6 奇襲
まほろは必死に琥春の毛並みをつかんで、吹きつける風に耐えていた。山の木々が勢いよく背後に消えていく。師匠の山吹と旅をするときに馬で駆けたことはあったが、琥春の脚の速さは馬とは比べものにならなかった。
長い自分の髪が風に煽られて、邪魔だ。
巨大な狼に変じた琥春の背から落ちないようにするのに精一杯で、もはや自分がいま、山のどの部分にいるのかもわからない。もしかしたら、さきほどまでいた山はとうに越えているのかもしれなかった。
まほろが動けるようになってから、しばらくは琥春の背に揺られながらゆっくりと山を越えていたふたりだったが、追手から逃れるため悠長なこともしていられないと、この日の琥春は全力で駆けていた。
ただでさえ冬の寒さで指がかじかむのに、風が刃のように襲ってくる。街を走っていては目立つからと、山や森の険しい土地を選んで駆けているのも、まほろにはつらかった。暴れ馬にふりまわされている気分だ。
まほろの疲労を察してか、夕暮れになってから琥春は脚を止めた。
まほろがよろけながら地面におりると、ひとの姿に変じた彼が苦笑する。
「今日はもう休もう」
そう言って、琥春はすぐさま木の実や山芋、川魚を採ってくるとたき火を起こした。山菜は大きな葉に包んで火のそばで柔らかくなるまで熱し、琥春がどこかの街で手にいれてきた味噌をのせた。魚も塩をふって炙ると、芳しい香りがただよいだす。
なにからなにまで琥春に頼りきっている自分が情けなかった。
「全部してもらって、ごめんね」
「気にするな。主の世話は苦でもない」
わずかに口角を上げる琥春に、まほろも小さく笑い返す。
かつてともに過ごした子狼と、こんな風に会話をしていることが不思議だった。夢を見ているのではないかと、まほろはときどき思う。御所に連れていかれてからの日々はいつも現実味が薄くて、すべてが夢の中の出来事だったのではないかと考えてしまう。
そんな都合のいい話は、ないだろうけれど。
「北宋国まで、あとどのくらいかかる?」
まほろの問いに、琥春は思案するように目を細めた。
「俺の脚なら二、三日だ。国を越えてしまえば御所の連中も手出しはできないし、獣にも領分があるから狼たちも北までは追ってこないだろう。あとすこし、我慢してくれ」
まほろと琥春が逃亡先に決めたのは、北に広がる北宋国だった。
たしかに御所の人間も狼も、国境を容易に越えることはできない。だがそれは、まほろたちも同じことだ。そううまく逃げられるだろうかと不安は残るが、それでも行くしかなかった。
西へ逃げても、待ち構えるのは戦の相手である西海国なのだから、まほろたちが歓迎されるはずがない。東と南は海しかなく、越えることは難しい。北に逃げることだけが唯一の道だった。だが、きっと御所も狼もそう考えるだろうから、まほろたちは彼らに見つかる前にこの国を抜けだす必要がある。
「もう眠っておけ。疲れたままでは、明日は俺の背から転げ落ちるかもしれない」
「うん。……琥春はあたたかいね」
たき火はそのままにして、まほろは巨大な獣へ変じた琥春にもたれた。尾で包まれていると冬の寒さも忘れられて、おとなしく目を閉じる。
山にはいろいろな気配が満ちている。植物の寝息、獣の咆哮、山神の息づかい。はじめのうちはそれらが落ち着かないが、しばらく待っていると、自分も山の一部なのだと思えてくる。まほろは溶けるように眠りに落ちた。
その翌日のことだった。夕暮れにつぎの山へ踏みいったとき、まほろは肌が粟立つのを感じた。ぴんと張った空気に満ちている。
――山に、拒絶されている。
「琥春!」
琥春の脚はいつものように山を駆けていた。彼は気づいていない――いや、山に拒まれているのがまほろだけ、ということなのかもしれない。それでも、まほろの声になにかが起きていると感じたのか、琥春が立ちどまろうとする。
横合いから、飛びだしてくるものがあった。確認する間もなく、衝撃が身体を襲う。まほろめがけて、それが飛びかかってきたのだ。一瞬、息ができなかった。まほろは琥春の背を転がり落ちる。
川辺だった。身を斬るような冷たさの川に落とされ、また息を呑む。
秋のころから溜まっていたものか、水面で木の葉が踊り狂った。あまりの水の冷たさに溺れるかと思ったが、必死に岩をつかんで川から這いだす。
なにが起きたのだろう。
「……こは、る……。琥春!」
周囲を見渡し、冷えた身体からなけなしの熱が一気に引いた。
琥春がいなかった。この一瞬で、彼はどこへ?
なにが起きたか理解できないくせに、この状況が最悪なものであることだけはわかった。
草場が揺れた。
はっとする。飛びだしてきたものを見て、固まった。
――狼。
瞬間、まほろは踵を返して駆けだしていた。




