嗜好の一杯
「――奥様、おはようございます」
「ん……。おはよう、リナ」
侍女のリナがカーテンを引いたことで僅かに明るくなった室内で、身体を起こす。
目を覚ますのは、領主夫妻の寝室だ。
寝台に視線を落とすが、やはり今日も既にカイランの姿はない。
「旦那様は、騎士団の早朝訓練に向かわれましたよ」
「そう……」
本当に、元気なことだ。
彼女は、寝台からさっさと消える男が嫌いだった。
けれど彼が部屋を出たのは、恐らく朝になってからだろう。領主の執務に加え、騎士団指揮官としての訓練だの遠征準備やらで、多忙の身であることは理解している。
あの日私へ食事を持ってきたのは、きっと異例のことだったのだ。
私としても、毎日あそこまでされては負担に感じてしまうに違いない。
まだ眠気が残る中、今日も灰色の窓の外をぼんやりと眺める。
そうしている間に、カチャカチャという微かな音が聞こえてきた。
ふわりと広がる芳香に意識が向いたところで、湯気を立てたカップが目の前に差し出される。
「どうぞ、奥様」
「ありがとう」
リナから温かなカップを渡されて、揺れる琥珀色の液体を口に含む。
中身は紅茶だ。
華やかな香りが口いっぱいに広がり、僅かな渋みが舌の上に余韻を残す。
「美味しいわ、リナ。今日も上手に淹れてくれたわね」
「わぁ……! お口に合ったようで嬉しいですっ」
褒めてほしそうな気配を感じて、ゆったりと口角を上げれば、弾ける笑顔がそこにあった。
明るい彼女を見ているだけで目が覚めそうだ。
時間をかけて味わいながら喉を潤す私を見て、リナが何やら不思議そうに小首を傾げる。
「あの、思ったんですけど……。奥様は、もしかして――あまり紅茶はお好きではないですか?」
「え……?」
「いえ、そのっ……なんだか、少し物足りなさそうなお顔をされているような気がしたんです」
「そう、かしら……?」
美味しい紅茶だ。それは間違いない。
けれど……何か物足りないかと聞かれれば、確かにそう思ってしまったのも事実。
リナを見れば、彼女は少し不安そうに口を開いた。
「質は劣ってしまいますが……コーヒーやハーブティーならございますよ」
「コーヒー……、あるの……?」
思わず、縋るようなか細い声が出た。
彼女は紅茶党だったけれど、私は断然コーヒー派だ。起き抜けの一杯は、特に。
――遠い、遠い記憶が、少しだけ蘇る。
コーヒーを求める私の様子に、リナはやる気を燃やしたようにふんすと拳を握る。
「ございますっ! すぐご用意しますね!!」
今にでも駆け出していきそうな彼女と、手の中のカップを見比べて、私は首を振った。
いくらなんでも、寝起きでそんなには飲めない。お腹がちゃぷちゃぷになってしまう。
「今は紅茶をいただいているから……そうね、食後にでも淹れてもらえるかしら」
「あっ……わ、わかりましたっ!」
途端に残念そうな顔をするので、お願いを付け加えたことでリナも納得したらしい。
……コーヒー! コーヒーが飲める。
新しい楽しみに、内心逸る気持ちを抑える。
こうして朝食を終えるころには、すっかり目が冴えていた。
***
そして私は、現実がそう上手くいくわけもないことを思い知らされる。
黒い液体を口に含んだ瞬間――私は、思わず動きを止めた。
「…………」
「あっ、あの……奥様? お口に合わなかったですか……?」
「……………………」
「お、奥様……?」
きっと私は、何とも言えない表情をしているのだろう。
リナが恐る恐る、といった様相で声を掛けるけれど……それに応じる余裕はない。
思い切って液体を飲み下し、カップの中を覗き込む。
揺れる液面の底に、やや粗さの混じる細かな黒い豆の滓が僅かに沈んでいた。
――これ……コーヒー、よね?
幻ではないはずだ。
飲む前の見た目は完ぺきだったし、香りも良かった。
実際に口にした味も、コーヒーだ。
でも……それでも何かが違うと、心のどこかが拒絶する。
口当たりや、酸化による多少の雑味は仕方ない。
だけど……決して薄いわけではないのに、舌先に感じる苦味はどこか平坦で、深みがない。それに、飲み込んだ際に鼻腔を抜ける香りも乏しい。
何というか……間違いなくコーヒー豆の味なのに、インスタントコーヒーのような苦いだけの代物というよりは――まるで別の何かで『コーヒーの味を再現』しようとした、代替品のようだった。
「他の人間も、これと同じものを飲んでいるの?」
「は、はい……。飲んでいるのは、騎士団の方が多いですね」
「……、なるほどね」
それなら、これは恐らく……カフェイン摂取が目的の代物なのだろう。
単純に豆の質が低いだけでなく、そもそも風味は二の次という、嗜好品というよりは実用品の類。
もちろん、転生前の記憶にあるような適切な器具などはないのだろう。
小鍋か何かで煮出して、その上澄みを掬ったような淹れ方。そんな情景が、ありありと浮かんだ。
間違いなく、望んだものではあるのに――決定的に違う。
認めたくない現実に、虚しさが広がった。
リナは、一体私が何を気に入らないのかと不安そうにしている。
きっとこれが、この城砦内で日常的に愛飲されているのだろう。
だから、私の感じる違和感が伝わるはずもない。
そして、私は別のところにも引っかかりを覚える。
コーヒー豆の品質が低い、というよりも……むしろ、『エラディアが満足するような紅茶』が出てきたことの方が、ここでは異質なのだ。
牢での暮らしを経験しているとはいえ、幼いころから肥えた舌がそう簡単に変わるはずもない。
来客用に用意されているにしても、王都で口にしていたものと遜色ない程の品質であるのは、いくらなんでもおかしい。
「……今まで淹れてくれていた紅茶の茶葉は、どこから出てきたの?」
「あっ……! やっぱり……お分かりになりますよね」
リナは些かしゅんとしたように視線を落とすと、僅かに口ごもった。
恥じ入っているというよりは、何かを私に伝えても良いものか、逡巡しているようだった。
「その……、公爵家から届いた荷物に、入っていたものです」
「……そういうこと」
紅茶党のエラディアの為に入れたんだろうか――という考えが、一瞬だけ胸を過った。けれどそれも、すぐに掻き消える。
贅沢三昧だった娘を押し付けるのに、多少なりとも後ろめたさがあったのだろうか。
それとも……私を妻にするのなら、このくらいの品が必要だとでも伝えたかったのか。
実際この城砦では、これまで日常的に紅茶を消費するような人間はいなかったという。
ここまでの茶葉を出すような客人が訪れることもないらしい。
贅沢の象徴。
私だけが口にする、ただの嗜好品。
「とりあえず、茶葉が無くなるまでは紅茶を出してちょうだい」
「っ、はい! かしこまりました」
それでも……本物のくせに偽物感のあるコーヒーなんかよりは、ずっと良い。
茶葉が無くなったら、私もここにいる人間と同じものを飲むことにしよう。
黒い液体を啜りながら、そう心に決めたのだった。
今回でストックがなくなったので、次話より不定期更新になります。
ゆっくりになってしまうと思いますが、この先もお付き合いいただけますと幸いです。