明灰の侍女
ノックの音が聞こえ、少し間を置いてから扉が開く。
先ほどカイランが執務へ向かう際、呼んでくれると言っていた侍女だろう。
専属の人間を付けられるほど人手が豊富には見えなかったけれど、側仕えがいれば便利なのは間違いない。
ぺこりと頭を下げて入室してきたのは、あどけない顔立ちをした少女だった。
その顔には明らかな緊張が浮かんでいて、動きもどこかぎこちない。
「おはようございます、奥様っ……! きょ、本日から、奥様付きの侍女になりました、メリナですっ!! あのっ、ど、どうぞよろしくお願いいたしますっ!!!」
メリナと名乗った侍女は、少し詰まりながらも勢いよく挨拶をした。
もう、おはようという時間でもないのだけど……元気そうな印象は、悪くない。
彼女は緊張の面持ちとは裏腹に、足取り軽くこちらへやってきた。
このノワジア領に来てから感じたのは、この地の住人は似たような色彩をしているということ。
色彩豊かな王都の人々とは違い、各人色味は違えど、茶色の髪に灰色の瞳が多い。
彼女もまた、温かみのある栗色の髪に、明るい青灰色の瞳をしていた。
灰色の瞳は、この地の空を思わせる。
カイランの瞳が昏い夜を映したものだとすれば、彼女の瞳は夜明けの色だ。
左右に短い三つ編みを垂らし、暗い色の丈長なワンピースに白いエプロンのお仕着せを纏う少女。彼女には見覚えがあった。
結婚式の前に短くなった髪を丁寧に整え、見事な手腕を発揮してくれた。昨晩夜着を着付けたのも、彼女だったような気がする。
年長者の多い印象の使用人たちの中で、年若い彼女はよく目立った。
「こ、こんなに綺麗な奥様にお仕えできるなんてっ……ほんと、夢みたいですっ!! しかも、王都からいらっしゃったなんて……! あ、あのっ、私、ダメ元で志願したんですけど……えへへ、希望が叶いましたっ!!」
屈託のない笑顔に、思わず毒気を抜かれてしまう。
年齢で選ばれたのかと思ったのだけど、どうやら違ったらしい。
辺境の人間は、余所者に対して排他的な印象があった。けれどもしかすると、それは私の偏見だったのかもしれない。
ただでさえエラディアの評判は、すこぶる悪いもののはずなのに。
……若さなのか、性格なのか。
彼女はそういったものを気にした様子もなく、ただ私へ憧れにも似た純粋な好意を向けている。
その澄んだ眼差しに少しだけ胸が温かくなるのを感じて、私は最上級の笑みを浮かべた。
「そうだったのね。私の侍女を希望してくれたなんて、嬉しいわ。これから、どうぞよろしくね」
「お、奥様……!? は、はいっ! わ、わたしでよければ、な、なんでも……お、お申しつけ、くださいっ……!」
蕩けるような笑みを浮かべた自覚はあったけれど、効果はてきめんだったみたい。
彼女はのぼせたように顔を上気させ、呂律が回らない様子で焦点の合わなくなった視線をこちらに向けている。
美貌に充てられぼうっとしているその姿は、私を満足させた。
そこから、久方ぶりに目にした初心で純粋そうな娘だという感想が湧いてくる。さらに浮かんでくる可愛らしいと思う感情は、新鮮なものだった。
私は「メリナ」と彼女の名前を口の中で転がし、その響きを反芻する。
そこからしっくりくる部分を抜き出して、呼びかける。
「……リナ。ねぇ、貴女のことをそう呼んでも良いかしら?」
「は、はいっ……! う、嬉しいです、奥様っ……!」
小首を傾げて問えば、彼女はコクコクと頭を上下させる。
その様子は、まるで高揚した子犬が尻尾を振っているようだった。
侍女の一人もいればマシだという考えは、早々に捨て去った。
これほどまでに従順そうな味方は、そういない。
思いのほか恵まれていると、私は自身の運の良さを噛みしめる。
この地での足がかりとしては、十分だろう。
少なくとも、城砦内で私を軽んじるような真似をする人間は現れないはず。
カイランやリナの態度から、そう確信したのだった。
***
湯あみがしたいという私の言葉に、リナは張り切ったように準備を始めた。
生まれたての小鹿のように歩く私を、彼女は器用に支えながら浴室へと連れていった。小柄な見た目に反して、その手際はなかなかのもの。
侍女が一人では、手の回らないところも出てくるだろうとは思ったけれど……この様子なら、適性としては申し分ないだろう。
温かなお湯に浸かり、ふぅと息を漏らす。
私の身体が十分に温まったことを確認すると、リナは優しい手つきで背中を流し始めた。
たっぷりと湯を含んだ柔らかな布が、そっと肩から背中へと滑っていく。
彼女は私の反応をつぶさに確認しながら、傷の上を撫でるように殊更ゆっくりと手を動かす。
もう背中の傷に触れられたところで、痛みを感じることはない。
けれどその静かな気遣いから、彼女もこの過酷な土地に生きる人間なのだと感じさせる。
「はぁ……奥様のお肌、真っ白でとてもお綺麗ですね……!」
