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誓いの口づけ



鏡の中に、美しい女がいた。

血色の悪い顔には白粉が叩かれ、唇には鮮やかな紅が引かれている。


私はこれから行われる結婚式のために、私室として宛がわれた部屋の鏡台の前に座っていた。

本来の彼女(・・)とは、ここに到着するなり入れ替わったので、幸い誰かに気付かれた様子はない。


望まれない花嫁とはいえ、新婦の支度に手間がかかるのは万国共通なのだろう。

周囲では年かさの女性使用人が数人、忙しそうに立ち働いている。


鞭打ちの際に短く切られてしまった髪は丁寧に編み込まれ、頭をくるりと巻く花輪のように整えられている。

紛れるように一人だけいた若い女性使用人は、この見事な手腕を披露すると、俯いて早々に姿を消してしまった。もしかすると、新婦としては異例の短い髪をどうにかするために、無理矢理呼ばれたのかもしれない。


年かさの使用人たちは表情を変えず、口も開かない。視線を合わせることもなく、ただ黙々と手を動かしている。

……まぁ、恩赦を受けたとはいえ、王都で『悪女』だの『罪人』だのと罵られて追い出されてきた女が突然現れたのだ。歓迎しろというのも難しい話だろう。

部屋の外からも、重苦しい空気が伝わってくる。結婚式というよりは、むしろお通夜のような雰囲気すら漂っていた。



数人がかりで着せられたのは、古びたウェディングドレスだった。

流行に左右されにくいクラシカルなデザイン……と言えば、聞こえは良いかもしれない。けれど首元や手首までをしっかりと覆い、絞られた胴部分から広がるスカートの重たげなシルエットには、否応なく時代を感じさせられる。

生成りのドレスは本来この色だったのか、それとも長い時を経て色落ちしているのかも、判別が難しい。


――彼女(・・)なら、侮辱されたと憤慨するだろうか。

けれどこのドレスは古い品ではあるものの、状態を見れば丁寧に保管されていたことが窺える。

全体にうっすらと褪せた淡い跡が見えるものの、上質な絹特有の柔らかな光沢は鈍いながらも残っている。

寒い土地とはいえ、古い絹製のドレスをここまできれいに保存しておくのは骨が折れるはず。


もしかすると……これは先代夫人の遺したものなのかもしれない。

幸福な思い出と共に、次に誰かが着てくれることを願っていたような、そんな情景が浮かんでくる。



こうした感傷が湧いてくるのは、エラディアに母親の記憶がないからだろうか。

人生の一大イベントに、ありもしないぬくもりを探してしまうのは、きっと誰にでもあることだろう。


支度を手伝う年かさの女性使用人たちは、はじめのうち、不愛想で無遠慮そうに見えた。

私の背中にある醜い傷跡に嫌悪を示されるかと思ったけれど、気味悪そうに顔を歪めることもなく、表情一つ変わらない。それでも傷に触れないようにそっと避ける仕草には、気遣いが感じられた。

