1 儚い男と弱った獣
「まほろさま。お呼びでございます」
部屋でぼんやりしていると和泉が現れ、まほろを連れだした。
まほろが御所に捕らえられて幾日かが経った。多くを部屋の中で過ごし、時おり女宮からの求めに応じて彼女のもとを訪れる日々が過ぎていく。
「戦の話かな……。ねえ、どこへ行くの、和泉」
「行けばわかります。まほろさまは黙ってついてくればよいのです」
女宮の居室に行くわけではなさそうだった。こちらの方面に来るのははじめてで、まほろは不安を覚える。それでも歩みを止めることは許されなかった。
殿舎を通りすぎ、役人たちが詰める門の前に立つ。殿舎は築地塀で囲まれ、ところどころ出入りのための門があるのだ。和泉が書状を見せると、役人はまほろたちを外へ送りだした。
――森なんてあったんだ。
木々の生命に満ちた香りが風に乗って、まほろの鼻をくすぐった。それが腹の底にまで染みわたっていき、まほろは深く息を吸いこみながらあたりを見回す。
「まほろさまは御所に来たとき、牛車に詰めこまれていたのですよね」
「うん。だから御所がどんなところか見ていなくて。こんなところがあったなんて知らなかった」
門の外には、しんと静かな、けれど植物たちの息吹をはらんだ森が広がっていた。御所はこの森に囲まれているらしい。和泉の案内で進んでいくと、いくらも経たないうちに白木の蔵のようなものが見えてきた。壁の上方には明かり取りの窓と空気孔がある。つくられてからまだ日は浅いらしく、真新しい木の匂いがした。
いや、それだけではない。
――獣の臭いだ。
あの蔵から、ただよってくる。
身体をこわばらせたまほろをよそに、和泉は控えていた役人に掛けあって扉を開けさせた。とたんに獣の臭いが強くなり、まほろの足を地に縫いとめる。
「まほろさま、中へ」
本当は一歩も前に出たくなかった。だが、和泉の瞳がそれを許さない。まほろは黙って歩きだす。
蔵の中は薄暗く、また、外から見ていたよりも狭く感じた。白木の格子で手前と奥が仕切られていて、奥のほうが広く間取りをとっているからだろう。手前側は渡り廊と同じような幅しかない。そこに火が灯された燭台があり、となりには女宮が立っている――と、そう思った。
まほろは眉をひそめる。薄暗い蔵の中で、じっとその人物を見つめた。
……ちがう。あれは女宮ではない。
蔵に立つその人物は背丈も白い衣も美しい黒髪も女宮と瓜二つだったが、明らかに線が細く見えた。それに、ふり向いた顔にはやわらかな微笑を浮かべている。
「そなたが、まほろか」
発せられた声は、思いのほか低かった。まほろは目を見開くが、よくよく見れば相手の白い袖から伸びる指先は骨の節が目立つし、形のいい桜色の唇は女宮より薄く見える気がした。
……男、なのだろうか。
「和泉、連れてきてくれてありがとう。下がってよい」
男にそう言われた和泉は、うやうやしく頭を下げてその場を辞した。その様子を見て、ひとり残されたまほろは、目の前に立つ相手が何者なのかに思い至った。とたんに、ひやりと腹の底が冷たくなる。
どうして、このお方が。
「妹が世話になったようだね。ああ、そのままで構わないよ」
「ですが……」
「顔をお上げ」
平伏しようとしたまほろだったが止められて、おそるおそる顔を上げる。男は朗らかに微笑んでいた。
「本当はもうすこし早くそなたに会おうと思っていたのだけど、片づけねばならない政務も多くて時間がとれなかった。なに、緊張せずともよい。帝相手などと思わず、そなたの兄とでも思って話しておくれ」
まほろは戸惑い、目を伏せる。彼を兄などと思えるはずがなかった。なにせ目の前にいるこのお方こそが東庵国を治める今上帝――、主上なのだろうから。それは疑うまでもなかった。女宮と魂を分けたように美しい容貌も、自分とは比べるのも恐ろしいほどの瞳に宿った品位も、彼の立場を示している。
この国でもっとも尊いひとがいま、自分の目の前にいる。それだけで息をすることも憚られる思いだった。あてもなく旅をしてきた一介の呪者でしかないまほろが言葉を交わしていい相手ではない。
しかし、帝は穏やかにまほろを手招き、瞳を覗きこんでくる。
「聞いてはいたけれど、そなたの瞳は美しい色をしているね」
「……恐れ多いお言葉でございます」
御所に来てから、まほろは瞳の色を隠すことをやめていた。いまのまほろは、もともとの瞳の色をしている。狼たちと、同じ琥珀色だ。
「そなたも大変な道を歩んできたのだろう。狼守りの一族の話はよく聞いていたよ。その功績も、その悲劇も」
胸の奥にこだまするような声だった。それは、師である山吹の奏でる笛の音にも似たやわらかな響きをもっていて、まほろはふいに泣きたくなった。そんな自分に驚き、隠すようにうつむく。帝が自分から目をそらす気配を感じた。
「妹は、すこし強引なところがある。嫌な思いをさせていたなら謝ろう。だが、彼女も悪気があるわけではないのだ。国を治める者は、ときとして民のために、なにかを犠牲にせねばならぬこともある。――いや、この言葉もそなたにとっては詭弁でしかないか。すまないね」
哀しそうな色をにじませた声で、帝はつづける。
「ともかく、わたしも国のために尽力している。――だから、あの者と契約を交わしたのだよ」




