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狼守りと桜雨  作者: 橘花やよい
序章
1/18

一族が滅んだ日

 ああ、春の香りだ。


 小さな狼を抱きあげて、その白銀の毛並みへ鼻を押しつける。


 うららかな春の野に寝転んだときの香りがした。薄暗い小屋にいることを忘れてしまうくらい、あたたかな香り。


「あら、まほろってば、駄目よ」


 視線を向けると、叔母が眉を下げていた。


「その狼、身体が小さいもの。母親が死んでから、ほかの狼の乳をあまり飲まないのよね。困ったものだわ。だから、ね、ほかの狼になさい」

「でも叔母上。わたしはこの子がいい」

「駄目ですったら」


 そう応える叔母だが、目が泳いでいる。まほろは叔母が自分に甘いことを知っていた。齢六つの自分がわがままを言えば、困った顔をして折れてくれることが、いままでも何度かあったから。


「……そんな目をしても駄目よ。しっかり選ばないと父上に叱られますからね。はじめに契る狼は大切なのだから」

「父上は勘が大切とも言ってたよ」

「でもねえ、ほら、ほかの狼のほうが足腰もしっかりしそうだし」


 眠っている子狼を、叔母は抱きあげてまほろに見せた。その背後で格子窓のすき間から桜の花びらがひとひら吹きこむ。まほろが抱いた小さな狼は、琥珀(こはく)色の瞳で花を追った。


 ――きれいな瞳。


 ほかの狼たちは眠りつづけている。だが腕の中のこの子だけは、まほろが小屋に入ったときからこちらを見ていた。その琥珀の瞳を見たとたん、まほろは思ったのだ。


 ともに生きるなら、この子がいい。


「春の香りがするから、琥春(こはる)なんて、どう? あなたの名前」


 子狼はゆっくりとまほろを見上げ、すりよってくる。わらかな毛並みに、思わず頬がゆるんだ。


「……まほろ。狼に親しんではいけません」


 叔母が厳しい声で言った。それにつづく言葉を、まほろは知っている。


 ――狼は道具なのだから。


 まだなにか言っている叔母をよそに、まほろは琥春を抱いて小屋から逃げた。風が吹くと、琥春が耳をぴんと立てる。


「いつか、一緒にこの家を出ようか。ここは居心地が悪いから」


 言葉がわかっているのかいないのか、琥春はうなずいた。その小さな身体を抱きしめる。この子は、わたしが大切にする。道具になんてさせない。


「大人になったら、もっと桜がきれいな場所を探しに行こう」


 ――けれど、まほろが齢八つになった年に、それは起きた。


 月のない春の夜だった。


 眠っていたまほろは、妙な騒がしさに目が醒めた。障子越しに見える外の世界に闇はなく、異様なほどに煌々(こうこう)と明るい。障子に黒い影が映った。狼の形に見えた。


「……琥春?」


 となりで眠っているはずの琥春がいない。


 だれかが外で叫んでいる。障子一枚を隔てた向こう側の気配は、嵐のように渦巻いていた。なにかが起きている。夜具から抜け出し、障子に指先をかける。ゆっくりと――、開く。


 広がる世界に啞然(あぜん)とした。


 桜で美しかった丘の邸は、いま、炎に呑まれようとしていた。白銀の狼たちが毛並みを赤黒く穢し、狂ったように駆けていく。庭に、家人が転がっていた。石のように動かない。大人の背を越す大きな狼が、そこへ、なにかを()てた。ぐでんと転がったのも、また、ひとの骸だった。


 夢かと思った。自分はまだ眠っているのか。悪夢の世界にいるのか――。


 どこからか狼の澄んだ声がした。琥春だ。どこかで、琥春が呼んでいる。こちらに来い、と。その瞬間、まほろはとっさに駆けだした。


 なぜ、一族が従えている狼たちが――一族が「道具」と称して隷属させている狼たちが、主人である一族の人間を殺しているのか。


 幼いまほろには、なにもわからなかった。

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