夜明け前
ツブシは躾られている最中にまた失敗をして、ハイアオの機嫌を損ねた。右足首から下が鎌で斬られて嘘のように飛んでゆく。その右足首は今、透明の筒型の水槽に満たされた薄紫の液体の中を泳いでいた。最初は浮かんでいただけだったのに、魚のようにヒラヒラと動いている。ハイアオはツブシを喰うこともあれば、こうしてバラバラにして保管することもある。自分が世界の中心のように振る舞っていた頃は周りが皆、彼女の機嫌取りでヘコヘコしていた。彼女が不機嫌になれば、誰かが美味しいスイーツを買ってくれたし食事も奢ってくれた。死んでからも周りの研修生たちの注目の的は自分だった。そう、あの目障りな二人の女が特別区の死神たちと現れるまでは。
「過去の栄光にすがるのはみっともないって何度教えてもすぐに忘れるのね…頭の中が空っぽなのかしら?」
「そうだね。生きているときに自分の頭を使わなかったせいだよ。だから判断を間違える…」
ハイアオの腕に抱かれたシシュウが豊かな乳房を隠そうともせずに、床の上に転がってもがくツブシを見て首を傾げる。ハイアオは静かにシシュウと口付けを交わしていた。まるで見せつけるかのようだ。床を汚したツブシの血はハイアオの「犬」と呼ばれる影を塗り固めたような黒くて丸い物体がせっせと舐め取っている最中だった。犬にしてはやけに舌が長い。「犬」は時々ツブシも舐めた。
「少しずつ切って集めた方に知能を与えてやった方が少しは従順な死神になるかもしれないな。今度また間違えたら次はどこを切断しようか…」
ハイアオは歌うような美声でつぶやく。ツブシの他にも、何人なのかも分からない形の崩れた、人の形のような影が複数人檻の中に囚われていた。まだ自分は檻の中に入れられないだけマシなのだろうか、とツブシは考える。ハイアオが口移しにシシュウに与える瑞々しい葡萄の粒を見つめて、ツブシは急に喉の渇きを感じた。シシュウの四本の腕はハイアオに絡み付いてひたすらに愛撫し離れない。
「欲しいの?」
ツブシは首の鎖を引かれ、慌てて四つん這いでハイアオの元に向かう。足首から下がないのでうまく進めない。それでも鎖を引かれれば行かねばならなかった。ハイアオの与える罰は予測不能で恐ろしい。彼はツブシの口の糸の一部を抜き取り、その隙間から葡萄を押し込んだ。噛んでも味がよく分からない。ツブシの舌はまだハイアオの口の中にある。新しい舌を生やせと言われたが、どうやったらいいのかも分からなかった。それでも乾きは少し癒やされた。
「ほら、ついでに餌の時間だよ」
ハイアオの握った箸の中で半透明で赤いミミズのような物体がうねうねと動いている。最初は気味が悪くて食べられないと突っぱねた。そうしたら指を何本か喰われた。上を向いて口の隙間からそのミミズのようなものを受け取る。初めてのときは丸呑みしたが、よく噛まないと叱られてやはり罰を受けた。ハイアオは舌を伸ばして赤いミミズの踊り食いをした。元々はツブシの舌だ。
「やっぱり邪魔だな…」
ハイアオは無造作にツブシの舌を口の中から引き抜くと放り投げた。いち早く「犬」やってきて床に落ちたその舌をパクリと食べる。ハイアオの口から滴り落ちる血をシシュウが舐めた。血塗れの口のまま、ハイアオはシシュウと口付けを交わす。異常なその光景も見慣れ始めたことにツブシは気付いて呆然とした。「犬」がやってきてツブシの背中に乗る。最近「犬」がこうして乗ってくるので、ツブシは腹が立って何度も振り落としていた。けれども心なしか少し大きくなってきたような気がする。重い。ハイアオが笑う。
「イヌはツブシを仲間だと思っているんだ。君ともっと仲良くしたいらしい」
再び「犬」が乗ってくる、と思ったら黒い塊から二本の人の手が生えていた。右手の指は三本。左手は二本。ゾッとしたツブシの横にぬっと顔が現れる。
「ツブシ…アソボ…」
自分と同じ顔をした「犬」が喋った。
「おぉぉぉ…!!」
悲鳴を上げたが自分のその声はまるで犬の声のように聞こえた。
