凪いだ心
アシシはスタスタと足早に歩くヒサメに手を引かれてついてゆく。ヒサメは歩くのが早い。ランクAの死神の居住区に足を踏み入れるのは初めてだった。ヒサメはどこか横浜中華街を連想させる、建物が並ぶ場所をどんどん進む。かつては中華屋だったのか一階は営業している様子のない建物の細い螺旋階段をヒサメは上がる。いったいどこまで上るのだろう。もしも酔っ払ってこの階段を上ったら途中で気分が悪くなりそうだとアシシは思った。やがてヒサメは扉を開けて中に入る。廊下には二つドアが並んでいて奥の部屋がヒサメの部屋だった。ヒサメはポケットから鍵を取り出す。ガチャガチャと回してドアを開けるとアシシを手招いた。
「おいで」
「お…お邪魔します…」
「女の家に上がるのって初めて?」
「…いえ…」
嘘をついても仕方ないのでアシシは首を横に振る。
「サークルの友だちと…飲み会したことがあって…でも…ただ鍋食ってベロンベロンに酔っ払って起きたら朝で…何もありませんでした…」
ヒサメの家に上がったアシシは個人の家にしては不思議な光景に思わず中に入るのを躊躇った。薄暗いリビングの壁には水族館のように巨大な水槽が埋め込まれていて、その中で白とピンクのクラゲがたくさん泳いでいた。通常ならテレビがありそうな位置だ。
「あークラゲ飼うの夢だったんだよ。嫌いだった?」
「いえ…好きか嫌いかなんて…今まで考えたこともなかったですけど…こうやって改めて見ると…キレイですね…」
ヒサメの部屋にはあまり物がなかった。テーブルと二脚の椅子。狭いキッチンにはマグカップが一つ。部屋を見ていたアシシは不意に後ろから抱きしめられた。背中に胸の弾力を感じてアシシは心拍数が上がるのを意識した。温かくて柔らかい、そう思った。
「好きか嫌いかなんてあんまり関係ないんだよ…欲しいか欲しくないか。久々に悪魔に会って戦ったからか…我慢できない…あたしはそういう死神なんだ…血を見たら興奮する…アシシは若くて魅力的だから今すぐにでも欲しい…」
自分よりもよほど男らしい台詞を囁かれてアシシは脳の奥が痺れるような今までに感じたことのない、ゾクゾクする感覚にさせられた。恋とは違う。明らかに本能と直結する欲望を刺激されている。
「俺…こういうこと…初めてだから…うまく出来るのか自信ないです…」
アシシはつぶやく。言ってしまってから随分と我ながら格好の悪い台詞だなと思った。
「大丈夫だよ…あたしが教えるから…」
ヒサメの黄緑の瞳の奥でアシシの知らない色の炎が揺らめいている。目が合ってしまうともう何も考えられなくなった。いつの間にか寝室に入っていて、アシシはヒサメにベッドに押し倒された。ヒサメは肩の辺りについているブローチを外す。瞳の色と同じ石が光っていた。ヒサメはアシシの掌にそれを握らせた。そうして豪快に服を脱いだ。恥じらいやためらいは一切なかった。
「あたし、アシシの初めてになれるんだね。嬉しいよ。忘れられない経験にしてあげる」
ヒサメに囁かれてアシシは小さく頷いた。格好悪くて構わないとアシシはその瞬間思った。彼の導き手は急に妖艶な顔付きになって微笑むと、熱い吐息と共に唇を重ねた。
***
私はクロさんたちと共に、ペコさんを連れてヤミハラさんの中華屋の方へ向かっていた。元々昼ご飯を食べようとしていたのを思い出したのと、ヤミハラさんと連絡がつかなかったので、一緒に行ってみることにしたのだった。
けれども中華屋のある第三階級の死神の居住区に近付いた私たちはそこに異様な光景を見た。中華屋があったはずの付近一帯は何もない灰色の空間になっていて規制線が張られていた。ペコくんの顔色が一気に青ざめる。
「ヤミハラさんっ…!どこっ…!?」
「すみません、この子はヤミハラさんの担当する研修生の一人なのですが、いったい何があったのですか?」
規制線の前にいる死神と警察官のような格好をした人たちに向かってクロさんが尋ねた。死神はクロさんを見ると慌てたように一礼をした。
「お疲れ様です。綻びができて真っ先に悪魔が降り立ったのがこの場所だったようで、付近一帯は何も残っていませんでした。魂の消失の照合が終わったリストは随時そちらに掲示されていますが…確認致しますか?」
死神の言葉にクロさんはやや眉をひそめて頷いた。私は思わずペコくんの肩に触れる。すでにペコくんは今にも泣きそうな表情をして増え続けるそのリストを凝視していた。
「ああっ…!」
しばらくしてペコくんはリストに並んだ文字を見つけて悲痛な叫び声を上げた。そこには第三階級の死神のヤミハラさんとササメさんの名前が並んでいた。私は皆で中華屋のテーブルを囲んで食事をしたあの日の光景を唐突に思い出した。そして、あの場にいた死神をすでに二人も失った事実を受け止め切れずに茫然としてしまった。
