あやかし旅館の雨丸さん。
山奥にひっそりと建つ、小さな温泉旅館『のどか』。
そこはマイペースなはぐれもののあやかしたちが営む、お宿。
運良く辿り着けたら、ゆっくりまったり過ごすことをおすすめします――――。
*****
「大丈夫だよ。もう少しの辛抱だからね」
聞こえる声は人間のものだ。幼い声だから、人間のこどもだろう。
はらがへった。おっきな獣にいじめられた。
ざあざあ降りのせいで、体温がうばわれる。
さむい。
坊主、おまえまでびしょ濡れじゃねえか。
俺はあやかしなんだ。
放っておいていいんだ……。
***
ちちち、と小鳥のさえずりが聞こえる。
早朝に起きている一人、いや、ひとではない。彼は、この旅館の従業員をしているあやかしのひとり、雨丸という。
雨の日に旅館『のどか』にやって来たことから、そう呼ばれている。もっとかっこいい名前がいいなと本人はちょっぴり思っていた。
「よし!」
支度を終えて小さな旅館の中を確認する。もちろん、従業員たちの寝起きする場所は覗かない。
「おや、今日も早いですね」
「若旦那! おはよう!」
元気いっぱいに挨拶をすると、若旦那はにこりと微笑んでくれる。
「やる気に満ちていますね、雨丸」
「今日はるり子さんが来るから!」
勢いよく言うと、若旦那は少し驚いたように目を見開くが、すぐに小さく笑い声をもらした。
「今日は一人で来るので、ゆっくりして欲しい! ……で、す」
どうもすぐ油断して口調がふだんのものになってしまう。
若旦那が気にしないとしても、しめし、というのがつかないのだと忠告されたからいちおう、気をつける。
「ふふ。無理をしなくても良いですよ」
「えっ、う、でも、うん」
戸惑っている雨丸の横を、若旦那が通り過ぎる。小柄な少年の彼はこの旅館の主人で、雨丸よりもずっと強いあやかしだ。
どことなく落ち込んでいるような気がして、雨丸はその背中に声をかけた。
「次は詩乃お嬢さんも一緒に来てくれるよ、若旦那!」
「っ」
びくりと肩を震わせ、若旦那は肩越しに赤くなった顔を向けてきた。
「べつにしのさんは、関係ないですよ」
その言葉に、きょとんとしてしまう。
「で、でも、若旦那は詩乃お嬢さんを好い」
言葉の途中でどすどすと足音をさせて若旦那が戻ってきた。
「雨丸! ぜったいにしのさんの前で余計なことは言わないでくださいよ!」
耳まで赤くした若旦那に遮られ、雨丸はしょぼんと肩を落とす。
若旦那の『トクベツな好き』というものは、自分の知る「好き」とはやはり違うようだ。
*
人間の営む旅館とは違う。だってここは、はぐれたあやかしたちが働く旅館だ。
人間のまねっこをする必要はない。
でも、お客が来るときだけはほんの少し、人間らしい振る舞いをすることにしている。
雨丸はそわそわと、箒で玄関掃除をしながら外を気にしていた。
呆れたように「あんたねえ」と声がかけられる。来客用の座布団を運ぶ途中の、ももかだ。
「落ち着きなさいよ。そこの掃き掃除、何回目なの?」
呆れているももかが少し唇を尖らせた。
「るりちゃんが来るの、あたしも楽しみなんだから」
「るり子さんのおみやげが楽しみなだけだろ?」
「そ! それもあるけどぉ!」
ももかはるり子が訪ねてくるたびに持ってくる、洋菓子に目がない。
「あーもう! そのきょとん顔で言うのやめてってば!」
「きょとん顔?」
「もういい!」
足音を荒く立てて客室へと向かうももかは、「ばーかばーか」と言っている。よくわからないやつだ。
注意をされてしまったこともあり、雨丸は庭に移動した。
「……なにしてんすか。雨さん」
こっちは手ぇ足りてるっすよ? とばかりに言われて、「うん」と大きくうなずいた。
「寒くなってきたし、俺も落ち葉集め手伝うぞ」
「……桃さんに追い出されたんすね。朝っぱらからばたばた駆け回り過ぎなんすよ」
犬じゃないんすから。
彦松はやれやれとばかりに落ち葉を掃いて集めている。
べつに雨丸だけじゃない。宿のみんなが、るり子が来るのを楽しみにしているのだ。目の前の彦松も当然、そうだ。
「雨さんは恩人探しがうまくいってるか知りたいってところでしょ」
「………………」
「忘れてたんすね」
誤魔化すように雨丸が乱暴に箒を動かすので、落ち葉が余計に散らばっている。
呆れる彦松だったが、箒を動かす手を止めた。
旅館の正面玄関の前に、穏やかな川のような空気を纏っている娘が立っている。『つなぎ屋』の人間だ。
「相変わらず足音たてない人っすねえ。雨さん出迎えたほうが」
視線を戻したそこに、雨丸の姿はない。
雨丸はるり子に元気よく声をかけ、彼女の荷物を運ぶために奪い取っていた。
*
