2 獣の世話
まほろが選びとれる道は、ひとつしかなかった。
数日後、まだ空が白んでいる時分、女宮から送られた白と赤の装束を身にまとい、呪者のあかしである長い黒髪をひとつに縛ると、まほろは部屋を抜けだした。外で息をするとそれはすぐさま白く染まって、幻のようにかき消えていく。庭を渡り、ひとつ寂しく建てられた蔵の扉を開けて中に身を滑りこませた。
「赤羽、おはよう」
小さな手燭に火をともして、その上に紙の覆いを被せる。柔らかくなった灯りを近くに置き、まほろは格子の前に腰をおろした。
格子には半分ほど覆い布を張ってあるから、まほろの位置からは赤羽の姿が見えない。ひとに見張られていることは赤羽にとって負担のはずだと、まほろが布をかけたのだ。
帝に言われてから、まほろは毎日欠かさず赤羽のもとに通っていた。一日の大半を蔵で過ごすから、和泉には「獣くさいですよ」と眉をひそめられる。
――このままでは赤羽が死ぬだろう、という帝の言葉は正しいと思った。
こうしていると赤羽も静かだが、傷の手当てをしようと近づけば荒々しく翼をばたつかせて、まほろを近づかせようとしない。そのうえ、たまに赤羽の嘴には血がついていることがあった。慣れない場所で心も疲弊して、自身を傷つけたのだろう。獣にはよくあることだった。
まほろは瞳を閉じて、赤羽の妖気を探る。やはりそれは不安定に揺らいで落ち着きがなく、まるでかき消える間際の手燭の炎のようだった。探るだけではなく、こちらの呪力を放って赤羽の揺らぎを抑えようとしてみても、すぐに跳ね返される。赤羽が不愉快そうに身体をふるわせる気配がしたから、まほろはそこで目を開いた。
昼になるまで、まほろはただそこでじっとしていた。頃合いを見ると立ち上がって、覆い布をどける。赤羽はわずかに顔を上げたが、それだけだ。格子の戸を開けてまほろが餌の肉をそっと投げ入れてみても、食べる気配がない。
まほろは静かに身を引き、もとの場所に落ち着くと、懐から笛を取りだした。近くで傷の手当てはできなくとも、まほろには山吹から教えられた曲がある。ひとまずはこれで赤羽を癒していくしかないだろう。
笛の音を響かせながら、まほろは空を舞う赤羽を想像した。それはきっと、美しい姿だったのだと思う。
まほろは自分が戦に出なくて済むのならと赤羽の手当てをしていた。もう狼と関わることも、戦に出ることもしたくはなかった。赤羽の世話だけでいいなら、ましだった。だが数日ともに過ごせば情が湧く。なにも食べず、動くこともせず、ゆるやかに死に向かっていくような赤羽を放っておくことができなかった。
――でももし傷が治れば、この子は道具として使われる。
そんなことは最初からわかっていたのに、それでいいのだろうかと思ってしまう。ただ自由に、空に放たれることは許されないのだろうか。
赤羽の小屋を見張っている役人たちからは、獣に声をかけつづけるなんてと怪訝そうな目を向けられる。彼らにとって、赤羽は武器や道具でしかないのだろう。帝も赤羽を道具と称した。けれど、まほろの一族はその態度のために滅んだはずだ。
どうしてわたしは、こんなことをしているのだろう――。
それから何日か過ぎたころだった。
笛を奏でていたまほろの耳に聞きなれない音が届いた。はじめて聞くそれは、かすかな鳥の鳴き声らしかった。
「赤羽?」
格子を覗くと、赤羽はわずかに顔を上げてこちらを見ていた。ここまで長く目を合わせてくれたことははじめてだ。赤羽の瞳は、彼岸の花のような色をしていた。
その瞳を、まほろはじっと見つめる。
獣にも意思はある。生家にいた狼たちは成長するとひとに化けて言葉を介すことができたが、まほろとともに過ごした幼い琥春にはそこまでの力がなかったから、いつもまほろは琥春の瞳を見てなにを伝えようとしているのかを探っていたものだった。そんなことを思い出してしまう。
赤羽の瞳は落ち着いていた。
「……笛の音が、好きなの?」
試しにふたたび笛を吹く。すると赤羽も小さいながら鳴き声で応じてくれた。大きな身体に似合わず、繊細な声だった。
――そう、好きなんだ。
まほろの胸にあたたかいものが灯った。獣は恐ろしい。それでも、心を開いてくれるならうれしかった。赤羽には情を抱いてしまったから、とくに。
「傷が治れば、また飛べるようになるよ。もうすこし頑張ろうね」
赤羽は応えない。だが警戒の色はすくいように思えた。
それからのまほろは毎日、笛を奏でた。
じっと見ていると、笛の音が鳴りだせば赤羽が耳をぴくりと立てることに気づく。気が休まっているときは猫が喉を鳴らすような、ぐるぐるとした音を立てることも知った。
山吹から笛を習っていてよかったと、まほろは思う。
けれど、喜びばかりを感じるわけにはいかないことも、わかっていた。




