蟲
喫茶店の方に降りると、ヤミカさんと目が合ってしまい、私は慌てて朝の挨拶をした。奥のソファーにブランケットをかけられた人影が見える。ヨルさんとモクズさんが折り重なるようになって、まだ爆睡していた。
「マソホ、おはよう。大丈夫だった?」
「うん…ありがとう」
いつもの定位置になったテーブルにつくと、ヤミカさんがモーニングプレートを持ってきてくれた。シロガネさんのサラダは日によって少し彩りが変えられている。私はコーヒーを飲んでホッと息をついた。しばらく食べていると、クロさんに着信があったようだった。席を外している間にヤミカさんが隣にするりと座る。
「…昨日…何かあったの?マソホ」
私は慌てて首を横に振った。
「ヤミカさんこそ…何かあったんじゃない?」
私は思わずお腹に手を当てる。ヤミカさんの一部で埋められた部分にかすかな熱を感じた。
「マソホ分かるの?確かに…何もなかったって訳じゃないけど…多分、マソホが想像してるのとは…少し違うかも…その…あちこち…触られた…だけ…」
ヤミカさんはどんどん小声になる。
「そう…なんだ…大丈夫だった?」
私が聞くとヤミカさんはぶんぶんと首を横に振った。
「全然…大丈夫じゃない…まだ恥ずかしい…だからあんまり…見ないで…」
首を振った拍子にヤミカさんの長い黒髪の下の白い首筋が見えて、赤くうっ血した跡を見つけた。どこか淫靡でシロガネさんらしいと思ってしまう。
「ヤミカさん…首に…キスマーク…」
私が思わず口にすると、ヤミカさんはバッとものすごい勢いで、けれども確実にその場所に手を当てて隠した。赤くなった顔もきれいだと思いながら私はヤミカさんを見ていた。
「見なかったことにして!」
ヤミカさんは慌てたように椅子から立ちあがる。二階から足音が聞こえてきてフブキさんが降りてきた。
「おはようございます。あ、マソホさん、昨日は大丈夫でしたか?」
「おはようございます。はい…一応はなんとか…」
通話を終えたクロさんが少し厳しい顔で戻ってきてシロガネさんに言った。
「第七階級の地下道Eにまだ、キリさんを取り込んだ異形が潜んでいたようです。我々が指名されました。アシシさんを起こしてきます」
「そんなとこまで行ってたのか。特別区の俺らに声がかかったってことは…つまりそういうこと?嫌な役回りだね…まったく」
クロさんは無言で頷く。シロガネさんは私とヤミカさん、それにフブキさんを見て口を開いた。
「今日は捕獲じゃなくて、処分の指令が出た。時間が経ちすぎていて、もう発見した分はキリには戻せない。そういう上の判断だ。異論は認められない。色々と思うところはあるとは思うけど、とりあえず苦情は後から聞くよ…フブキとアシシ以外は朝食食べちゃったよね…もう少し早く連絡してくれたら良かったのに」
「シロガネさん、それ…どういう意味ですか?」
ヤミカさんが尋ねると、シロガネさんはフッと笑った。
「多分…ヤミカとマソホちゃんは…吐いちゃうかもしれないってこと。昨日みたいにお手伝いじゃなくて、鎌の具現化が済んでの初指令がこれって…統括の嫌がらせって思っても仕方ないよね。あの人伸びしろのある子には徹底的にスパルタ方式なんだよね…なんか…ごめんね」
私とヤミカさんは思わず顔を見合わせる。近くに立ったフブキさんも途端に不安そうな表情になった。やがて明らかに二日酔いのアシシさんの背中をさすりながらクロさんが現れる。アシシさんはマスクをしていなかった。波紋の影響はなくなったのだろうかと私が思っていたら、クロさんが何気なくこんなことを言った。
「トイレを借りますね。今吐くのも後から吐くのも具合が悪いなら大差ありませんから」
穏やかに怖いことを言ってクロさんが洗面所に消える。やがてアシシさんの苦しそうな声が聞こえてきた。戻ってきたクロさんは平然としていたが、アシシさんは先ほどよりは明らかにスッキリした顔をしつつもどこか複雑そうだった。シロガネさんはモクズさんに置き手紙をして鍵をテーブルに置いた。
「大丈夫?アシシさん?」
