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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
赤い獣
14/19

1-2 儚い男と弱った獣

 そのとき、部屋に渦巻く獣の臭いが鼻に迫った。まほろは我に返る。


 そうだ、獣。


 格子の奥に間違いなく獣がいる。


 そうしていま、帝はなんと言ったのか。


「……獣と、契約をしたのですか?」

「ああ。した」

「そんな……、どうして!」

「……そのような泣きそうな顔をしないでおくれ」

「ですが、獣との契約が危険であることはご存じでしょう?」


 まほろの声がふるえるのを見て、帝は眉を下げた。


 獣を従えることができる者は、呪者(じゅしゃ)の中でも限られる。獣はひとを厭うからだ。無理に従わせようとすれば牙を向けられる。そんな危険な道にわざわざ踏みいろうとする呪者はほとんどいない。だからこそ、それをやりとげる狼守りの一族は重宝されてきたのだった。


 獣はひとの手に余る。まほろは痛いほどそれを知っていた。


 帝は気遣うようにまほろを見ていたが、その目を格子の奥へ移す。


「わたしはあれを、赤羽(あかばね)と名づけた。翼の先が美しい色をしていたから」


 まほろもためらいながら、そちらを見た。


 鳥だ。


 まほろの背丈を優に超すほどの鳥が、そこにいた。翼を広げたとき、いったいどれほどの大きさになるのかわからない。そんな巨大な、そして汚れた鳥が蔵の隅で丸まっている。


 いまは灰色の塊のように見えるが、おそらく、もともとはまっさらな白い羽に包まれていたのだろう。それが翼の端のほうにゆくにつれてだんだんと赤みを帯びていることは、かろうじてわかった。


「ずいぶんと弱ってしまっていてね」


 天井の明かり取りからこぼれる光は弱いうえ、奥に燈台の明かりもない。鳥のまわりには薄闇が凝っていた。その闇に溶けいりそうにも見える弱々しい姿がまほろの胸に迫ってくる。


 ――死んでしまいそう。


 恐ろしいのは変わらなかった。けれど同時に、まほろの中に憐憫(れんびん)の情が湧いた。それほど鳥は弱っていた。


「御所より三里ほど離れた森で見つけた雌の鳥だ。獣ではあるが、神に近しい存在ともいえるだろう。怪我をして動けぬようだったので、ここに連れてきて世話をしている」


 鳥――赤羽を見つめる帝の瞳に、かげりがあった。


「もともと西海(さいかい)国の武装の話を聞いて、いまの兵では心もとないと思っていたのだ。そんな折に赤羽が御所に来たものだから、力を貸してはもらえぬだろうかと、狼守(おおかみまも)りの一族の真似事をした。まだ秋のころだった。……これは、そなたに馴染みのあるものだろう」


 帝は懐から紙の人形を取りだした、ひとの形をとったそれは、胸のあたりが赤黒く染まっている。その染みを囲うように、細かな文字が綴られていた。


 呪者の血と獣の血を紙人形に落とし、契約の媒介とする術だ。書かれた文字は、そのための呪文。一字一句違わず、まほろの生家で用いられていた呪符だった。


 なつかしい。物心ついたころから教え込まれてきた一族の術は、いまもまほろの身体になじんでいる。これも、忘れたいのに忘れられないものだった。


 だが、帝がなぜこの術を知っているのだろう。呪者は己の血筋を重んじるために、秘術を外に曝すことはないはずだった。


 視線を送ると、帝が口を開いた。


「本来ならば、紙人形を使わずに、互いの血を呑むのだそうだね。しかしそれでは両者ともに負担が大きかったため、呪符を媒介にした」

「……そうです。でも、なぜ」

「これでも、わたしは帝だよ。そなたの家の秘術を探ることなど造作もない――と言いたいのだけれど、苦労はした。秘術を知るために、多くの者に苦労をかけてしまったし」


 肩をすくめた帝は、まつ毛をふるわせて赤羽を見やる。


「しかし、わたしの術がうまくいかなかったのか、赤羽は心を閉ざしたまま。傷も治りは遅く、餌を与えてもほとんど食べない。近づこうとすると暴れるのだから、打つ手がなくてね」


