背負わなくてもいい」


 心を読んでいるように、琥春の声がした。


「戦は狼守りの一族だけが行ってきたわけじゃない。獣を従えること自体はほかの呪者にもできる。現に帝は、獣と契ったのだろう?」

「そうだけど」

「みな、危険や責任をさけて、別のだれかに押しつけたいだけだ」


 東庵(とうあん)国の民たちが狼守りの一族を頼る。けれど一族もまた、すべてを狼に押しつける。戦に出て戦うのは狼たちなのだ。すべてのしわ寄せを喰らっている彼らならば、憤りたくもなるだろう。


「ごめんね、琥春」

「……もう寝ろ。まずはその肩を治せ」


 琥春は狼に変じて、まほろを尾で包んだ。

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