人形は笑わない
『君には人の心がないよね。欠落している』
私はメッセージアプリに送られてきた文面を見て震えた。耳鳴りがして手足が一気に冷える。心臓の鼓動だけがやけに大きく響いた。スクロールしても永遠のように終わらない文面には、私が言ったことのあれこれが事細かに書き連ねられている。頭に入らない内容が目の前を素通りする。気持ち悪い。言ったかもしれない。でもそれは相手を不快にさせないためのリップサービスで、それ以上でも以下でもなかったはずだ。合コンではよくあるやり取りだと思っていた。そもそも私は参加したくなどなかったのに。そうして人数合わせだからと言われて参加しなければ、あんなことも起こらなかったに違いないのに。
***
「お待たせしました。カフェラテのホットです」
テーブルに置かれたコーヒーカップに私は手元のテキストから目を上げた。少しゴシック調のカフェ店員のエプロン姿が似合う、片目を眼帯で覆ったまだ若い女性のその顔に既視感を覚えて私は首を捻る。胸元のネームプレートは何故か空白だ。つけている意味があるのかないのか分からない。
「あの…どこかで、お会いしましたか?」
私の言葉に彼女は、わずかに表情を動かしたがすぐにまたいつもの無表情に戻って首を横に振る。とても綺麗な人なのに全然笑わないなと思った。まるで良くできた人形のようだ。
「いえ、気のせいだと思います」
「すみません」
私はいつものクセで微笑んで、慌てて表情を元に戻した。そんな私を一瞥し伝票を置いて彼女は去ってゆく。私は再びテキストを読み始めた。死神は人の死を操作してはならない、なるほど。
「マシロさん、こんにちは。今日も勉強ですか?それにしてもあなたも物好きですね。何もわざわざこの仕事を選ばなくても、あなたはすぐにでも輪廻の輪に入ることだってできたのに…」
カフェラテを飲みながら死神養成講座のテキストを読んでいた私に声をかけたのは、川谷峻の父、もとい通称クロさんだった。輪廻の輪に入ろうとしていた直前に私はそれを拒否してしまった。
「私も死神になりたいです!」
思わずそう叫んで全身黒尽くめの彼にすがりついてしまってから今に至る。彼はどうやら死神の中でもそれなりに権限を持っているらしく、それからはトントン拍子に話が進んだ。なのにいまだに彼は時折そんなことを言う。マシロというのは死神としての仮の名前だ。何だか死神らしくない名前だと思う。
「クロさんも隅に置けないねぇ。こんな美人さんを口説いてくるなんて」
カフェのマスターにからかわれたクロさんは、やっぱり困ったような顔をして少し笑った。気弱そうな笑顔だ。マスターは白髪交じりのイケおじで、いかにも喫茶店のマスターという雰囲気を醸し出している。クロさんよりも少し背が高いのは背筋がピンと伸びているせいかもしれなかった。クロさんは少し自信なさげな猫背だ。マスターが言う。
「マシロちゃんみたいなのは、普通はもっと抵抗したり暴れたり半狂乱になったり大騒ぎするのに、随分と冷静だったよね。おじさん、びっくりしちゃったよ」
「そうなんですか…?もっと、暴れたら良かったですか?でも…暴れたってあんなめった刺しにされた身体に戻るのは無理だって分かってたから…潔く諦めました」
「そこがさ、それでも戻りたいって叶わない願いを叫ぶのが死んだばかりの魂なんだけどね…まぁ、それが最近の子の特徴なのか…その点では、この子もちょっとマシロちゃんと似てるかもね…」
マスターはそう言って傍らで黙々とグラスを磨き始めたエプロン姿の女性の方を見る。彼女は何の感情も込めない口調で淡々と言った。
「元々あまり怒ったり泣いたりできないんですよ。それにうっかり微笑みでもしたら、すぐに勘違いされて面倒事に巻き込まれるんですから、私は無駄に笑うのを止めただけです」
私に対する皮肉とも取れる言葉にドキリとする。何故この人はこんな言い方をするのだろう。マスターはぽんぽんと女性の頭に手を触れる。彼女の表情はわずかに動いたがそれ以上は何も言わなかった。