距離は感じるものの不満を抱かなかったのは、その静かな配慮があったからなのかもしれない。


被せられたヴェールにも、新しく編み足された跡がある。これにも、何か意味があるのだろうか。

ふと考えそうになったところで、私を呼ぶ声に顔を上げる。

そして私は、記憶にある誇り高いエラディアの姿を胸に刻み、一歩を踏み出した。



***



エラディアが辺境ノワジア領へ到着した翌日。

城砦内に併設された小さな礼拝堂で、新たな辺境伯夫妻の結婚式が執り行われた。


紆余曲折があったにせよ、一応は領主の結婚式だ。……それなのに、式場は最低限の体裁を整えてある程度。

参列しているのも、出迎えの際に顔を見せた者ばかり。周知を拒むように、新郎新婦の親族の姿さえない。

城砦内で働く人間たちが遠巻きに見守っているという、本当にささやかな式だった。


仕方なく押し付けられた『悪女』が花嫁とあって、向けられる視線はお世辞にも祝福されているとは言い難い。

とはいえ、このくらいは予想できたことだった。

殺伐とした雰囲気の中、私は背筋を伸ばし、何食わぬ表情を浮かべて足を進める。


だけど……婚姻を経てこの地で暮らしていく以上、周囲との関係は重要になってくる。

少しずつでも味方を作って、居心地の良い環境を整えていきたい。

そのための第一候補が、夫なのだけど……。明らかにエラディアを歓迎していない筆頭という面持ちをしていたので、期待薄ではある。

すぐには難しいだろうけれど、接する機会を重ねながら、懐柔する隙を探るしかないだろう。



ようやく新郎の隣まで辿り着くと、私は意外な驚きに、やや目を見張った。

夫となるカイラン・ノワジアの姿が、昨日とはまるで別人のように感じられたのだ。


ヴェール越しに見える彼の姿は、この結婚式のためにかすっかり髭を剃り、領主としての礼装を纏っていた。

不本意そうに顔を歪めているものの……初対面のときに感じた、野獣じみた蛮族のような印象とは、まるで違う。


彼女(・・)も私も、昨日の時点で既にいっぱいいっぱいだったので、冷静に周囲を観察できなかったのも仕方ないことだろう。


後ろに流し固めた黒褐色の髪は清潔感が漂い、鈍い青灰色の瞳は相変わらず鋭い眼光を放っているものの、彼の精悍な顔立ちを一層引き立てている。

三十手前と聞いていたけれど、髭を剃ったことで年相応よりもかえって若々しく見えた。

鍛え上げた体躯に日に焼けた肌が、彼の偉丈夫さを際立たせている。

若くしてこの過酷な土地を守り続けてきた者としての威厳が、そこにあった。



夫となる人物の印象が改善されたことで、少しだけ気分は上昇したものの、冷え切った結婚式であることに変わりはない。


老齢に差し掛かった神父は張りつめた空気の中、時折視線を泳がせたり冷や汗を流しては、ちっともめでたくなさそうな調子で祝福の詞を述べた。

型にはまった誓いの言葉を新郎と新婦がそれぞれ繰り返し、ようやく式は終わりに近づく。


差し出された指輪には華美な装飾などなく、ほとんどただの金属の輪のようだった。

けれど、間に合わせにしては妙に指に馴染んでいる。

牢暮らしで細った指にも大きすぎることはなく、どこか頼りなさそうに鈍い色を放ちながら収まっていた。



さて、残すは誓いの口づけとなったわけだけど……。

長いヴェールが捲られ、はっきりした視界で新郎を見上げれば、浮かぶ表情からどこか適当に顔を近づけて済ませようとしている気配が伝わってきた。


胸に、炎のような苛立ちが湧き上がる。

この結婚が本意でないことは理解できるけど……これはいくらなんでも、侮辱的過ぎる。

彼女(・・)なら、そのような真似は許さないだろう。

どれほど嫌がったところで、エラディアを妻として迎え入れざるを得なかったのは、そちらの落ち度だ。


私は新郎の襟首を掴み――力を込めて引き寄せた。


小さくどよめきが広がる中、噛みつくように唇を重ねる。

その行為には、神聖さの欠片もなかった。あるのはただ、矜持だけ。

剣呑に睨みつけ合いながらの接触が、やけに長く感じられた。


やがて、ゆっくりと唇が離れる。互いの口元から、微かな吐息が漏れた。



「誓いの口づけを、と言われたでしょう?」

「……本気で誓いを守る気もないくせに、よく言う」

「あら、でもこれで私たちは夫婦よ。そういう儀式だったじゃない」



低い声で応酬を交わす中、声を震わせた神父によって「これでお二人は、神に誓いを立てた夫婦となりました」と宣言が成された。

内実はどうあれ、これで契約上私たちは夫婦となったわけだ。



足早に立ち去っていく夫を見送り、私は少しだけ肩の力を抜いた。



***



結婚式を終えた後には、披露宴のようなものは開かれなかった。

あの雰囲気では、当然だろう。


宛がわれた部屋へ戻ると、再び使用人たちの手によって古びたウェディングドレスが丁寧に脱がされていった。

そして私に、しばらく一人でゆっくりと過ごす時間が与えられたのだった。



さて……これから一体、どうしたものか。


婚姻によって、私はエラディア・ノワジアとなった。肩書きとしては、ここノワジア辺境伯領の領主夫人。

認めたくはないけれど……罪人としての境遇を経た後だというのに、それなりの相手に嫁ぐことができたのは、父親であるヴェルミリオン公爵の手腕の賜物だろう。


とはいえ……ここノワジア領で快適な生活を送るためには、夫となったカイランの協力が不可欠。

肩書きばかりが立派でも、孤立しているわけにはいかないのだ。


先ほどのやりとりのせいで、早速彼との関係に亀裂が入った可能性もあるけれど……あれは仕方がない。

だって、エラディアを馬鹿にする行動は、許せるものではなかったのだもの。



この地でも私の評判は、当然良いものではないだろう。

王都の住民たちほど侮蔑的ではないものの……向けられる視線は険しいものが多い。

比べればあってないような程度とはいえ、いい気分はしない。


私への反応が顕著な人物の筆頭が、この地の住民を率いる立場の夫なのだ。

つまり……そこさえ解消できれば、なんとかなる部分も多いはず。


敵意を持たれたままでは、色々と支障も大きい。

かといって、無関心も困る。公爵家から放り出された挙句、結局飼い殺しになるのは御免だ。

ある程度、自由や裁量を与えられるくらいには良好な関係でなければならない。

そのくらい何とかできなければ、彼女(・・)に大見得を切ったというのに、立つ瀬がない。


カイランのあの様子では、そう簡単にいきそうにもないけれど……とにかく、やってみるしかない。

これが、新しい人生を楽しむ第一歩になるはず。



そう決意を固めた私の耳に、ノックの音が聞こえる。

気付けば、陽はすっかり傾いていた。


入室した使用人たちによって、温かな食事が運ばれてきた。

その後は湯あみやらマッサージを施され、新しい服を着せられる。


服、というよりも……膝丈ほどの黒い光沢のある薄布、といった方がいいだろうか。

夜着にしては扇情的なシルエットは、記憶にあるよりはシンプルだが見覚えのあるものだ。

余計な装飾はないけれど、肌に触れる感触から質の良さが伝わってくる。

もしかすると、公爵家からの荷物に入れられていた品かもしれない。


昨日寝る前に着せられた温かそうな寝間着とは、明らかに用途が異なる。

意味するのは、そういうこと(・・・・・・)なのだろう。


――これから向かうのが、いわゆる初夜というものらしい。



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