「そうかしら? うふふ……ありがとう」
「本当にっ、絹みたいに滑らかで……お手入れのし甲斐がありますっ!」
おべっかというわけでもないのだろう。うっとりと目を細めたリナの姿から、心底楽しそうな様子が伝わってくる。
無垢な少女から向けられる真っ直ぐな称賛は、どこかくすぐったく感じられた。
「――ねぇ、この城砦のことを教えてくれる?」
私がそう声を掛けると、リナは一瞬嬉しそうな表情を浮かべた。けれどすぐには口を開かず、ややかしこまった調子で居住まいを正す。
「あのっ、詳しいことは……旦那様にお聞きいただくのが、一番かと思います。もちろん、私の知っていることなら、何でもお話ししますっ!」
「そうね……カイランにも聞いてみるけど、今は貴女から見たこの場所のことが知りたいわ。働いている人間のことでもいいし、建物のことでも、なんでもいいの。だって私はここへ来たばかりで、ほとんど何も知らないのだもの」
本当は、自分の口から色々と説明したかったのだろう。
リナは瞳を輝かせながら、一つずつ指折るように語り始める。
「この城砦、かなり古いんですけど……見た目通り、すっごくしっかりしてるんです。森の向こうに、魔物の巣……みたいなものがあって、魔物からの襲撃を防ぐためなんだそうですっ! あっ、でもっ、騎士団の皆さんが討伐してくれているおかげで、私が知っている限り、ここまで魔物が来たことってないんですよ!!」
彼女はふんす、と誇らしげに鼻息を鳴らした。
そしてこの地における騎士団が、どれほど少数精鋭で頑強なのか、話に熱を込めていく。
確かに彼らはこの国で唯一といっていい、対魔物の専門家たちだ。
これまでこの地を守り続けた実績からしても、強いのは間違いないだろう。
とはいえ彼女の語る内容は、あくまで傍観者のそれに過ぎない。
騎士団についてもっと詳細を知るには、やはりその指揮官であるカイランに直接聞いてみるべきだろう。
「ただ……どうしても、危険と隣り合わせなので……怪我をしたりする人が、すごく多くてっ。だから、ここを出ていく人もいたりして……みんな、いなくなっていくばっかりで……っ」
声音に、陰りが滲んだ。
このリナという少女は、表情がクルクルとよく変わる。
まだこうして残るあどけなさが、庇護欲をそそるのだろう。
「貴女は、ここを離れたいと思ったことはないの?」
「ありませんっ! だって、ここは大事な故郷なんです!! 今、残っている人たちも……きっと、同じように思っているはずですっ!」
「ふぅん……」
こういうのを、帰属意識というのだろうか。
この土地に根を下ろしている、といえば聞こえは良いのかもしれない。けれど郷土愛と一括りで済ませるには、やけに自己犠牲的な執着を感じる。
あまり理解できない思想に、不器用で難儀なことだという感想が浮かんだ。
私のやや冷めた反応に、リナはわずかに恥じ入ったように視線を落とす。
「あ、あの……私は、物心ついたころからこの城砦で暮らしているんです。ここの人たちは……みんな、私の育ての親といいますか。だからこそ、そんな風に思ってしまうのかもしれないです。都会には、憧れもあるけど……それとは、また別なんです」
「ううん、いいのよ。なんとなくわかったわ。……私ももう、ノワジアの人間になったのだし」
ぽつりとした呟きに、彼女は視線を上げた。
「奥様は……王都へ、帰りたいんですか?」
「帰る……?」
――王都へ?
脳裏に、焼き付いた情景と、怨嗟の声が蘇る。
私の反応を見て、リナは弾かれたように立ち上がった。
「おっ、奥様……!? あの、わっ、私、出過ぎたことを……っ! ほ、本当に申し訳ありません!!」
半ばべそをかいたようになっている彼女に、私は笑ってみせる。
なるほど、根底にあるはずの帰属意識に、何故違いがあるのかわかるというものだった。
「いいえ……リナ、貴女はとても大切なことを私に気付かせてくれたわ。その素直さは美徳よ。そう……ふふ、確かに私は、ノワジアの人間になったのだわ」
私の言葉にリナは躊躇うように一拍置き、そして祈るように問いかける。
「ここに……ずっと、いてくださるのですか?」
「当たり前じゃない。他にどこへ行くというの? 私にとっても、ここはもう故郷なのだもの」
ようやく調子を戻したのか、リナははにかんだ笑みを浮かべた。
そう……王都を思い出したときの、この胸が灼け付くような心地を、憶えておこう。
あの敗北を、屈辱と喪失も、忘れはしない。棄てたりなんかするものか。
けれどあそこはもう、エラディアには相応しくない。エラディアを受け入れない場所など、願い下げだ。
むしろこの呪われた土地こそ、居心地の良い場所へ変えてみせる。
信奉者を作り、協力者を増やすのだ。
――『悪女』と呼ばれたエラディアが、ありのままで生きられる場所を作るために。
私はそう、心に誓った。