断罪の跡
鞭で打たれた背中の傷は、酷く膿んだ。
傷口を中心に熱を持ち、朦朧とする意識の中、私はこれまでの短い生涯を何度も回想した。
――何を間違えたのだろう?
……いいえ、私は何も間違えなかった。ただ、望むままに生きただけだった。
――私の奔放さは、咎められるような罪だった?
……いいえ、そんなはずはない。尊大ではあったでしょうけれど、それが許される立場だった。
――幾度となく囁かれた愛のどれかに、応えるべきだった?
……いいえ、とんでもない。それは私の望みでは、絶対になかった。
――才能を活かして、魔術師になるべきだった?
……いいえ、いいえ! 私の魔力は、私のものよ。どう使うかは、好きに決めるわ。
――あのころのまま、王太子の婚約者であり続けるべきだった?
……いいえ、ごめんだわ! 自分という存在を奪われて、責任の奴隷になることなんて耐えられない!
あの鞭が傷を付けたのは、滑らかだった背中の肌だけではない。
あれは、私を痛めつけるための単純な行為ではなかった。
きっと……私を辱めることにこそ、意味があったのだろう。
だから大切に手入れしてきた緩く波打つ濃紫の髪を、ただ鞭を打つ邪魔になるという理由で、無残に切り落とした。
そうして私の公爵令嬢という立場も、私という存在に欠かすことのできない尊厳も――残らず打ち壊していったのだ。
その証に、深く抉れた傷跡を残して。
刻まれた屈辱を忘れさせまいと、今もなお疼き続けている。
ようやく熱が下がり身体を動かせるようになると、今度は魔力の封印を破れないか無謀な試みを繰り返し、何度も激痛にのたうち回ることとなった。
愚かな行為だろうが……どうしても、諦めきれなかった。
魔術の施された道具によってではなく、自身に刻みつけられた魔力封じの術式は、酷く違和感のあるものだったのだ。
体内に、魔力の流れを感じられない。ずっと廻っていた、私の魔力。
あの筆頭魔術師の説明は、的を得たものだった。
根元を無理やり塞き止められたせいで魔力は流れることもできず、ただ内部に淀んでいる。
身体の中で自分自身の一部が行き先を見つけられず、外へ出ていくこともできず……ただそこに留まることしかできない感覚に、私はどうしても耐えられなかった。
けれどこれ以上試してみたところで、無駄であるということも十分理解できてしまった。
身体の内側を、細かくちぎり取るような痛み。
淡く光る、入れ墨のような紋様の浮かぶ左胸。
あぁ、本当に――私の魔力は、私の望むままに動かせるものではなくなってしまったのね。
ただ、無為に失ったのではない。理不尽に奪われ、危険なものだと封じられ……その印まで刻み付けられた。
与えられた敗北と喪失感を噛みしめる私が牢から出されたのは、それから数か月先のことだった。
***
向こうの言い分によれば、これは『恩赦』なのだという。
セレヴィオとアリエレットの結婚。新しい王太子夫妻の誕生のために、既に断罪を終えた悪女は邪魔になったのだろうか。
望んでもいない温情じみた施しを押し付けられることほど、不快なものはない。
御大層な罪状を並び立てた挙句、盛大に首を落とすこともせず、ただ目に見える屈辱の証を刻み付け――それで用は済んだとばかりに、こうして放り出すなんて。
あの二人の行いはいつだって、正義ぶった顔をして、ある程度それらしい戒めを与えるばかり。
勇ましいほどの義憤を演じたところで、何物をも跳ね返すほどの力もなく……大きな功績を残すこともできない、上辺ばかりの張り子のよう。
そのくせ、彼らはどうしてこうも――私の神経を逆撫でしてくれるのかしら。
面白みのない、正義感と慈愛の精神とやらを振りかざしているだけの存在に……いっそ滑稽なほど、私は屈してしまった。敗北してしまった。
そう考えるだけで、この身を投げ出してしまいたくなるほどの屈辱に襲われるのだ。
突然連行された際もそうだったけれど、牢から出された後の帰路もまた、快適なものとは言い難かった。
どこから聞きつけてきたのか、待ち構えていた王都の人間が私の乗せられた簡素な馬車を街道沿いに取り囲み、罵声や石を投げつけた。
――彼らの言う『私の罪』とやらは、おめでたい口実によって赦されたものではなかったの?