「ツブシは血も垂れ流し放題だし、自分の舌も回収しないからこういうことになるんだよ?イヌの方が賢いな。クロの奴も言っていたじゃないか。マソホの血の一滴も渡さないと。耳がついていても右から左に素通りして聞いていないから、自分が流したものを安々と奪われてしまうんだよ?そうだな、次は耳にしよう。人の話を聞かない耳など要らないだろうからね。おいで、イヌ」
黒い塊から人間の手の生えた「犬」は嬉しそうにハイアオの元へと駆け寄る。下半身は黒いままで二本犬の脚のようなものが生えていた。ハイアオは「犬」の頭を撫でる。
「…ハイアオさま…」
「犬」はうっとりと目を閉じた。ハイアオはその頭を優しく撫でながら「犬」に向かって言った。
「今日から君の名はミアだよ」
***
時間の感覚を忘れた頃に重い扉の軋む音が聞こえた。私は扉が開くのをぼんやりと見ていた。入ってきた長身の死神は私の顔を見ると破顔した。
「おはよう、マソホちゃん。クロさんもお疲れ様」
そうだ、私はマソホだ。そうして傍らで手を握っているのがクロさんだと思い出した。そうだ、彼はシロガネさんだ。
「マソホちゃん、俺が誰だか分かる?」
「はい…シロガネさん…」
「うん、大丈夫そうだね。今外すからね。よく頑張ったね」
私はようやく拘束ベルトを外されて解放された。クロさんが起き上がるのを手伝ってくれた。起き上がると身体のあちこちが痛い気がした。喉も痛い。クロさんが背中に手を当ててさすってくれた。
「少し癒しますから…じっとしていて下さい…」
少しずつ身体の痛みが軽くなり、クロさんはそれが終わると私の喉に手を当てた。
「すっかり…声がかすれてしまいましたね…」
「なんか、クロさんが言うとエロいなぁ…」
シロガネさんがニヤニヤする。
「…そう思うのは、シロガネさんが、そういうことをしていたからですよね?」
クロさんの静かな声にシロガネさんはピクリと眉を上げた。私も思わずシロガネさんの顔を見上げてしまう。私の顔をじっと見てシロガネさんは、不意に目を逸らした。
「マソホちゃんの真っ直ぐな目に見られるとさ…悪いことしてるみたいな気になるんだよなぁ。死神になるのには必要なことなんだよ?マソホちゃんだってそうだよ。もっとクロさんも積極的になればいいのに、何のためにこの部屋に閉じ込めたんだか…キスの一つすらしないなんて、どうかしてるよ」
シロガネさんは大袈裟なため息をつく。
「シロガネさんは鎌を没収されていた期間が長かったから、少し本来の死神とは感覚が違うんですよ。私たちには私たちのペースがあります。それに、マソホさんの前でこういう話はしないで下さい。困ってるじゃないですか…」
私は困っているというよりは、シロガネさんとヤミカさんが更に進んだ関係になったのかと思って、どこかそわそわと落ち着かない気持ちになった。それはヤミカさんの一部を私が持っているからかもしれなかった。
「そう?とりあえず、朝食の用意しとくからね」
シロガネさんはヒラヒラと手を振りながら部屋から出て行ってしまう。私の喉を癒していたクロさんは、ふぅとため息をついた。
「マソホさん、お疲れ様でした。私は…少しゆっくりし過ぎですか?」
見上げるとクロさんは少し困ったような顔をして私の頭を撫でた。それからそっと私を抱きしめてくれた。私もクロさんを抱きしめ返す。しばらくそうした後に私はクロさんと口付けを交わした。クロさんの腕に力がこもる。
「私は、死神の鎌を持っていると…ここまでが限度です…この先は相手に鎌を預けないといけません…マソホさんがその先を必要とするなら…そのときは…遠慮せずに教えて下さい。シロガネさんは…あぁ言いましたが…私はその…変にお互いを意識せずにこれからも接していけたらと思っているのですが…」
クロさんはぽつりぽつりと言葉の意味を確かめるようにそう口にした。私はクロさんの腕の中で小さく頷いた。すでに意識して緊張していた。
「はい…今のペースでお願いします…その…急にだと…戸惑ってしまうので…出来れば…少しずつ…」
「分かりました…少しずつ…ですね」
クロさんは私を抱きしめたまま頷いた。