「雨丸さん、お探しの少年の手掛かりがないことをお詫びします」
案内した客室で、るり子が頭を下げたので雨丸は驚いて慌てた。
「いいって! そんな簡単に見つからねえと思ってたし、迷惑かけたな」
申し訳なさそうにまだ少し顔を俯かせたままのるり子を見て、雨丸は「大丈夫」と明るく笑う。
「十年以上前のことだし、俺の記憶がおぼろげだから仕方ないって!」
ちょっぴり残念ではあったが、忙しいるり子をこれ以上わずらわせたくない。
ぐったりとしていた雨丸をこの旅館に運んでくれた男の子が無事に生きていれば……それだけわかればいいやと思ってしまった。
「誰かがこのお山に入ったのでしょう。行方不明者もいないようなので、そこは安心していただければ」
「いいんだ。それよりるり子さん、夕食は何時頃がいい? 魚も肉も、いいの仕入れたって聞いたからたんと食べて、ゆっくり休んで、元気になってくれ」
満面の笑みを浮かべると、つられたようにるり子がうっすらと微笑んだ。
彼女の優しい微笑みをみると、胸のあたりがなんだかぽかぽかする。
「前と同じくらいでいいです。ここの料理はとても美味しいので楽しみです」
「へへ、そうか」
旅館は隅々までぴかぴかにしているし、きっとるり子を癒してくれるはずだ。おいしい食事で喜ばなかった人間はいない。
「シュッチョっていうのによく行ってて大変なんだろ? デンシャって鉄の塊に乗るんだっけ?」
「最近は新幹線ばかりですね」
「? シンカンセーン?」
ヒコーキーとは、違うんだろうか? 時々上空を通過していくちんまりした銀色の鳥もどきのことを、雨丸はぼんやり思い浮かべていた。
るり子は『つなぎ屋』ということをしている。言うことをきかないあやかしをこらしめるそうだ。
でも本当は、あやかしと人間のあいだを取り持つ、という仕事らしい。
彼女が仕事をしている姿を目にしたことがないので、あやかしと人間の手と手を握手させる……そんな想像しかできない。
「じゃあ時間になったらメシ、じゃない、食事を運ぶから。ゆっくりしてく、してください」
「べつにかしこまらなくていいですよ」
優しく言ってくれるが、やはり疲れの色が強くみえている。
雨丸は立ち上がり、客室から出て行った。うんとたくさん食べてもらって、元気になってもらおう。
*
るり子が持参したお土産のマカロンを食べながら、桃花は若旦那を見た。
「若旦那、雨丸の恩人が誰か知ってる?」
若旦那もマカロンをひょいと口に放り込んだ。
「知っていますよ?」
「教えてあげないんすか?」
彦松がもぐもぐとマカロンを食べてから、ずずっとお茶を飲んで「ほぅ」と息を吐く。
「るりちゃんのお土産、ほんとハイカラで美味しいから大好き!」
「お客人なのに律儀にお土産持ってくるって、いい人間すよねえ」
「全部食べてはいけませんよ。みんなに残しておかないと」
ふたりは雨丸の恩人のことよりも、目の前のマカロンに夢中だ。その様子を見て、若旦那はくすりと笑う。
「いつ気づきますかね」
その呟きは、次のマカロンに手を伸ばしているふたりの耳には入っていなかった。
***
「たんと食べるんだぞ」
「これは……ずいぶんと豪勢ですね」
少しだけ困ったように微笑みながら、るり子はテーブルの上に並ぶ豪華な食事を前に「いただきます」と両手を合わせる。
浴衣姿のるり子が美味しそうに食べるのを見ながら、ふいに雨丸は彼女の腕の傷を指差す。
「古い傷だな」
「え? あぁ、はい。昔、他の動物に襲われてたオコジョを助けた時についたものです」
「おこじょ?」
聞き覚えのない言葉だ。
首を軽く傾げている雨丸だったが、なんだか気に入らない。
「元気になったと若旦那が言っていたので山にかえしたと思いますよ」
懐かしむように微笑むるり子を見て、雨丸の胸の奥がちくりと痛んだ。
反射的に胸元をぽりぽりと掻くと、彼女が怪訝そうにする。
「どうしました?」
うまく応えられないので、笑って誤魔化すしかない。そして青ざめてから、雨丸は慌ててその場をあとにした。
*
だだだだ! と、派手な足音をさせて雨丸は若旦那のところに急ぐ。
帳簿の整理をしていた若旦那は来訪者に驚き、目を丸くした。雨丸が泣いていたのだ。
「雨丸? どうしたんです?」
「若旦那、俺……もうすぐ死んじゃうかも……」
ぐすぐすと泣きながら事情を話すと、雨丸は若旦那に盛大に笑われてしまった。
それが『トクベツな好き』の痛みだと知るのは、まだ――先の話。
*****
山奥にひっそりと建つ、小さな温泉旅館『のどか』。
そこはマイペースなはぐれもののあやかしたちが営む、お宿。
運が良ければ、そこにいるあやかしたちの恋模様をみることができるかもしれません。




