酔う者、酔わぬ者
仕事を終えて遅い時間に帰ってきたクロさんが喫茶店の扉を開ける音に気付いて私は手を振った。
「クロさーん!おかえりなさい!」
何だか顔を見たら嬉しくなってしまって私はクロさんに駆け寄り抱きついてしまった。
「マソホさん?ちょっ…シロガネさん、何を飲ませたんですか!?酔っ払ってるじゃないですか!」
私はふわふわしたまま、クロさんの手を握る。何だかとても楽しかった。シロガネさんのカクテルは美味しくてどんどん飲めてしまう。
「えーだって、記念日ですよ?研修生になれたんですから。それに酔っ払ってなんかいないです」
「十分に酔っ払ってますよ、まったく…あれ?どうしました、ヤミカさん」
「クロさん…おかえりなさい…私は…人がどこから来てどこに行くのかについて…思いを馳せていただけですよ…」
ヤミカさんはどこぞの画家の如く壮大な台詞を口にしつつカウンターに頬杖をついてやけに色っぽい仕草でシロガネさんの作ったマルガリータを飲んでいた。何故かそのカクテルを見たクロさんは眉をひそめた。
「随分とまた…意味深なものを出しますね…」
「ヤミカが選んだんだよ。それに、そう思うのはクロさんの中にそういう気持ちがあるからでしょ?少しは素直になったらどう?」
クロさんは短いため息をつく。
「マソホさんは…少し飲み過ぎですよ?普段ならもっと距離を保って接してくるでしょう?」
気付けば私はクロさんの腕に両手を絡めていた。生きていた頃は誰かに対して一度もそんなことをしたこともないし、それにお酒を飲んでもこんなにふわふわして楽しくなったこともなかった。
「で?何飲む?飲まないとは言わないよな?」
「…ジントニックを下さい。マソホさんは…これ…オレンジブロッサムですか?」
「そうですよ!美味しいです」
私は少し我に返ってクロさんから両手をそっと離した。
「ジントニックね…相変わらず固いよね。二人とも研修生に上がったんだし別にいいじゃないか」
シロガネさんはクロさんのカクテルを作りながら肩をすくめる。ヤミカさんはシロガネさんの手をじっと見つめていた。
「シロガネさんの手って…綺麗ですよね…私が異形化して…どうにもならなくなったら…その綺麗な手でひと思いに…消し去って下さい…」
ヤミカさんは美しく微笑む。
「やれやれ、ヤミカは死んでもお酒を飲むとそうなっちゃうのか。楽しくなれないとは難儀な性格だねぇ。消さないよ。形が崩れたら作り変えればいい。バラバラになったら集めればいい。俺は混ぜるのも厭わない…」
「そういう台詞は好きな人に言って下さいよ。勘違いしてつけ上がる面倒な女には正直なりたくないです!」
「なんとも思ってない相手にそんなこと、言うほど俺は軽い男じゃないんだけどね…」
「その軽々しい見た目で言っても…信憑性ないですよ」
クロさんの前にジントニックを出したシロガネさんは、自分の飲んでいたスクリュードライバーのグラスを軽く持ち上げる。
「私はシロガネさんの、そういう気障なところが…何年経っても鼻につくんですよ…」
「カクテル言葉の意味を深読みするクロさんの方が気障だと思うけどなぁ…俺は美味しいなら何だっていい。マソホちゃんは人生で初めてこんなに気持ち良く楽しく酔っ払ってるみたいだし、何よりじゃないの」
シロガネさんは憂いを帯びたヤミカさんの頭を撫でた。ヤミカさんは時計を見上げて残りのカクテルを一気に飲み干すとグラスを静かに置いた。
「…そろそろ…死亡時刻ですね…ここじゃちょっと…やっぱり二階に行きます。毎回毎回…もううんざりですけど」
毎日同じ時刻になると、ヤミカさんのお腹からは黒い手のような異形が現れる。シロガネさんはヤミカさんと共に二階へ向かう。シロガネさんの手がそっとヤミカさんの肩を抱くのが見えた。
「お二人とも、まぁごゆっくり」
二人で取り残されてしまった私は途端に気まずくなって、オレンジブロッサムを一口飲んだ。
「…マソホさん…」
クロさんの静かな声に私は身構える。この声のトーンが私はまだ少し怖い、そう思った。続きを聞くのが怖かった。
「これから住む場所ですが…どうしますか?といってもあなたに、選択権はほぼないに等しいのですが…」
「え…?住む場所…ですか?」
身構えた分肩透かしをくらった気分で私はクロさんを見上げる。
「はい。一つはこの喫茶店の上の階にある部屋…ヤミカさんはシロガネさんと一緒にいるそうです。異形化の頻度から言っても、確かに離れて住むのはリスクが高い…リスクを考えるとマソホさん、あなたも同じです」
「はい…」
分かっている。私はヤミカさんのように死亡時刻に異形化することはない。けれどもタイミングが読めないという点においてはヤミカさんよりも厄介な状態とも言えた。
「選択肢の一つはヤミカさんの向かいの部屋に住む。もう一つは私の家に住む。今日のように私が外出している場合は、ここで待っていてもらうことになりますが…すみません。嫌だと思いますが、一人暮らしをさせる許可は降りませんでした」
「当然だと…思います…クロさんこそ…ご迷惑では…ないですか?」
クロさんは私を見て頭を撫でた。
「いいえ、私のことでしたら心配はいりません」
「でしたら、私は…クロさんの家に行きます…よろしくお願いします」