「ね、熱心に死神の勉強するのもいいけどさ、たまには息抜きしておいでよ。未練はないのかもしれないけど、多分まだできることがあると思うんだ。ホラ、ぼんやりしてないでクロさん、エスコートしてあげて!」
「えっ?私がですか!?」
「他に誰がいるの。僕はまだ仕事中だよ?それに君は…」
言いかけたオーナーの言葉を片手で制してクロさんは小さな息を吐いた。
「はぁ…それでは、ま、行きましょうか」
クロさんに手招かれたので私は慌ててテキストを鞄に入れて肩にかける。やはり生前使っていた鞄が使いやすい。少しイメージすると使いたい物は姿を現すので便利だった。自分の姿も思うように変えられるらしいが、クロさんも私も元の姿を使っていた。今の私は受講生用の鎌の形をした金のブローチを胸元につけているのみだったが、クロさんの胸元には数種類のブローチが光っている。中でも一際目を惹くのがルビーのような石の入ったブローチだった。私の視線には気づかずにクロさんはスタスタと歩いてカフェから出る。
「あの…すみません。クロさん…仕事の方は…大丈夫なんですか?」
私が言うとクロさんは振り返って頷いた。
「実は…私は謹慎中なのであまり大っぴらに出歩くと叱られてしまうのですが、マシロさんの様子を見るためでしたら許可されているんですよ」
「えっ?謹慎中?どうしてですか?私なにかしましたか?」
「いいえ、マシロさんのせいではありませんよ。うっかり私がこの姿で息子に見られてしまったせいです。あの子の目は少し特殊なんですよ。通常の人が見ないモノまで見えてしまう。さ、行きましょうか」
立っていたのはどうやら停留所だったらしく、やがて少し現世よりは小型のバスのような乗り物が到着した。中に乗り込んだクロさんは片手を伸ばして私の手を握る。一瞬車内がざわついて、無遠慮な視線に晒された。死んで以降こればかりだ。乗客は人影のような黒っぽい形に赤だったり青だったり、目の部分だけがチカチカと光っている。
(死にたてだよ。うわっ、なんで死神も一緒なんだ?)
(あのブローチを見ろ。受講生だよ。手出しできない。せっかく旨そうな赤に染まってるのに)
(ちえっ…お預けかよ。契約できるかと思ったのに)
「すみませんね…無粋な者が多くて。あなたの魂が珍しいから興味を持っているんですよ」
「はぁ…よく、分かりませんが…注目されているのだけは分かります」
二人が一番奥の座席に乗り込むと、ようやく車内は静かになった。
「すみません、少し触れていてもいいですか?少々厄介なのが乗り込んできそうなので」
「…はい」
クロさんは私の手を再び握る。デートでもマコトはスマホばかり見ていて手を繋いだことがなかったので無駄にドキドキしてしまった私をよそに、クロさんは固い表情のまま窓の外を見ていた。
「あなたのことを恨むのはお門違いも甚だしいのですが…あなたは嫉妬に狂った女性の話をご存じですか?大学で学びませんでしたか?源氏物語」
「えっ?な…突然何の話ですか?生霊になったのは六条御息所ですけど、それとこれとがどういう…」
「これから乗り込んでくるのが、それと類似した存在だと思って下さい。しっ…来ました」
クロさんは突然上着を脱いで私を覆った。開いたドアから何かが乗り込んでくる。湿った音が車内に響いた。全体的に灰色と茶色の黴ようなまだらな色合いで、それはぶよぶよと膨れていた。その胴体の下には細かい無数の脚が生えているのが見える。巨大な芋虫のようなそれには、だが女の顔がついていた。乱れた長い髪が張り付いた額の下の目は血走ってあらぬ方向を向いている。
「憎イ…アノ女ガ憎イ…」
開いた口からノコギリのような歯がのぞき、ガチガチと音を立てて鳴っていた。クロさんが握りしめた手に力を込める。
(目を閉じて。私がついていますから大丈夫です)
クロさんに言われて私は目を閉じた。どことなく生臭いような鉄臭いような臭いが漂ってくる。血の臭いだと思った。生ぬるい血溜まりに横たわった自分の身体が冷えてゆくときに嗅いだ臭いと同じだった。
「憎イ…若イ綺麗ナママ死ンデ…アノ人ノ心ヲ縛ッタ…」
(綺麗?どこが?あんなに目茶苦茶にされたのに!?)
