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高校三年 四月 夜

高校三年 四月 夜

音穏

 ようやく、家に着いた。いつもと同じ帰り道を辿ったのに、全然足が進まなくて、帰る時間がかなり遅くなってしまった。もうとっとくに家の周りは街灯の光が際立っている。

 

 扉を開けると愛犬のポチスケの鳴き声がした。茶色い毛と、おっとりとした目をもっている、可愛らしい柴犬だ。

 

「ただいまー、いいこにしてたかポチスケ。遅くなってごめんなぁ」

 

 音穏の言葉に返すように、ポチスケは返事をする。

 

「ご飯あげるからちょっと待ってろ」

 

 音穏は廊下の備え付けの棚からドッグフードを取り出し、ご飯の容器にゴロゴロと入れ、ポチスケの前に置く。

 

「待て、お座り、食べて良いよ。今日もよくできたなー」

 

 音穏はポチスケを可愛がって撫でる。

 

 自然と、玄関の靴棚の最上段に置いてある、自分が小さい頃の家族との写真立てに目がいった。

 

 右の写真から順に、自分の背丈が伸びていっていることが分かる。

 

 ここに飾ってあるのはすべて、家族との集合写真ってとこだろうか。幼稚園のお遊戯会のとか、ピアノの発表会とか、そういうのは恥ずかしいから、自分の部屋に飾ってある。

 

 真ん中あたり、六歳頃の写真からポチスケが登場していた。音穏はポチスケに手を添えたまま、その写真を見つめて、過去を見るように遡った。

 

 ポチスケはと言うと、小さい頃から両親が共働きで寂しい思い常々抱えていた自分が、ある日勇気をもって「犬飼いたい」とおねだりすると、「大切な命だからね、分かってるね、ちゃんとお世話するんだよ」と言ってくれて、犬を飼うのを許可してくれた愛犬だ。ポチスケという名前は、自分が音穏という珍しい名前をしているから、逆にありふれた名前を付けたくて付けた、ような気がする。あの時の真相は定かではない。

 

 今思えば、常に子どもの側にいれないし、寂しい思いをするだろうから、ペットで親が帰ってくるまでの時間を楽しんでほしいという両親の願いもあるかもしれない。

 

 まあたしかにポチスケには小さい頃からずっと癒されてきたし、自分にとって長いおうち時間を豊かにしてくれた。

 

 だけど、ぶっちゃければ両親とあまり遊べない寂しさを代わりに埋めれるわけにはいかないだろう。いや、まあ頼んだのは自分だし、いいか別に。

 

「今日もかわいいな」

 

 音穏はポチスケの頭をもう一度撫でて言う。

 

 当然、両親はまだ家には帰ってきてない。もう少しで母親が先に帰ってくるところだろうか。

 

 母親はちょっと前まで中学校で音楽の先生をしていたが今は辞め、ドラッグストアの店員のパートを週五日でこなしている。

 

 父親は、業界ではそこそこ名知れたピアニストで、ピアノの先生もしているらしい。家族の中ではいつも最後に帰ってくる。

 

 音穏はキッチンに立って、母親が用意してくれていた夕飯を温めた。今日のおかずは肉じゃがだった。

 

 音穏は用意を済ませ、ダイニングに座り、夕飯をほうばった。じゃがいもがホクホクしてておいしかった。

 

 もう家族と毎日一緒に夕飯を食べたいなんて、何年も前から言わなくなった。今でも本当は、もっと家族と一緒にいたいけど、父さんと母さんは忙しいから仕方がないよねって、こんな言葉でつい片付けてしまう。

 

 だけど、母さんがパートになって帰る時間が教員時代よりも早くなって、家にいる時間が増えたことは、それだけで幸せだった。

 

 音穏はひとり黙々と夕飯を食べ進める。この時間は長くは続かなかった。

 

 丁度食べ終えたタイミングで扉の奥から鍵を開ける音と、「ただいま~」という声が聞こえた。母さんだ。

 

「遅くなってごめんね。あ、夕飯ありがとね」

 

「ううん、お疲れ様。あ、今母さんの分温めるよ」

 

「あいいよいいよ自分でやるから。学校疲れたでしょ、ゆっくり休んでてお母さん着替えてくるね」

 

 優しいけれど、自分だって疲れてるくせに、なんて思ってしまう。母さんは他人のことを自分よりも優先してしまう性格だから、自分がどんどん後回しになっちゃっいなかって、いつも心配になる。

 

 母さんが着替えて帰ってきて、夕飯の準備をキッチンに立ってやり始めた。音穏は隣で、自分が使った食器を洗い進める。

 

「さて、ご飯ご飯」

 

 母さんはにこやかに独り言を言う。

 

 すると突然、名前を呼ばれた。

 

「ねえ直也大丈夫?なんかあった?」

 

 まさか、なんで分かるんだ。やっぱり、いつも一緒に居れる時間が少ないと、息子の顔色の微妙な変化でも気づくものなのか。

 

 音穏は少しだけ動揺したが、すぐに慣れた。

 

「まあ、一応」

 