「…ペコ…?」
そのとき仮設されたテントの中から見覚えのある顔が覗いた。あのときペコくんと同じテーブルにいた少年だった。少年は左腕を失っていた。
「コウ!!」
フラフラと出てきた少年をペコくんが抱きしめる。小さなペコくんよりも相手の方が背は高いのに、そのとき私にはペコくんの方がまるで兄のように見えた。
「スズは…?」
コウと呼ばれた少年は顔を歪めて首を横に振った。
「…助け…られなかった…僕は…ヤミハラさんの鎌に飛ばされたから…片腕を…食われただけで…済んだけど…僕を…庇ったから…ヤミハラさんは…」
コウくんは歯を食いしばっていた。無言で近付いたクロさんがコウくんとペコくんを抱きしめた。
「コウくん、君は自分を責めてはいけません。君はこの先ヤミハラさんを超える…強い死神になって下さい。それがお世話になった死神に出来る最大の恩返しになりますから…」
クロさんはその後書類にサインをして、一時的にペコくんとコウくんを引き取ることにしたようだった。他にもぞろぞろと死神がやってきて仮設テントに残る研修生に声をかけるのが見えた。私たちは食事どころの気分ではなくなり、すっかり落ち込んでシロガネさんの喫茶店に戻った。シロガネさんたちは大丈夫だろうかと私は心配になってクロさんに尋ねた。
「…シロガネさんはヤミカさんと病院に着いたそうです。途中電車が止まってしまったようですが無事ですから、安心して下さい。すみませんマソホさん少し手伝ってもらえますか?今昼ご飯を用意しますので」
クロさんは冷蔵庫を開けると豚肉を取り出した。私は言われるがままにタマネギを切る。冷蔵庫から小分けにされたご飯と冷蔵庫からもご飯の残りを取り出して温めている間に、クロさんは豚肉とタマネギを炒めてケチャップとウスターソース、それに酒とオイスターソースを加えて味付けをした。ご飯はバターライスにする。美味しそうな匂いが喫茶店に広がった。
「即席ポークチャップです」
私はレタスを洗って水気を切る。ご飯とポークチャップ、レタスとミニトマトを盛って、簡単な昼ごはんが完成した。フブキさんとミナミさんがすでにスプーンとフォークを出していて、皿を並べてくれた。六人で広めの一つのテーブルを囲んで、いただきますと言った。ペコくんとコウくんは、突然第一階級の特別区に連れて来られて緊張している様子だったけれど、一口ポークチャップを口に入れるなり、夢中になって食べ始めた。私も食べてみて、どこか懐かしいその味にホッとした。
「クロさん、美味しいです…!」
私が言うとクロさんは少し困ったように笑った。
「昔、ヤミハラさんが賄いで作っていたのを思い出しまして。オイスターソースが隠し味なのだと言っていたのですよ」
「これ…前に晩ご飯で食べたのと同じ味です…」
ペコくんはそう言ってポロリと涙をこぼした。近くに座っていたミナミさんがペコくんにハンカチを差し出す。コウくんも頷きながら、モリモリとポークチャップを口に運んでいた。涙を拭いたペコくんもやがてモリモリと食べ始める。ヤミハラさんはもうここにはいないのに、その料理の味が残っていることに私は胸の奥が苦しくなった。思わず潤んだ目を瞬いて私もポークチャップを負けじと口に運んだ。
***
ヒサメは少しうとうとして、心地良い微睡みから浮上した。腕の中ではアシシが静かに眠っている。ヒサメはベッドの横に置いた死神のブローチとスマホをちらりと見た。テレビとスマホを連動させてヒサメはサイレントのままで天井に設置したテレビから情報を読み取る。消失した魂のリストに目を走らせて、ヒサメはやがてそこに一卵性双生児の姉の名を見つけた。悪魔と戦い始めたときにすでにもう姉はいないことに薄々気付いてはいた。悲しいとは思わなかった。それを淡々と事実としてヒサメは受け入れた。
(だから言ったじゃん、弱いままじゃいつか狩られるって…)
姉は死神にはなったが戦うことに消極的だった。結局第三階級の途中で彼女は満足し、同じく戦いには消極的なビジネスパートナーを見つけて、飢えて死んだ魂の救済をすることで満足してしまった。最後に会ったときに姿形も全て変えた自分を見て姉は言った。同じ顔だとこの先迷惑がかかる、そう思った気遣いがかえって仇となった。
(ヒサメは目立ちたがりだね。そんなにモテたいの?男漁りの死神って、あんた有名だよ?ほんと恥ずかしい)
