7-2 東庵国と西海国
それは西の国との境あたりを流れている川だった。
「この大河は、ひとびとに恵みを与えてくれる。農作物を潤し、ひとの喉を潤し、生活を支えるものだからな。この大河の所有権をめぐって、我が国は西との戦が絶えなかった。古くは国境も曖昧だったために、争いも収まりようがなかったわけだ。まあ、かねての大戦で国境ははっきりと引かれ、大河は東庵国に属するものだと決着したのだが」
西の国は、西海国。
彼女は忌々しそうにその国を指で弾いた。
「西海国にはもうひとつ、北の国とまたぐ河川があるのだが、こちらもここ数年は北と西で争っていた。結果、川の権利を北が八割有することになったのだが、それは知っているか?」
「……西が負けたらしいことは、噂で聞いています」
「ならば話が早い。西海国はいま、国にとって重要な大河をふたつとも他国に支配されている状況だ。理解できるな?」
問われて、無言でうなずいた。
その話は東庵国の片田舎にまで知られていることだ。多くは西海国への嘲りをはらんでいたが、一方で東庵国の民は不安を抱えてその噂をしていた節もある。
「西のやつら、北との戦の大敗に加え、干ばつに見舞われているようでな。この状況で、やつらはどうしたと思う?」
追いつめられた彼らの行動――。
答えを導くのは、難しくない。
「天辰の大河を欲している」
「そうだ。西にも大河を使う権利をと申してきた。先の大戦は忘れ、助け合おうと」
とんとん、と地図を小突く女宮の指はせわしない。
「この大河は我らにとっても必要な聖なる川だ。易々と渡せぬ。だいたい西海国の水不足はやつらの自業自得。北と戦など、馬鹿なことをしたものだ」
東庵国と西海国の北に広がる北宗国は、広大な土地を有している。武力も申し分なく、戦をすればどうなるか、結果は見えているようなものだった。
女宮は静かに、けれど確実に不満を含んだ声でつづける。
「いまさらどの面を下げて我らを頼ってくるのかという話でもある。西海国の阿呆どもには頭を悩まされてきたのだ、手を貸す道理がどこにある」
「……西海国との小競り合いは、たびたび起きていると聞いています。大戦のあとも」
「ああ。一度決めた取り決めすら守れぬ愚か者たちなのだ」
水欲しさに、西の民たちは武力を行使した。当然、東庵国も川を守ろうとして衝突が起きる。それがたびたびだ。東庵国の民には不満が溜まっていた。
とはいえ、これまでは民による小さな諍いの域を出なかったのに、このごろ状況が変わってきたらしい。
女宮は怒りをおさめ、静かな顔になった。そのほうがまほろには恐ろしく思えた。
「西海国が武装を整えているとの知らせがあった。やつら、力づくで大河を手に入れるつもりだ。今度ばかりは戦になる。――おまえの一族が滅び、狼がいなくなったことが、きっかけだろうな」
「え……?」
「おまえの一族は常に西海国を退けてきた。狼守りの存在は、やつらへの戒めとなっていたのだ。それがもう数年、我らは狼守りを失い武力に欠けている。西の者たちもそれを知って、戦を仕掛けようなどと思いあがったことをはじめたのだろう」
「そんなこと……、わたしに言われても」
「ああ、べつに責めてはいないさ。事実を言っているだけだ。おまえの一族がそれだけの力を持っていることは、理解しているだろう?」
まほろはうなずくことも首をふることもできなかった。
たしかに、女宮の言うとおりなのかもしれない。しかしそう言われたところで、自分にできることなどなにもない。
「――渡せばいいではないですか、川なんて。戦でひとが死ぬより、ずっといい」
ようやく出た言葉はふるえていた。女宮の眉が跳ねる。
「国と国の諍いはそう簡単なものではないのだよ」
場を沈黙が支配し、まほろはいますぐ部屋を飛びだしたくなった。しかし足は動かない。逃げることを許さないという女宮の意志が、まほろをそこに縛りつけていた。
「かつて、わたしは狼が戦う姿を見たことがある」
女宮は変わらず淡々と言う。
「すばらしいものだった。あの力があれば、国を守ることができる。野を駆け、敵兵を次々に討ち倒す。その牙も爪も、人間がつくる武器では敵わない」
「知っています」
そんなものはとうに知っている。知っていて、忘れようと努力した。
それなのに記憶から、まぶたから、消えてくれない。
「わたしは、狼がひとを殺すのを見ていました。父も、母も、その牙や爪に殺されたんです。恐ろしさなら身にしみるほど知っています……!」
今度こそまほろは部屋を飛びだした。もうそれ以上、狼たちの話を聞いていたくなかった。あの力が、すばらしいもののはずがない。
だが、部屋を出たところに武官が三人待ちかまえていた。彼らはまほろの手首をつかみ、動きを封じる。抵抗しようともがいたところで、男の力には敵わない。
女宮が足音もなく近づいてくる。
「それでも、やらなくてはならないときなのだ。おまえが狼守りの一族に生まれた以上、その宿命を受けいれるほかない。わかりなさい、まほろ。そなたももう子どもという齢ではないだろう」
女宮の声に、まほろは顔を上げられなかった。




