5 弥琥の夜
白銀の狼がするすると木をのぼる。いつか琥春がそうしていたように、狼の頭取である弥琥はひとに変じて枝に腰かけ、月明かりに照らされる御所を眺めた。
……帰ってこない。琥春も、自身が放った狼たちも。
琥春がまほろをさらってからすぐ、弥琥は自身の眷属を放った。しかし自分のもとにもどってきたのは彼らではなく、琥春の眷属だった。その狼たちから聞くことには、まほろの始末は済んだらしい。だが、琥春も怪我を負ったためしばらくは帰らないということだった。さらには弥琥が仕向けた眷属たちは、渦中で命を落としたのだ、と。
嘘――、だろうか。
弥琥は木の幹にもたれかかる。
琥春は危うい。弥琥は彼を仲間だと思っているし、お互いに狼たちの行く末を想っていると信じているが、まほろを見る琥春の瞳はむかしから弥琥には理解できないものがあった。その一点だけが常に気がかりだったのだ。あまりにも大きすぎる懸念だった。
……まさか、ひとのために同胞を殺すはずはないと、そう思いたいけれど。
「弥琥」
足もとから声がした。弥琥はするりと木をおりる。若い人間の男――に変じた狼が、音もなく近寄ってきた。
「またあいつらが呼んでるよ」
「わかった。向かおう」
「……手を組むのか? あの呪者と」
その声には不安と恐れがにじんでいた。けれど、わずかな期待も感じられた。弥琥はそんな同胞に視線を送る。
「まだ決めるには早い。だが俺たちに残された道は、そう多くないのも事実だ」
狼たちは、年々力が弱まっていた。狼守りの一族を滅ぼしてからは、とくに。
まるで呪いだ。あの一族が、狼を蝕んでいるのではと思ってしまう。事実、一族を狩ったあの夜、彼らを食んだときの感覚は妙だった。
彼らの血が毒にも似た熱を持って身体に染みこんでいくように思えたのだ。ほかの狼たちも同じものを感じていたらしい。いままで戦場で多くの人間の血を浴びてきたのに、一族の血だけが異様だった。あれ以来、身体が空ろになったような気がする。
どこまでいっても、あの一族は狼の邪魔をする。
弥琥は舌打ちをして、狼の姿にもどると駆けだした。
風のように山や野を過ぎ、西の地を目指す。ほかの狼たちよりも、弥琥は脚に自信があった。狼の将来を思い道筋を考えることも嫌いではないが、身体を動かしていることのほうが好ましい。ひとの脚では気の遠くなる距離を、弥琥は一瞬で駆けぬけた。やがて、小さな山に行きつき息を吸う。緑の気配が薄く、寒々しい空気が満ちていた。
西の山々はこのところ精気に欠けている。冬だからといって、ここまで命の気配が消え失せるなんて尋常ではない。これもきっと、ひとの身勝手さのせいだろう。彼らが戦をすると獣も山も狂っていく。
「相変わらず、狼というのはすばらしい脚をお持ちですね」
ゆったりとした声がした。
弥琥を出迎えたのは、ひとりの男だった。薄い布を被っているために顔は見えないが、妖しく微笑んでいるらしいことは気配でわかった。品のある話し方をするのに、節々に傲慢さが覗くのが弥琥の癪に障って仕方がない。それに、外の土の匂いをまとっているのも厭わしい。ただでさえ呪者というのはきな臭いのに。
この男を信用すべきかどうか――いや、信用などというものはない。ただ、利用できるかどうか、弥琥はそれを見極めるために、男を見つめた。




