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死神は残業をしない  作者: 樹弦


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小さな手

 ようやく私は自力で起き上がれるようになり、クロさんと共に階下の喫茶店の方へと降りた。ホムラさんはいつの間にかいなくなっていた。喫茶店ではシロガネさんがヤミカさんと一緒に並んで鍋焼きうどんを食べていた。出汁のいい匂いがする。間接照明の室内にほわりと湯気が立ち上る。


「お!元に戻ったみたいだね。クロさんとマソホちゃんも、食べる?」


 クロさんが私の顔を見たので、私は頷いた。


「…食べたいです」


「じゃ、二人分ね」


 鍋焼きうどんを加熱しながらシロガネさんは私の顔を見てニコニコした。


「マソホちゃんも一歩前進したってところかな」


 シロガネさんの意味ありげな笑い方に私は思わず目を伏せる。


「からかわないで下さい」


「からかってなんかいないよ。率直な感想」


 そうこう言っているうちに鍋焼きうどんが完成する。私とクロさんは同時に手を合わせて、いただきますと言った。


「あつっ!」


 ふーふー吹きながら私は鍋焼きうどんをすする。熱いだとか冷たいだとか、本来ならそんな感覚とはもう切り離されていてもいいのに、やっぱり鍋焼きうどんは熱いと思うし、出汁の味も美味しいと思う。私は思わずふぅと息を吐いた。


「死んでるけど美味しい…」


 私がつぶやくと、うどんをすすっていたヤミカさんがフッと思わず小さな笑い声を漏らした。シロガネさんが意外そうな顔でヤミカさんを見返す。


「マソホって面白い」


 それほど面白そうな顔をしてはいないのに、マソホさんはそんなことを言う。シロガネさんはヤミカさんの頭をぽんぽんと撫でた。


「そもそもヤミカは先に表情筋が死んでるんだよ。もっと動かせ」


「今更そんなこと言われても…難しい」


「ま、何事も一歩ずつだからねぇ。とりあえずヤミカも俺とキスできただけも前進だ」


 シロガネさんの言葉にヤミカさんはわずかに眉を寄せたが、何も言わずに鍋焼きうどんの汁を飲み干した。


「この時間に食べても太らないってサイコー」


 やっぱりさほど最高でもなさそうな顔のままヤミカさんは言って、不意に口元を押さえた。


「最低なこと言ってる…私」


「おいおい、どうした?」


 シロガネさんがヤミカさんの顔を覗き込む。ヤミカさんは、ため息をついた。


「ペコくんは…どうやって体重を増やすんだろうって…思っちゃって」


「あぁ…それね。考え過ぎだよ、ヤミカ。そんなに自分の発言一つ一つに神経質になることはない」


「だって私には人の心がないって…要するにこういう発言の積み重ねが誰かを傷付けているってことなんでしょ?」


「だったら嫌な言い方するけど、そいつには人の心があったのか?本当に人の心があるなら、ヤミカをぶん殴ってヤッちまおうなんて考えないんだよ。まっとうに生きてる人間ならな。そいつは自分にとって都合良く動いてくれなかった不満をヤミカのせいにしたいだけだ。てめぇのケツを拭けもしないやつの責任をヤミカが取る必要はない」


 シロガネさんはヤミカさんの頭を撫でながらちらりと時計を見た。気付けばヤミカさんの死亡時刻が近付いていた。


「ペコのことが気になるなら、明日受講した後にでも会いに行ってみるか?あいつはあいつで…頑張ってるからな。ヤミカやマソホちゃんと一緒だよ」


 シロガネさんはヤミカさんの肩を抱いて二階に上がってゆく。


「マソホ…今日はありがとう…」


 階段を上るヤミカさんが振り返って私に言った。私は頷くことしかできなかった。



***



 鍋焼きうどんを食べ終わり、後片付けをして私とクロさんは家に帰った。家に帰るとクロさんは、お風呂に入りますかと聞いてきた。反射的にはいと返事をしてしまってから、本当はそんな必要もないのにと思った。私の考えを読んだようにクロさんは言った。


「たまにはいいでしょう?」


「家に帰ったら入りたいと思っていたんです。もう沸いていますから、先に入っていいですよ」


「いいんですか…?じゃあ…お言葉に甘えて…」


 私は死んでから久々にお風呂に浸かった。クロさんの家のお風呂はどこか懐かしいレトロな雰囲気だった。クロさんが生きていた時代のお風呂なのだろうと思う。浴槽が深いので肩まで入ることが出来る。身体が温まる気がした。気がしただけだ。シャワーのお湯も確かに温かいのに、いくら浴びても私の身体の芯はどこか冷えたままだった。お風呂から上がってルームウェアに着替える。私が自宅で使っていたものと同じだ。着慣れた感覚がして少しホッとする。それでも寒い。


「上がりました…」


 私が言うとリビングにいたクロさんはテレビを消して、少し困ったような顔をした。


「私も入ってくるので、マソホさんは冷蔵庫のビールでも…あ…でもビールはあまり飲まないのでしたか?ノンアルコールのものもありますから、飲みたかったらどうぞ」


 クロさんが浴室に消えて急にがらんとしたリビングに私は取り残された。このテレビはひょっとしてブラウン管テレビというものだろうか。物心つく頃にはもうなくなっていたので、こんなに分厚い重そうなテレビを使っていた時代があったのだなぁと思い、私はしげしげと眺めてしまった。いつの間にかお風呂から上がってきていたクロさんが、何もついていないテレビの後ろを覗き込んでいる私を見て、どうかしましたか?と声をかけてきた。