私が小声で聞くとアシシさんは、急に情けない顔をした。アシシさんは口を開く。
「クロさんって…優しそうに見えて…いきなり口ん中に…奥まで指突っ込まれましたよ…で、リバース…なんであんなに手慣れてるんですかね…」
「あーそれ、死神の間ではわりと普通だから俺もよくやるよ?ずっと気持ち悪いままよりはマシになったでしょ?」
シロガネさんがニヤリと笑う。アシシさんは相変わらず情けない顔をしたまま皆と歩き出した。シロガネさんの後ろをついて行っただけなのに、ものの数分で気付けば私たちは第七階級の研修生がたくさん住んでいるエリアの地下道に到着していた。地下道と言っても真っ暗ではなくところどころにオレンジ色の電気がついている。吐くなどと聞いていたので、よほど臭いか汚いのだろうかと想像していた私は面食らった。むしろきれいでじめじめと湿っている訳でもない。息苦しくもない。
「思ったよりきれいなんですね」
小声で言うとクロさんは微笑んだ。
「きれいなところはこのような場所もありますよ。すぐに鎌を出せる準備をしていて下さいね」
一瞬抜けかけた緊張を取り戻した私は周囲を注意深く見ながら進んだ。しばらく進むとなぜかこの先にはあまり進みたくないという気持ちが強くなってきた。アシシさんの足が止まる。オレンジの電気が点滅して時折切れた。
「アシシさん、まだ先です。進まないといけません」
「あ…はい」
アシシさんは重い足取りで歩き出す。私も心なしか足が重くなったように感じた。
「いた…」
先頭を歩いていたシロガネさんが角を曲がる直前で足を止めて私たちの方を振り返る。ちらりと頭を出してそちらをのぞいたヤミカさんの振り返った顔は明らかに強張っていた。同時に目撃したらしいフブキさんも口に手を当てる。シロガネさんに手招きされて私とアシシさんもその姿を確認した。私は異形化した生霊を過去に見ているので、その生霊に少し似ていて今回は赤い色をしているのかと思った程度だったけれど、アシシさんはかなり動揺した表情をしていた。人の顔がついているからだろう。少し写真で見たキリさんの面影もあるのが不気味だった。なのに口は人間のそれを九十度回転させた方向についている。横向きに開く大きな口で、その異形は別の異形を貪り食っている最中だった。
(この中で一番冷静そうなのはマソホちゃんだね。前のと似てた?)
頭の中にシロガネさんの声が聞こえた。シロガネさんの顔を見ると頭を指差して頷いた。
(聞こえてるよね?)
私は頷いた。
(クロさんと一緒にマソホちゃんは手を切り落とせるかな?足はクロさんで、首は俺が刎ねる)
多分できる、そう思った。
(いち、に、さん、の合図で出るよ。いち、に、さん今だ!)
クロさんと私はシロガネさんと共に異形の前に飛び出していた。とにかく言われたことだけを遂行する。私は両手をカマキリの鎌のように変えて少し離れた場所から異形の両手を切り落とした。その間にクロさんは両足を切り落とす。同時にシロガネさんは輝く巨大な銀色の鎌で異形の首を刎ねていた。刎ねて飛んできた首をヤミカさんが小振りな鎌で刺す。終わったかと思ったとき、喰われていた方の異形が動いた。クロさんの鎌があっという間にその首を刎ねた。異形の身体は一気に溶けてどろどろの物体になる。その瞬間に酷い腐臭が漂い、生ゴミでもこれほどは臭くないだろうという、吐瀉物と腐った何かを混ぜたかのような臭いに皆一斉に思わず鼻を覆った。それでも結局こみ上げるものを我慢できずに、私は吐きそうになりながらも必死にそれをギリギリで飲み下した。苦しい。酸っぱい嫌な味が喉に残る。私の近くでフブキさんはひとしきり吐いていた。アシシさんも両手を地面についていた。口の周りを汚したヤミカさんがぼんやり座り込んでいるのが目に入ったが、私は何度も飲み込んで吐き出せなかった。
「マソホさん、あなたはもう吐き出していいんですよ。苦しくても飲み込む必要はありません。あなたに向かって汚いと言った継母はここにはいませんから」
私はクロさんを見上げて首を横に振った。再び胃の奥からせり上がってくる。涙で視界がぼやける。
