確かな腕
ヤミカはシロガネの腕の中でじっとしていた。動くと嫌な何かか溢れ出てしまいそうだった。ヤミカの部屋の大きなビーズクッションに寄りかかり、シロガネはヤミカと身体を密着させている。肩に回した手はヤミカをしっかりと抱いていた。それでも不意に押し寄せる恐怖に飲まれそうになり、ヤミカは目を閉じてシロガネの腕を意識する。帰宅した途端にヤミカは嘔吐してしまった。赤黒いものが大量に出てきてそんな自分自身に呆れた。ひとしきり吐いてから今に至る。苦しくて気分は最悪だった。
「ヤミカ、少し眠るか?」
「…今寝たら…変な夢…見そうなので」
「あー」
シロガネはヤミカの頭を撫でた。シロガネがヤミカの部屋に入ったのは今日が初めてだった。可愛らしい物が好きだと口にする割にはシンプルで落ち着いた部屋だった。整っていてどこか生活感のない部屋だった。
「じゃあキスでもする?」
「…なんでそうなるんですか…」
「うん?いや、荒療治?」
「……」
ヤミカはシロガネの顔を見上げた。無駄に整った顔立ちだと思ってから、無駄と思うのはどうなのかと、自分の見解を改める。その間に静かにシロガネの唇が重なっていた。ヤミカが無言だったのを肯定と受け止めたのだと思った。目を閉じる。何となく癪だがシロガネはキスが上手いのではないかと思った。と言ってもヤミカはシロガネ以外には一人しか知らないし、ストーカーのあれはカウントしたくもなかった。シロガネに合わせるようにヤミカは口付けを交わす。何が正解なのかは分からない。ただ下手だと思われないように必死だった。シロガネの腕に少し力がこもってヤミカは戸惑ったが、そっと唇が離れてシロガネは再びヤミカの頭をゆっくりと撫でた。ヤミカはホッとした。
「よくできました。褒めてやるよ」
ヤミカは褒められたかった訳ではなかったはずなのに、その言葉を聞いて頭を撫でられた自分がどこか喜んでいることに気付いて動揺した。
「こんなに美人なのにキスは俺が三人目って…現世の男どもは何をやってたんだかね…」
シロガネのふざけた言葉にヤミカは思わず相手の顔を睨む。こういうところだ。シロガネは時々意地悪なことを言う。
「シロガネさんの一つ前は数えないで下さい!」
ヤミカが怒るとシロガネは笑った。
「そうそう、落ち込むより怒ってた方がまだいいよ。俺が言うのもなんだけど、ヤミカは男運がなかったんだ…」
言われなくても分かっているとヤミカは思った。マソホもそうだが、ヤミカも大概男運がない。
「俺も現世じゃロクでもない奴だったけどさ、付き合って初めての誕生祝いに手錠をプレゼントする思考はあんまり理解できないな。ネックレスでもブレスレットでも、いくらでも他に無難な選択肢があったと思うけどなぁ…なんで、怒らなかったんだ?」
シロガネはまた意地悪なことを言った。誰にも相談したこともない、それでもヤミカの中に消化しきれずに残っている記憶をシロガネは読み取り、時折こうして尋ねてくる。
「…びっくりし過ぎて…怒るタイミングを逃したっていうか…自分もそんな趣味だと思われてたのかとか、どこからそういう思考に行き着いたんだろうとか、ぐるぐる考えて…何も言えなかった…」
シロガネは少し眉を下げて苦笑した。ヤミカを抱きしめたままシロガネは言う。
「結局、そいつの趣味だろ。そういうプレイにヤミカを引き込みたかった…したくないなら分かれて正解だったんだよ。そいつと付き合ってたら、死ななかったかもしれないけど、生きてて楽しかったかって言ったらそれはまた別の話だからな。そういうのはどんどん欲求がエスカレートするんだ…」
ヤミカは自分を抱きしめるシロガネの腕にそっと触れた。筋肉質で男らしい腕だと思う。こういう人は苦手だとずっと思っていた。けれどもヤミカの掴んだどこか男性を感じさせない腕は、見た目だけでしっかりと中身は男だった。そうしてヤミカの自由と尊厳を奪った。
「教員だったから…きちんとしてる人だと思ってたの…今も…教員やってるのかな。制服着てみてとか言われて…その格好で手錠で繋がれて家に帰してもらえなかった…。生徒からは人気があるって自分で言ってたけど…でも生徒をそういう目で見てるのかなとか色々考えてるうちに、付き合うのは無理だって思っちゃった」