「いえ…薄型テレビしか見たことがなかったので…」


「あぁ…それで…それよりもマソホさん、こちらに来て座りませんか」


 振り返るといつの間にかみかんの入ったカゴの乗ったコタツが姿を現していた。二人掛けの座椅子までセットされている。


「気分の問題かもしれませんが…マソホさんは…私の見立て違いでなければ…冷えていますね?」


「どうして…それを…?」


「それは…一つ目には風呂上がりに何も飲んでいないからです」


 クロさんは水道水を出してコップに入れるとそれを飲み干した。


「とりあえず、こちらへ。少し温めましょう」


 クロさんに促されて私は座椅子に座るとコタツ布団の中に足を入れた。なんとなく暖かいような気分になる。隣にクロさんがやって来ると、ふわりとせっけんの香りがした。


「…少し…触れてもいいですか?」


「はい…」


 私は緊張しながらも頷いた。身体の芯の寒さは次第に広がり私の手足も冷やしていた。


「すみません…私が離れていたせいです」


 クロさんの腕が肩に触れて抱きしめられる。冷たくなった手をクロさんの大きな手が包み込む。それだけで私は緊張しながらも、どこかホッとしていた。手首には赤い紐が時折見える。その紐がクロさんに繋がっていることを確認して私は目を閉じた。


「寒かったですね…私が温もりを分けます」


 私は目を閉じたままクロさんに抱きしめられていた。特に冷えた私の手にクロさんが優しく口付けをすると、少しずつそこから熱が広がっていった。


「寒いんです…身体の芯が…」


 私はやっとのことでクロさんに、そのことを告げた。寒いと口にした瞬間に本当に寒いと感じて私は震えた。


「…それはマソホさんの抱える恐怖に根ざした冷えです…身体の熱が失われて感覚が消えてゆく恐怖…マソホさんの命が失われる直前の記憶です…私は…ただそれを見守ることしか許されてはいませんでした。どれだけ飛び出して…あなたの盾になりたかったことか…」


 クロさんの両腕に力がこもる。私はクロさんの腕の中で目を閉じていた。


「その気持ちだけで…十分です…」


 クロさんの腕から私の身体に温もりが伝わってくる。そんなものは本当はない。でもあると思えばある。私はそのあやふやな気持ちを抱えつつクロさんに縋りついていた。


「統括に…笑われてしまいますね…私は…みっともないって…」


「彼の言うことは気にしなくていいです。それにこの程度でみっともないということもないですが…ここまで冷えているなら、今日は一つの布団で一緒に眠りましょうか。もちろん…マソホさんが嫌でなければ、ですが」


 唐突な提案に私は驚いて顔を上げてクロさんを見上げた。クロさんは少し困ったような顔をして私に微笑む。


「クロさん…あの…」


「そんなに驚かなくても。ただ温めるだけです。変なことはしませんよ」


 私は迷った末に頷いてしまった。今日は一人で冷たい布団に入るのは寂しかった。クロさんを近くで感じていたかった。何となくいつもの習慣で歯を磨く。クロさんと並んで洗面台の鏡に映った姿を見るのは不思議な感覚だった。


「こちらですよ、どうぞ」


 クロさんはリビングの奥にあったふすまを開ける。布団が敷いてあった。クロさんが少し考えて指を鳴らすと、そこに私の部屋の枕が現れた。


「おじゃまします…」


 変にドキドキしているのは私だけなのだろう。クロさんはいつも通り優しい顔のままだった。私が布団に入るとクロさんは電気を消した。見上げた照明は和紙の貼られた丸い形をしていて、不意に昔急に母に連れられて行った田舎の祖母の家を思い出した。祖母に私を預けて仕事に出掛けた母は、その数日後に私の知らない男性と車両事故を起こし呆気なくこの世を去った。父の顔も知らない。祖母の顔ももう思い出せないのに一人で眠ることになり、なかなか眠れなくて寒かった和室のその天井からぶら下がっていた照明の形だけはなぜか鮮明に覚えていた。


「マソホさん…離れていたら温められませんよ?」


 布団の中でクロさんが動く気配がして私は抱き寄せられた。


「大丈夫です…マソホさんは…生きていた頃…父親の存在が希薄だった…だから私に父を重ねていいのか、恋人を重ねるべきなのか…その境界線の引き方が分からないのですよ」


 クロさんは私の頭を撫でた。言われてみるとそうかもしれないとも思った。けれどもクロさんはお父さんではない。少なくともキスはした。


「でも今は子どもになってるじゃありませんか…随分と小さくなった…」


 小さくクロさんが笑う。


「え?」


 私は慌てて自分の顔を手で触ろうとして、布団から出した手のあまりの小ささに驚いてしまった。


「えっ?私…縮んだんですか?」


 喉から出た声も高くて私は困惑した。何が起こったのだろう。田舎のことを思い出したのがいけなかったのか。


「これも、マソホさんには必要なことなんだと思いますよ。幼い頃の寒かった記憶…まずは、ここから温めていきましょう」


 クロさんは私を抱きしめて優しく背中を撫でる。


「私はあなたの父にも恋人にも…何にだってなれますから…欲しかったものを全て与えます。今は、とりあえず…お父さん…ということにしておきましょうか」


 クロさんは大きな身体で私を抱きしめてくれた。私はいつの間にか寒さを忘れて温もりの中にいた。クロさんの優しい腕の中で私は子どもになって穏やかな眠りについた。

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