目立って何が悪いと思った。それに恥ずかしいのはどっちだ。定食屋でかりそめの家族ごっこで満足をして魂の回収にすら行かない死神を自分と同じ死神とは呼びたくもなかった。死神は鎌を振るって戦うものだ。空襲で焼け野原になったあの日、ヒサメは無力な自分を呪った。自分も武器を手に取り戦ってやるとそう誓った。だから目の前に降りてきた死神が自分の理想の姿だと確信した。
「ん…」
腕の中でアシシが身動ぎする。ヒサメは何げなくテレビを消した。
「ヒサメさん…大丈夫ですか?」
アシシはなぜかそう言ってヒサメの頬に触れた。
「大丈夫に決まってるじゃん、どうした?」
「いえ…少し…難しい顔してたように見えたので…」
「そう?気のせいだよ」
ヒサメはアシシを抱きしめる。アシシは遠慮がちに唇を重ねてきた。魂の距離が近づいたのをヒサメは感じた。いい傾向だ。早く女に慣れさせておかないと、この先魂の回収に出て悪魔に会ったら喰われてしまう。純粋無垢なままでは死神にはなれない。あまりに年齢の低い魂が死神になれないのはそのせいでもあった。それに向こうも荒れている。戦争が激化すると悪魔もまた活性化する。
「ヒサメさん…ヒサメさんって…もしかして…ササメさんの妹ですか…?」
ヒサメはハッとしてアシシの顔を見返してしまってから、表情を読まれたのを悟った。
「どうして…?」
「ヤミハラさんの店に初めて行ったときに…ササメさんに言われたんです。この髪の色を見ると妹を思い出すって…」
その言葉を聞いてヒサメは思わず苦笑した。
「どうせ、目立ちたがりだとか恥ずかしいとか何とか言ってたんでしょ」
「いえ…消極的な自分とは真逆だって。妹はランクAの死神になったんだって、褒めてました」
ハッと思わず乾いた笑い声を上げたヒサメをアシシは困ったように見つめる。ヒサメは言った。
「姉は顔を合わせるとあたしには嫌味しか言わなかったんだよ。男漁りだとか目立ちたがりだとかもう散々…だからあたしは会うのを止めたんだ。実際忙しかったしね。姉は消えたよ。ヤミハラも。悪魔に魂ごと喰われた。アシシは強くなれよ?喰われたら許さない」
ヒサメの言葉にアシシの方が明らかにショックを受けた表情になった。不思議だと思った。実の姉の魂が消えても自分はさほど感情は動かない。なのにどうしてアシシはこんな顔をするのだろう。死神から感情を切り離すブローチはまだ枕元に置いたままだ。なのにヒサメの心は凪いでいる。アシシと抱き合ったときの情熱はまだ身体の中に残っているのに、ササメを失っても心は動かなかった。
「あたしはランクAの死神だ。だから…アシシのような感情は、もうないんだよ…多分…」
アシシは困った顔のまま頷いた。それでもアシシはヒサメを抱きしめて少しぎこちなく背中をさすり始めた。
「分かってます…これは…俺の感傷なんです…ヤミハラさんの中華屋に通ってたんで…だから…」
「うん…一回だけ…遠くから見たから知ってる…あたしみたいな赤い髪の目立つのがいるんだなって…そのときはその程度だったんだけどさ…」
ヒサメはアシシの髪に指を絡めた。今こうしてその相手と裸で抱き合っている。不思議だ。
「俺…大学でデビューしたっていうか…小中はイジられキャラで…ちょっとそれがエスカレートしてイジメみたいになって…そういうのが嫌で遠くの高校に逃げて大学に入る前にイメチェンして格好つけたんですよ。大学ではそこそこ上の方のグループに入れて楽しかったんですけど…やっぱ慣れないことはするもんじゃないですね。そのツケが回ってアッサリ事故死ですから」
「そっか…あんまり変わんないねあたしと。あたしの場合は時代が時代だったからさ、欲しがりません勝つまでは、の時代だよ。歴史の教科書の中の話だろ?アシシにとってはさ。ま、あたしは焼け野原で野垂れ死んでからだよね、好き放題、時代の風潮にも逆らって何でもやってやるって思ったのは。今は色々便利なものもあるしさ、たまにこうやって若い男とも楽しめるし外国人みたいな格好をしても別に文句も言われないし…あたしには性に合ってるんだよ。今のこの生活が」
ヒサメはアシシの赤い髪に触れる。きれいな色だと思った。ヒサメの髪よりも少しピンクがかっている。
「ヒサメさんは…格好いいです…格好つけの俺とは違って本当に…」
アシシの言葉にヒサメは笑った。
「あたしだって最初は格好つけてただけだよ。だから一緒だ。アシシもそのうちホンモノになれる。ここまで上がっておいで」
ヒサメは再び唇を重ねる。アシシはヒサメの瞳の中に再び炎が燃えるのを見た。アシシも自分の奥底にある欲望を再び感じた。
「いいね…燃えてきた…」
ヒサメが微笑む。アシシは柔らかなヒサメの身体をきつく抱きしめて、ついに自分から積極的に唇を重ね始めた。




