8 狼の眼
高い木の枝に腰をおろしていた男のもとに、声がかかった。
「琥春、首尾は」
ひとに変じた弥琥が、地上からこちらを見上げてきていた。そんな狼の頭取には視線を返さず、琥春は幹にもたれながら琥珀色の瞳に御所を映す。
御所は水をたたえた堀に囲まれている。しかしここからは建物など見えず、鬱蒼とした森があるのみだった。ひとびとが住む殿舎は森の奥にあるはずだ。
堀に囲まれた御所は、小島のようだった。呪者の特別な結界に守られた孤島――、あの堀には呪者によって結界が張られている。自分たちのような獣には、あそこを越えることはできない。
琥春は息をついた。
「ずっと見張っているが、娘は一度も外には出てきていない。あの御所の結界を破ることも、俺たちには無理だ。命を削る覚悟があれば、またちがうかもしれないが」
「娘が出てきたとして、殺せるのだな」
「当然だ」
御所の外は広い大路が伸び、貴族や官人の邸、商人町、職人町がおかれている。昼間はにぎやかな通りだが、夜は静かなものだ。琥春がいるのは小さな神社の木の上だった。
「おまえ、娘のことを一度は殺し損ねているだろう」
弥琥が憎々しげに言った。睨まれて、琥春は素直に謝罪する。
「それは悪かったと思っているよ。弥琥だって知っているだろう、あのころの俺は弱かったんだ。だがいまは、ほかの狼たちよりうまくやれるはず。そう思ったから、弥琥も俺にやらせようとするのだろう」
相手の返事の前に、間があった。琥春はそのすきに言葉を重ねる。
「狼は年々弱くなっているからな。俺以外では心もとないのはわかるさ」
弥琥が苛立たしそうに舌打ちをして言った。
「しくじるなよ」
「ああ。……そっちは、見知らぬ人間と会っているようだな。なにをするつもりだ?」
狼たちは人間を疎んでいるのに、このところ弥琥は頻繫に何者かと話しこんでいるようだった。その人間たちの発する匂いに、琥春は慣れない。この国の者の匂いではなかった。
「弥琥、どこのだれと密談をしている」
「いずれ琥春にも伝えるときがくるだろう。いまはただ、娘を殺すことだけ考えろ」
「俺も信用がないらしい」
「琥春は人間贔屓が過ぎるんだ」
「罪のない人間を殺すことに意味は感じない。それは弥琥も同じだろう? 心配しなくても、狼守りの一族は俺も嫌いだ。次は確実に殺す」
「……ならばいい」
闇に溶けるように、弥琥の気配が消える。完全にその気配がなくなってから、琥春は深く夜気を吸いこんだ。御所を見つめ、苦々しい思いに眉をひそめる。
幼いころ、己の身体を抱きあげてくれた少女のぬくもりを思い出す。
憐れな少女は、あの御所の中でなにをしているのだろうか。
殺せるか、と弥琥が問うのなら、もちろんだ、と返す。
それがいまの自分に唯一できることだった。