 帝は格子につくられていた戸を押しあけ、赤羽に歩みよろうとした。


 唐突に、赤羽が瞳を開けた。翼を広げて騒ぎだす。敷かれていた藁と赤羽の抜けおちた羽が舞いあがった。鋭い嘴が開いたのを見て、まほろはとっさに帝の手を引き、格子の外へ連れもどす。勢いよく戸を閉めたと同時に、赤羽が格子にぶつかってきた。蔵自体が大きく揺れる。


 まほろは息をつめて、暴れる鳥を見つめた。神に近い獣が暴れたならば、それは天災とも厄災とも呼べる代物だ。赤羽は弱っているからこの程度で済んでいるが、それでも自分たちがまだ中にいたならば簡単に喰い破られていただろうことは察せられた。


 ありがとう、と帝はまほろの手を離させる。ずいぶんと強く握っていたようで、帝の手に痕がついていた。はっとして頭を下げる。


「申し訳ございません。ご無礼を」

「いや、助かったよ。……ここに連れて来たとき、赤羽は眠っていることが多かったから、近づいて世話もできたし契約も結べた。しかし力がもどるにつれ、このように。このままでは回復が見込めないだろうな」


 赤羽はしばらく興奮していたが力尽きたのか、まほろたちに背を向け、また隅のほうへ行ってしまった。しん、と蔵は静まり返る。


「やはり、無理に契約をしたことが悪かったのだろうか」


 帝の言葉に、まほろは目を伏せた。


 獣との契約は負担が大きい。呪者にとっても、獣にとっても。


 双方が同意をしていれば、契約は呪者と獣に強固なつながりを生む。しかし、心がたがっていれば、つながりは薄くなるどころか重荷になる。此度の契りが赤羽の望んでいないものであったなら、身体が抵抗を示して弱っていっても不思議ではない。


 まほろは帝を見つめた。薄暗い蔵の中では判別がしづらいが、顔色はよくないように見えるし、目の下にくまがある。契約の影響は、帝の側にも出ているのだろう。


 いますぐ契約を破棄すべきだ。


 口を開こうとすると、先に帝が言った。


「そなたの一族は、狼たちとよく契約を結びつづけられていたな」

「……え?」

「長年の狼の怨みが募って、そなたの家は滅んだのだろう。契約の障りも大きかっただろうに、何百年とよく持ちこたえたものだ」


 まほろは言葉に詰まって、うつむいた。


 きっと、惰性だったのだろう。長い時の流れの中で、一族にとっては狼を隷属させることが当たり前になっていた。狼たちもまた従わざるを得ない流れに呑まれていたのだ。


 その惰性も、あの夜に終わってしまったけれど。


「まほろに、赤羽の世話を頼みたい」


 帝の声に、まほろの意識が引きもどされた。


「世話、ですか」

「赤羽はもといた森で主とも呼ばれていたらしい。狼に並ぶ力があると思うのだ」


 帝は蔵の扉へと歩いていく。まっすぐに伸びた背筋が、帝の心根を表しているようだった。しかし、どこか頼りなく見えるのは彼の身体の薄さのためか。


 父が病で急逝し、急遽の即位を迫られた帝。その帝自身も、身体は弱いと聞く。そんな男に慣れない獣との契約など負担だっただろうに、どうしてこの選択をしてしまったのだろう。獣との契約なんて、するべきではなかったのに。


「まほろ、そなたは戦に出たくないのだったな。ならば赤羽を戦の道具に仕込んでほしい。契約をしたのはわたし、戦に出るのもわたしだ。そなたの抵抗もすくないはずだよ」


 外に歩みでた帝がふり返る。


「ほかの呪者たちからは、獣の扱いはわからぬと匙を投げられた。そなたにしか頼めないのだ。この東庵国のため、どうかわかってほしい」

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