一族が滅んだ日
ああ、春の香りだ。
小さな狼を抱きあげて、その白銀の毛並みへ鼻を押しつける。
うららかな春の野に寝転んだときの香りがした。薄暗い小屋にいることを忘れてしまうくらい、あたたかな香り。
「あら、まほろってば、駄目よ」
視線を向けると、叔母が眉を下げていた。
「その狼、身体が小さいもの。母親が死んでから、ほかの狼の乳をあまり飲まないのよね。困ったものだわ。だから、ね、ほかの狼になさい」
「でも叔母上。わたしはこの子がいい」
「駄目ですったら」
そう応える叔母だが、目が泳いでいる。まほろは叔母が自分に甘いことを知っていた。齢六つの自分がわがままを言えば、困った顔をして折れてくれることが、いままでも何度かあったから。
「……そんな目をしても駄目よ。しっかり選ばないと父上に叱られますからね。はじめに契る狼は大切なのだから」
「父上は勘が大切とも言ってたよ」
「でもねえ、ほら、ほかの狼のほうが足腰もしっかりしそうだし」
眠っている子狼を、叔母は抱きあげてまほろに見せた。その背後で格子窓のすき間から桜の花びらがひとひら吹きこむ。まほろが抱いた小さな狼は、琥珀色の瞳で花を追った。
――きれいな瞳。
ほかの狼たちは眠りつづけている。だが腕の中のこの子だけは、まほろが小屋に入ったときからこちらを見ていた。その琥珀の瞳を見たとたん、まほろは思ったのだ。
ともに生きるなら、この子がいい。
「春の香りがするから、琥春なんて、どう? あなたの名前」
子狼はゆっくりとまほろを見上げ、すりよってくる。わらかな毛並みに、思わず頬がゆるんだ。
「……まほろ。狼に親しんではいけません」
叔母が厳しい声で言った。それにつづく言葉を、まほろは知っている。
――狼は道具なのだから。
まだなにか言っている叔母をよそに、まほろは琥春を抱いて小屋から逃げた。風が吹くと、琥春が耳をぴんと立てる。
「いつか、一緒にこの家を出ようか。ここは居心地が悪いから」
言葉がわかっているのかいないのか、琥春はうなずいた。その小さな身体を抱きしめる。この子は、わたしが大切にする。道具になんてさせない。
「大人になったら、もっと桜がきれいな場所を探しに行こう」
――けれど、まほろが齢八つになった年に、それは起きた。
月のない春の夜だった。
眠っていたまほろは、妙な騒がしさに目が醒めた。障子越しに見える外の世界に闇はなく、異様なほどに煌々と明るい。障子に黒い影が映った。狼の形に見えた。
「……琥春?」
となりで眠っているはずの琥春がいない。
だれかが外で叫んでいる。障子一枚を隔てた向こう側の気配は、嵐のように渦巻いていた。なにかが起きている。夜具から抜け出し、障子に指先をかける。ゆっくりと――、開く。
広がる世界に啞然とした。
桜で美しかった丘の邸は、いま、炎に呑まれようとしていた。白銀の狼たちが毛並みを赤黒く穢し、狂ったように駆けていく。庭に、家人が転がっていた。石のように動かない。大人の背を越す大きな狼が、そこへ、なにかを棄てた。ぐでんと転がったのも、また、ひとの骸だった。
夢かと思った。自分はまだ眠っているのか。悪夢の世界にいるのか――。
どこからか狼の澄んだ声がした。琥春だ。どこかで、琥春が呼んでいる。こちらに来い、と。その瞬間、まほろはとっさに駆けだした。
なぜ、一族が従えている狼たちが――一族が「道具」と称して隷属させている狼たちが、主人である一族の人間を殺しているのか。
幼いまほろには、なにもわからなかった。