シロガネはヤミカの運命の分岐点を見ていた。どちらに行っても最悪だ。軟禁状態で好き放題にされるのも、ストーカーに殺されるのも、ヤミカの望む生き方とは程遠い。付き合った相手がこれでは男嫌いになる要素しかないとも思った。ヤミカには対等な状態で自らも望んで相手に抱かれた記憶がない。恐怖と痛みと忍耐、そしてその行為が終わった後の途方もない虚しさ。それはマソホの中にある空虚とも似ている、そうクロさんが言っていた。指導官として二人はヤミカとマソホの生前の記憶を共有している。二人とも異性に対しての耐性がないどころか、根底には恐怖すら抱いている。ヤミカの場合は嫌悪にも近い。死神になれてもこの恐怖や嫌悪があると悪魔に出会ったときにうまく躱せない。それどころか取り込まれる可能性が高かった。だからシロガネが口にした荒療治も、あながち嘘ではない。むしろ優先すべき事柄とも言えた。
「俺には別に変な性癖はないよ。多分…ヤミカが生きてる間に関わった男よりは、ちょっとはマシだと思ってるけどな。だから少しずつ慣れてくれるといいなとは思ってる。せっかくいい女なのに、このままなのは、もったいないよ」
「いい女なんかじゃない…綺麗で可愛いものだけ見ていたくて…男性は元々あんまり好きじゃないし…結局現実逃避…でも…シロガネさんには…少し…慣れてきたとは…思います」
シロガネはヤミカの頭を撫でる。艷やかな黒髪は触り心地が良かった。毛並みの良い猫のようだと思う。最初は頭に触れるだけでも緊張で身体が強張っていた。それから比べると今は慣れた方だと思う。それでも積極的に胸を密着させて女をアピールしてきたミアとは違う。ミアの方がヤミカよりも歳下なのに、そういうところは妙に慣れていた。勝手にベッドに入り込んでくるようなこともしない。そう思ってふと思いついたことを口にする。
「ヤミカも俺と一緒に寝てみるか?クロさんはマソホちゃんと一つの布団で寝てるって言ってたよ。親子みたいに。どう?ただ寝るだけだよ」
「えぇ?いいんですか、それ。指導官と研修生なのに…」
ヤミカは案の定非常識だと言わんばかりの声を上げた。けれどもそう言いつつも、ヤミカは自身はマソホに先手を取られたと心のどこかで焦る自分がいることに気付いていた。一方でそんなことを競っても仕方ないのにと呆れる自分もいる。ヤミカの言葉にシロガネは面白そうに笑った。
「指導官の勤務時間は基本的には五時で終わりなんだよ。残業はナシだ。そこから先は…ま、何をしても自由だ」
「じゃあ勤務時間のさっきのキスは何なんですか」
「だから荒療治って言っただろ。それに付き合ってたらそのくらいはするんじゃないか?」
「まだその設定…有効だったんですね…シロガネさんの言う付き合うっていうのも、本当は私はよく分かっていないのかも…」
「難しく考えなくていいよ。今の関係のままでも居心地が悪くないならそれでいいし、進みたかったらもっとその先に進んだっていい。ヤミカの好きにしていいんだ。そのヤミカの選択に俺は一番ベストな状態で寄り添いたいだけだ。無理強いしたい訳じゃない」
シロガネはそう言ってヤミカの肩に手を置いた。
「ま、それでも俺が惚れたって言ったのは嘘じゃないよ。だからヤミカは俺の手で死神にする。ハイアオの奴にも渡さない」
ヤミカはシロガネの顔を見上げて頷いた。ハイアオはすぐにヤミカの恐怖を見抜いた。ランクAAの死神は皆ああなのかと思う。全てを見透かす恐ろしい目をしていた。ハランさんがまだ可愛らしく思えてしまった。
「あの人の目は怖いから嫌。私もシロガネさんがいい。だから…」
そこでヤミカは一瞬迷ったように目を伏せた。それでも、もう一度意を決してシロガネを見上げた。
「今日は…一緒に…寝てみても…いいですか?」
「うん、じゃ、そうしようか」
シロガネは微笑んでヤミカの頭を撫でた。そう言葉にしただけで、とても緊張しているヤミカの顔を見つめる。初々しい反応だなと思った。