(マシロさん、挑発に乗らないで下さい…)
私の心の中を見透かしたようにクロさんの声が響く。私は一瞬の間に沸き起こった感情を何とか抑え込んだ。クロさんの手に力がこもる。
しばらくの間周囲には血の臭いが漂っていたが、ずるずるびちゃびちゃという嫌な音と共に気配が消えて、やがてその臭いもしなくなった。
「もう大丈夫です…よく我慢しましたね」
クロさんが頭の上の上着を避けて私の肩にかける。目を開けると窓の外の景色はぼんやりと霞んで見えなかった。
「あれは…何なんですか?嫉妬って…私のことを?」
クロさんは頷いた。
「思い出したくないかもしれませんが…あれは、あなたの元交際相手のことを昔から好いている女性ですよ。名前は知っていたとしても言わないで下さいね。呼び寄せてしまいますから。その彼女の…生霊とでも言っておくのが一番分かりやすいかと」
「それは…厳密には生霊とは、違うってことですか…?」
私の言葉にクロさんは困った顔をした。
「えぇ。元は生霊でしたが…あまりに度々抜け出て夢現の狭間をさまよい歩くうちに、少しずつ異形を取り込み人とは異なる存在になりつつあります…あの姿を見たでしょう?」
私は頷いた。確かにあれはほぼ人の形をしていなかった。
「生霊であるうちに元の身体に戻って、抜け出ない生き方を選べばこんなことにはならなかったんですけどね…小さな悪意の積み重ねが少しずつ魂を蝕んでいったのでしょう…哀れです」
クロさんは小さなため息をついた。そうして私の方を振り返る。
「あなたも…そう言った目には見えない小さな積み重ねが積もり積もった結果、命を奪われた人です。それが何だか分かりますか?それを見つけないことには、あなたは死神にはなれません。自ら勉強するのは偉いことですが、あなたにはもっと自分と向き合う時間が必要だ。だから輪廻の輪に入らなかったんでしょう?未練があるはずなんです」
クロさんの言葉に私は首を傾げてしまった。目には見えない小さな積み重ね?私も気付かないうちに何かをしてしまっていたのだろうか。急に不安になる。そうして自分のことを思い出そうとした矢先に私が殺された朝のニュースで流れていた画面の写真で見た美しい顔を思い出して声を上げてしまった。
「あっ!喫茶店のあの店員さん!私、ニュースで見たんです。だから見覚えがあったんだ…!」
まだ若くて綺麗なのに気の毒だなと、私はその日自分が死ぬとも思わずに、ストーカーに暴行されて亡くなった女性のニュースを見て思ったのだった。警察に相談にも行っていたのに、こういう事件は毎年起こる。やるせない気持ちにさせられて、ぼんやりしている間に時間が経っていて、マグカップをキッチンに下げるのも忘れて私は慌てて出社したのだ。
「あなたは…どうして、自分のことではなくて、そちらを先に思い出してしまうんでしょうねぇ…」
クロさんは困った顔をしたが、呆れた訳ではなさそうだった。
「そうです。あの方はあなたの亡くなる二日前に命を失いました。あなたはその死を悼んだ。だからあの喫茶店で出逢いました…縁が結ばれた…」
「えっ?そう…なんですか?」
「悼むという行為は人と人とを繋ぎます。現世でも来世でも…それは変わりません」
クロさんはそう言って不意に私の頭を撫でた。
「死神には悼むという感覚はありません。悼んでいては魂を回収できませんから。だからこれは私が生前の記憶に基づいて話しているだけです。私の階級が高いのは殺害された魂を専門に回収しているからです。あなたの死もまた私の階級を上げる…幻滅しましたか?でもそれが死神です。寿命を全うした魂を専門に回収する者もいますし、交通事故専門…それぞれに得意分野があります。そうしてその得意分野というのは自分の死に方と密接に関わっている」
クロさんはため息をついた。
「あなたが死神になるなら、無残に殺害された魂を集めなければなりません。今ならまだ間に合います。そのことをよくよく考えてみてから、なる、ならないの選択をして下さい」
私はそのとき何故か違和感を覚えたが、それが何故なのかを掴み損ねた。バスが停留所に停まったせいだった。
「降りましょうか」
クロさんはそう言って私に片手を差し出した。