熱に浮かされた観衆たちは断罪の日と同じように、口々に『悪女』だ『罪人』だと騒ぎ立てている。
恐らく、これは彼らにとってお祭りの一種なのだろう。
ただ盲目的に、感情を爆発させているに過ぎない。
何より……彼らに恨まれるような謂れなんて、あるはずがないのだもの。
飢えた子供が路地に転がっていたから、ただの気まぐれで雇ってやっただけ――それがまさか、人身売買への関与などと誇張されるなら、あのまま放っておけばよかった。
子供になど、まるで興味はない。だというのに、異常な性癖だの、怪しげな儀式の生贄に使っただのと、下劣な汚名を着せられそうになったことは、何より許し難かった。
罪状としては、違法な仲介人への金銭の授受があった、という部分だけが採用されたようだけど……まるで『悪女』には施しの念などあるはずもない、ということを印象付けるための、徹底した捏造劇だった。
彼らは自分たちの中に丁寧に積み上げた、私への『悪女像』を崩したくなかったのだろう。
忌々しい回想から意識を浮上させたのは、投げつけられるものに石と罵声以外が混じり出したからだった。
窓のない座席からではよくわからないけれど、恐らく汚物の入ったバケツでもぶちまけているのだろう。
公爵家の紋章入りの馬車ではないとはいえ、そんなものまで持ち出す度胸のある住民がいることに、いっそ感心を抱く。
……もちろん、不快で仕方がないのは、どうしたって抑えようがないけれど。
しばらくして、ようやく喧騒を抜けたのを感じる。
馬車は王都の門を越えた後も、そのまま夜中まで走り続けた。
『恩赦』とやらの結果がアレなのだから、私を王都にある公爵家の邸に入れるわけにはいかなかったのだろう。
夜を越え空が明るみはじめたころ、馬車はようやく公爵領にある屋敷の門をくぐったのだった。
***
連れられたのは、領地にあるヴェルミリオン家本邸の別館だった。
……これは、もう本邸にすら足を踏み入れるな、という意思表示なのかしら。
別館は賓客が長期滞在するために整えられているので、居心地は悪くない。
けれどどうしても、冷たいよそよそしさが感じられてしまうのだった。
出迎えた使用人たちも、見慣れない顔ぶれだった。
公爵家に仕える人間らしく、微笑を張り付け機械人形のような手捌きで仕事をこなしている。
私の侍女たちがどうなったのか、聞いてみようかと思ったけれど……どうしても、そんな気持ちにはなれなかった。
埃一つない清潔な部屋に、飾られた花の甘い芳香が漂う。
広く柔らかな寝台に、肌触りの良いシーツ。
甲斐甲斐しく立ち働く、使用人たちの姿。
日常の光景が戻ってきたというのに、私の心は一向に癒されない。
泥のような眠りから目を覚ますと、背中の傷の治療のために、教会の聖職者が呼ばれていた。
彼女もまた見覚えのない人物ではあったけれど、纏う純白のローブに施された金の装飾から、高位の――少なくとも、治癒魔術に長けた教会の人間であることは見て取れた。
一糸纏わぬ私をうつ伏せに寝かせ、聖職者は淡々と詠唱を紡ぐ。
それは、私の左胸に施された魔力封じに干渉するものではなかったのだろう。
ぼんやりとした淡い光が全身を包み、奥底から湧き上がるじくじくとした痛みを取り除いていった。
――けれど。
「どうして、背中の傷が消えていないの!? 父はその程度の治癒しか行えない者を、私に寄こしたということ!?」
「ご令嬢……違うのです。今施したのは、間違いなくこの国でも最高峰の治癒魔術だと、私の真名を懸けて申し上げます。しかし……この背中に残った傷跡は、貴女の魂に、深く刻みつけられてしまっているのです。魂が、その身体に、この傷跡を『あるべきもの』だと……そう認識している以上、我々の治癒魔術では消せぬものなのです」
「なんて、ことなの……? それじゃあ、この傷は――私がっ……自分の一部だと、認めているとっ……そう言いたいの!?」
私の慟哭に、聖職者はただそっと目を伏せた。
あぁ……なんということだろう。
教会に属する聖職者とはいえ、治癒魔術師が己の真名を持ち出したのだから、疑いようもない。
治せない傷。治らない傷。……刻みつけられた、汚辱と敗北の証。
もう、消えることはない。――もう、戻れない。
意識が、奈落の底へと落ちていくようだった。
私はその日、父から告げられた辺境伯との結婚に、ただ頷いたのだった。