「手伝います…」
クロさんの指が喉の方に入り込んで来る。ギリギリまでこみ上げては無理矢理押し込んでいたものが一気に噴き出すのが分かった。一度出てしまうと止まらず、私はクロさんに背中を撫でられながら、ひたすらに吐いた。最後に口の中から赤くて細長いミミズのような物が何匹も出てきて私はギョッとした。
「チッ…こんなものまで…」
ヤミカさんの口を拭いていたシロガネさんが舌打ちをして、うねうねと動きながら逃げ出した赤いミミズを踏み潰す。どこからともなく出したペットボトルの水をシロガネさんはアシシさんとフブキさんに渡した。ヤミカさんはペットボトルの水でうがいをしてから、ようやく息をついて一口飲んでいた。私はミミズの衝撃に周りの皆の行動はよく見えているのに、自分では動き出すことができなかった。
「持てますか?」
クロさんに言われて私はようやく目の前のペットボトルの水を認識して頷いた。ヤミカさんを真似て一度うがいをした。少し楽になって私は一口水を飲んだ。
「あれは…なんですか?」
「あの赤いミミズのようなものですか?あれは…ハイアオさんが相手を意のままに操る際に用いる蟲…使役のようなものです…」
クロさんはまだ生きていた一匹を捕獲すると試験管のように細長いガラス瓶に捕獲した。
「証拠として提出しても…ランクAAの死神相手では、あまり大した罪にはなりませんが、出さないよりはマシでしょう」
「珍しくクロさん、怒ってるねぇ」
シロガネさんが茶化す。
「当たり前じゃないですか。マソホさんを何だと思っているんですか。まったく…」
「とりあえずみんな仲良く吐けたみたいだし、一つまた通過儀礼は済んだってとこかな?」
「えぇ?今日の任務って…私…吐いただけなんですけど…」
「いや、俺も…」
「俺もです。ヤミカさんはそれでも鎌を使ったじゃないですか…」
ヤミカさんの言葉にアシシさんとフブキさんが同意する。シロガネさんは、ハハッと笑った。
「だって、あのレベルの異形を見るのは三人とも初めてでしょ?マソホちゃんは噛みつかれた経験があるから、冷静に観察してるなと思ってさ。だからできると思った。この経験があれば少なくとも次は臭くてももう吐くことはないと思うよ。嗅いだことのある臭いだ、と思う程度になるから」
「良かった…毎回地下道に入ったら吐くのかと思った…」
ヤミカさんは、はぁと息を吐いて私の顔を見た。
「マソホ、吐けなかったんだね…」
真っ直ぐなヤミカさんの瞳に私は思わず頷いてしまう。
「昔…多分胃腸炎か何かで…何回も吐いてしまったときに…義理の母に…汚いって蔑まれるような目で見られてから…何があっても吐かないでおこうってなって…飲み込みグセ?がついちゃって…」
クロさんが私と自分の身体を清めるのが分かった。スッキリする。クロさんは私の頭を撫でた。
「よく吐けましたね。あの使役も入っていたから吐いて正解でした。今日は偉かったですよ」
「吐いて褒められるって…何か変です…」
私が言うとクロさんは首を横に振った。
「何かを乗り越えるということは、どんなことでも褒められるに値するんですよ。マソホさんの魂に刻み込まれた辛い記憶…それは、マソホさんだけではなく、ヤミカさんにだってアシシさんやフブキさんにも…他人には些細なことに見えても本人にとっては重要な意味を持つ記憶があるんです」
「そ、それを一つずつ乗り越えてみんな死神になってくんだよ。俺やクロさんは、それを手伝ってるんだ」
シロガネさんが笑う。
「さて、とりあえずこの任務は終了だな。この後許可が出るならキリに会いに行ってみようと思ってるんだ。夜遊びの怖さを知っておく意味でも…多分必要だと思う。知り合いだったアシシやフブキには…ちょっとキツいかもしれないけど、アシシは波紋が出たから…あぁ…ヨルも連れて行くべきなんだろうな…」
シロガネさんは歩きながら言った。キリさんはどうなってしまったのだろう。キリさんの一部を飲んだ異形を一つ消してしまった。私はそのことを考えると少し怖かった。




