第9章 風の中で
昼過ぎ、空は薄曇りに包まれ、風が不規則に吹いていた。木々がざわめき、空気はどこか落ち着かない。園内では、スタッフがそろそろ閉園準備に入ろうとしていた。
それでも、子どもたちは元気に駆けまわり、動物たちに手を振っていた。ミアは、少し離れたベンチに腰かけていた。手には、スケッチブック。ページをそっとめくると、そこには羽ばたくピウが描かれていた。
「……もうすぐスワローも旅立つんだよね」
誰にともなくつぶやいて、彼女は立ち上がった。そのとき、強い風が吹き抜けた。
「きゃっ!」
ミアの手からスケッチブックがはらりとこぼれ、1枚の絵が風に乗って宙を舞った。
それは夜の動物園で描いた、空を翔けるピウの絵だった。
「待って、それ……!」
ミアは夢中で追いかけた。絵は風に翻弄されながら、プールエリアの方へ飛んでいく。彼女の小さな体は風にあおられながらも、一直線に走っていた。フェンスをすり抜け、プールサイドにたどり着いたその瞬間――
足元が滑った。
「――あっ!」
体が浮き、重力に引かれるようにして水面へと落ちていく。
「ミアッ!!」
水音が大きく響いた。ピウはその声に、考えるより先に体が動いていた。
地面を蹴り、水辺へと一直線に飛び出す。
羽ばたきの練習で鍛えられた筋肉が、正確な動きを導く。
水に飛び込むと、抵抗をかき分けるように力強く進んだ。
水の中で、ピウの翼が柔らかく開かれ、まるで水を押して空を滑空するかのように、彼の体が進む。
ミアの目が、うっすらと開いた。
――空を飛んでる……?
水面の光に照らされて、泳ぐピウの姿が、あの絵の中の鳥そのものに見えた。
ピウの体が彼女に届き、そっと引き寄せる。
彼の翼が水を押し上げ、二人の体がゆっくりと浮かび上がっていく。
その光景を、ガラス越しに見ていた子どもたちが目を見張った。
「すごい……」
「ほんとに……飛んでるみたい……!」
子どもの一人が、風で飛ばされていた絵を拾い上げた。
そこには、いま目の前で泳いでいるピウとまったく同じ姿が描かれていた。
誰も笑わなかった。
誰も、ばかにしなかった。
みんなが、その瞬間だけは、ピウのことを空を翔ける鳥だと信じていた。
水から引き上げられたミアは、びしょ濡れのまま、ピウを見つめた。
「……ありがとう、ピウ。……飛んでたよ……ほんとに……」
ピウは静かに目を閉じた。
――空に届かなくても、夢を見ているあいだだけは、ぼくは鳥だった。