私は頭を下げた。クロさんといつもより長く離れていた、それだけのことなのに、実は内心では不安になっていた。私が思わず自分の手を見つめたことでクロさんは何かを察して素早く私の手を握った。
「少し…長く離れ過ぎましたね。もう一度結び直します…」
手首の紐が現れてクロさんに繋がる。クロさんは片手で私の肩を抱いた。死んでいるのにドキドキすると感じるのは何故なのだろう。
「離れると不安になるのは当然の感情です。魂と死神の中間である研修生とはそういうものですから。まだ人のときの感覚が残っていて、それをなぞる…マソホさんは雛鳥のように私のことを探してしまう」
雛鳥、そんなものではないと思う。クロさんのことを親だとは微塵も思っていない。それよりも切実で耐え難い乾きにも似た感覚だった。その感覚に焦点を当てるのが私は怖かった。
「クロさん…私…変なんです…小指にも糸が絡まってるんです…どうして…ですか?」
私は片手を持ち上げる。手首の紐よりも細い糸が見えた。酔っているせいだろうか。クロさんは、長いため息をついた。呆れられたのだろうか。不安になる。
「やはり…見えてしまいましたか…変な訳ではありませんよ。見えてしまったなら隠していても仕方ないので言いますが…だからと言ってマソホさんは、そのことに縛られる必要はないんです。その糸は過去と未来とを繋いでいるんです。私とあなたとの」
「え…?」
私は内容が頭に入ってこなかった。どこに繋がっているのかと思った糸はクロさんの小指に繋がっていた。呆気にとられてクロさんを見上げる。
「過去にあなたは何度か私の伴侶だったことがあります…そして未来にも縁が…ですから、私はあなたの魂を迎えに行きました」
「私が…クロさんの…?ええっ!?」
ようやく内容を理解して私は思わず叫び声を上げてしまった。
「言わないでおこうかと思いましたが…一つ屋根の下に住むのに言わないでおくのもフェアではない気がするので…私は死神ですし鎌も所有していますから早々欲望に走ることはないですが、それでも…何も感じないかと言ったら…そんなことはありません…時折揺らぎます。ですから…もし、それでマソホさんが不快に感じることがもしあれば…きちんと言葉にして言って下さい。すぐに別の担当を探しますから…」
クロさんは困ったように微笑んだ。私はお酒のせいか今のクロさんの言葉のせいかは分からなかったが、顔が熱くなったように感じた。顔から火が出るとはこのことだと思った。そういえばいつも冷えている体が今日はほんのり温もりを感じる。
「クロさん…別の担当だなんて…言わないで下さい…私にとっては…何でも…初めて…なんですよ?今だって不安です。クロさんが教えてくれるから、私、頑張って…一人前の死神になりたいって…思ったんです。この先だって、統括の言うように…みっともなく私が縋るのは…きっと、クロさんだけなんです」
クロさんは少し驚いたような顔をして私を見つめた。
「分かりました…では…もう少し近付いてもいいですか?マソホさんの不安を和らげられるなら…良いのですが…」
クロさんはそう言うと、遠慮がちに私を抱きしめてくれた。最初はそっと。少しずつその腕に力がこもる。
「マソホさん、異形化が怖いですか?」
私は頷いた。怖い。別のものに成り代わってしまうのは怖かった。
「私とシロガネさんは…これでも…過去に異形化しかかった魂を一人前の死神にしてきました。だから、あまり恐れないで下さい」
クロさんに抱きしめられると、不思議なことに少しずつ私の不安は落ち着いていった。相変わらずドキドキするような感覚はあったけれど、それは伴侶だと言われたせいもあった。クロさんだったら、私の話を目を見てきちんと聞いてくれて、聞き流すことはないだろう、そう思った。
「クロさん…過去の…私は…いい伴侶でしたか…?」
「えぇ…そうでなければ…あなたの魂を迎えに行くはずないじゃないですか」
私はクロさんの背中に手を回した。温かい、そう思った。
「私…ずっと寒かったんです。この辺が…。でも…クロさんといたら…少し温かくなる気がするんです」
私は胸の辺りに手を当てる。クロさんは頷いた。
「ようやく…気づきましたね。あなたもまた冷えていた。それはヤミカさんもですが」
「冷えて…って…心が…ですか?」
クロさんは相変わらず優しい顔をしている。そうして少し悲しそうだった。
「マソホさん…あなたの心は日常的に繰り返される相手の言動に徐々に冷やされていたんですよ…少しずつ…その積み重ねによって身体よりも先に心が冷え切ってしまった…呪詛の作用もありますが…人はその状態に陥ると死を引き寄せやすくなるのです…」
クロさんはもう一度私を抱きしめる腕に力をこめた。
「その冷え切った心を温めるのが私の役目でもあるんですよ?ですから、こうやって少しずつゆっくりと溶かしてゆきましょう」
「はい…お願い…します」
私は、クロさんの腕の中で目を閉じる。どこか懐かしい温もりに包まれて私はその日、久し振りに穏やかな夢を見た。夢の中で私はクロさんと暮らしていてささやかな幸せを感じていた。ただ手を繋いで散歩をしている、それだけの夢だったが、その何気ない日常のひとコマが何故か私には温かくてとても切なかった。前世の記憶なのだろうか、目覚めてからそう思った。




