1 美しい追手
夕闇に染まろうとする空の色が、格子のすき間から見える。
雲ひとつない空なのに、雪がちらついていた。白く小さな雪は格子窓から室内にすべりこみ、まほろの手のひらに落ちると、あっという間に溶けて雫になった。
あの日の桜に似ていた。
「まほろ。どうした」
「……師匠」
ふり向くと、男が立っていた。三十にさしかかった山吹は、いつでも怒ったような顔をしている。無造作に結んだ長い髪を揺らし、彼は首をかしげた。
「浮かない顔だな」
「ううん。なんでもない」
その年、まほろは十八になった。いつまでも子どものように悪夢にうなされるわけにはいかないだろう。大丈夫。べつに、悪いことを思い出したわけじゃない。かつて、子狼を抱いたあの記憶は、ひだまりのあたたかさを胸にもたらしてくれる。……そのあとに思い出してしまったことは、忘れてしまえばいい。あの夜の炎は、記憶から追いだすべきものだ。
山吹は静かな眼差しで「そうか」とうなずいた。
「それならいい。が、まあなんだ……、顔色が悪いし、一曲吹いてやろうか」
「……なんでもないって言ってるのに」
懐から横笛を取りだす山吹に、まほろは眉を寄せる。山吹も口を曲げて頭をかいた。師匠の不器用なやさしさはうれしいけれど、本当になんでもない――ことにしたかったから、いまのまほろには都合が悪い。
「それより師匠。暗くなる前に、ご隠居さまのお邸に行ったほうがいいんじゃない?」
今日の山吹は、山の中腹にあるご隠居の邸に向かうことになっていた。四季折々の花が咲き乱れる庭が自慢なのだと聞いている。いまの時期は朱色の椿が雪に映えるらしい。
「ほら。雪が強くなる前に行ってきて。もうすぐ路銀が尽きるから、稼がなきゃ」
まほろは山吹を部屋から追いだした。
いま、ふたりが逗留させてもらっているのは山間にある小さな寺だ。その庭には、空から雪がこぼれ落ちていた。
寒いな、と山吹がため息をつく。そんな師匠の背中をぐいと押せば、彼はまだまほろを気にかけるような顔をしていたものの、笛を懐にしまって歩きはじめた。なにかと雑な彼だったが、笛の扱いだけはいつも丁寧だ。
山吹の姿が見えなくなってから、まほろも息をつく。
……暇になってしまった。
常ならば、まほろも師匠に付き従っているところだが「騒がしいのが苦手だからひとりで来てほしい」とご隠居に言われてしまったために、今日のまほろは留守役だった。だが、寝るにはまだ早い。そう思って、旅道具一式を手にとる。たしか、足袋に穴が開いたと山吹が言っていたからそれを繕って、この際だからほかの道具も調えてしまおう。
「呪者さま」
ひょいと住職が顔を覗かせたのは、それからしばらくしたころだった。いかにも人のよさそうな丸顔の老人がまほろに言う。
「旅の御仁が術を施してほしいと、呪者さまをお呼びです。頼まれていただけますかな」
「旅のお方が? 逗留しているのは、わたしたちだけではなかったんですね」
「ええ。小さな寺ですから、こんなにお客人がいるのはめずらしいのですけどね」
微笑む住職に、まほろも笑いかえした。だが、間が悪い。
「生憎、師はご隠居さまの邸に向かってしまったんです」
「おやおや、そうですか。けれど、弟子のあなたでも構わないとのことですよ。その御仁、山登りが慣れずに足腰が痛んでしまったようで。これも人助けと思い、どうかおひとつ」
まほろはすこし悩んだ。気乗りはしないが、断るのも忍びない。
「わかりました。すぐに参ります」
住職はにこりと笑み、客人が待っている部屋の場所を教えてから去っていった。
まほろは荷から横笛を取りだし、部屋に設えられている姿見を確認する。
いつもと同じ自分の姿だ。腰まで伸びた黒髪は呪者のあかし。髪には霊力が宿るとされるから、呪者は男も女もみな髪を切ることを厭うのだ。あの雑な山吹ですら、髪を伸ばしつづけている。髪を切るとしたら、呪者であることをやめたときくらいだろう。
まあ、それも、ほとんどないことなのだけれど。
呪者は呪者として生まれ、呪者として死ぬのが慣わしだから。
まほろは髪を撫でつけ、自身の瞳を見つめた。平凡な黒い瞳。よし、と襟元を整え、廊へ出る。
まほろと山吹は、霊力の宿った音を奏でて、ひとびとの傷を癒すことを生業としていた。山吹ほどまほろの術は優れていないが、引き受けた以上は力を尽くしたい。
目当ての部屋に行きつき、障子越しに声をかける。
「失礼いたします。楽の呪者にございます」
「入れ」
聞こえた声に、まほろは首をかしげた。足腰がと聞いていたから、老人に呼ばれているのだろうと思っていたが、聞こえたのは凛とした女の声だった。戸惑いつつも戸を開けた。
そうして、また驚く。
そのひとは、檜扇で顔の大半を隠して座していた。着ている衣は質素なものなのに、まとう雰囲気が常人とは明らかにちがう。艶やかな黒髪は川が流れるような風情で床に落ち、扇から覗かせる瞳には強い光を宿していた。歳は二十半ばを過ぎたあたりだろうか。この古寺には似合わないほどの気品にまほろが惚けていると、女がころころと喉を鳴らした。
「寒いのだから、早くお入り」
我にかえったまほろは、薄暗い室内の中、誘われるがまま女の前に腰をおろす。燭台のほのかな明かりだけでは、忍びよる夜の闇をはねのけることはできない。その薄闇の中で彼女はじっと、まほろの瞳を見つめていた。女の瞳の中で燭台の炎が揺らめく。
「不思議な瞳だな。琥珀色か」
「……え?」
おかしい。そんなはずない。
まほろはとっさに、女の視線から逃がれるように顔を伏せた。鼓動が早鐘を打ちならす。だが、すぐ思い直した。いまの自分の瞳は平凡な黒色に装えているはずだ。さきほど姿見で確認したのだから、間違いない。動揺するな。平静を保て。頬に力を入れて笑みをつくり、顔を上げた。
相手が首をかしげる。
「……おや。おかしいな、見間違えたか」
「きっと、灯りの加減で不思議な色に見えたのでしょう」
「そうか……、すまない。妙なことを言った」
女は笑って、閉じた扇を床に放った。現れた女の顔は、やはり美しかった。洗練された瞳や唇が、あるべき場所に寸分違わず収まっている。
「ひとつ聴かせてくれるか」
「はい」
言われるがまま、笛を構えて息を吹きこむ。だが、澄んだ旋律をと思うのに、音が落ち着かない。自分の動揺がまだ消えていないことを実感させられる音だった。
まさか本当に自分の瞳が、琥珀色になっているはずもないけれど……。
いや、いまは、音に集中しよう。
空から降る雪のように笛の音はしんしんと部屋に満ちていき、まほろや女の身体に触れると、一瞬で溶けて肌に染みいる。
――きっと考えすぎているだけだ。気にしないほうがいい。