 母さんはゆっくりと頷いて、後ろのテーブルに移動した。そこに温まったご飯を並べながら、優しい言葉をかけてくれた。それだけで嬉しくて、なんだか自然に、強張っていた力が立ったまま抜けていった。

 

「友達がさ、サッカーやってるんだけど、大怪我しちゃって。最後の大会も、たぶんもう、間に合わないんだよね」

 

 母さんは、ハッと驚いた様子で頷く。

 

「さっき病院に運ばれたから、行ったの俺。だけど、」

 

 音穏は、息を飲む。震えた声で言う。

 

「何も、しゃべれなくて」

「その子と、話せなかったの?」

 

 母さんはお箸とお茶を入れたコップを手に持ちながら言う。

 

「そうじゃなくて、話せたんだけど、何て言うか、言葉が出てこなくなっちゃって」

 

 音穏は浮かんだ言葉を一旦出してから整理するように話し続けた。

 

「あの直也の姿を前にしたとき、直也の気持ちを考えたら、本当に何て言っていいのかわからくなっちゃって。

悔しいとか、悲しいとか、辛いとか、直也は今、どんな気持ちが強いんだろうってすごい考えたけど、そういうのを考えれば考えるほど、伝えたかった言葉が喉が詰まる感じがして。なんか、俺なんかじゃ、理解できるはずないよなって、勝手に落ち込んじゃって」

 

 音穏は悔しくなって、しゃがれた声で言う。

 

「そっか、その子もすごい、災難だったね」

 

 母さんは肉じゃがを静かに頬張りがら、同情するように言う。音穏が洗い物を終えて母さんの向かいに座ったのを見計らって、母さんはまた話し始める。

 

「まあ、生きてれば、予測できなことが起きるのは当たり前だからね」

 

「そうだよね、予測できないこと、か」

 

「そう、これからの社会、そういうことばっかだからよ

コロナだって、みんなだーれも予想してなかったでしょ」

 

「たしかに、そうかも」

 

 音穏は息のように静かに相づちを打つ。

 

「それに、無理に言葉で支えようとしなくても良いんだよ。言葉じゃなくたって、親友ならそばにいるだけで、それだけでいいの。そばにいるって、本当にすごいことなんだから」

 

 母さんは、棚の上に置いてある、小さい頃の家族写真を眺めて、強く言う。

 

「そばに、いること」

 

「そう、あと音穏は、優しいから。人のことでよく考えて、悩んだりしてるでしょうね」

 

「そうだけど」

 

 なんだか全て見透かされているようだった。

  

「じゃあ、大丈夫、人のこと考えられるなら大丈夫、大丈夫だよ。人のこと考えるって、愛がないとやってらんないもん。愛があると、どんな場面で可愛がってもらえるわよ」

 

 母はにこやかにそう言って、また食べ進めた。音穏は、考え事をして、また黙り込んでしまった。

 

「お風呂、入っちゃいなさい。今日、疲れたでしょ。ちゃんと湯船にも浸かるのよ」

 

「うん、ありがとう、それじゃあまた」

 

 母さんはうんっと頷いて、風呂に行く音穏を無送った。

 

 音穏は風呂から出て、寝るしたく支度も終えた。

 

 時間ができたから、合唱部の今月の課題曲の、楽譜に意識したいところなどを記しつける。

 

 区切りがついて、休憩しようと、ベッドに入っていった。いつもの寝る時間の3時間前なのに、ベッドにうつ伏せになるように寝っ転がった。電気をつけたまま、身体をひねって、うつ伏せを仰向けに変える。意外と電気の明かりは眩しくない。

 

 今頃、直也はどうしているだろうか。音穏は、今日のことを、頭の中で考えた。

 

 あのとき、直也になんて言えば良かったんだろうか。

直也は何て、言ってほしかったんだろう。衝動に駆られて病院まで駆けつけたけど、そもそもあのとき会いに行って良かったんだろうか。もしかしたら、直也はあの姿を見られたくなかったんじゃないのか。

 

――そばにいるだけでいい。

 

 母さんの言葉を思い出す。

 

「そばに、いるだけで、」

 

 音穏は、ゆっくりベッドから起き上がる。そして、机の上に置いてある、三歳頃の写真に目を向けた。自然と立ち上がって、その写真が入っている写真立てを優しく持つ。

 

 そういえば自分も小さいとき、親が仕事でなかなか一緒にいれる時間が少なくて、そばにいてほしいなんて言ってたことを思い出す。この写真はたしか、両親二人が揃って休日だった、限られた一日。父さんとキャッチボールしている写真。撮ったのは、母さん。

 

 音穏はその写真立てをそーっともとの位置に返す。そして思い付いたように携帯を取り出す。一回、浅く息を吸って、電話をかけた。コール音が、耳に鳴り響く。電話は繋がった。

 

「もしもし、直也。今、大丈夫?」


直也

 暗い外の景色も数時間で慣れてしまった。

 

 直也は病室内のベッドで飽きたように起きていた。

 

 すると、手元に置いてあった、携帯が鳴り出した。


 画面には音穏と書かれている。

 

 直也は携帯を耳に当てる。

 

《もしもし、直也。今、大丈夫?》

 

「うん、大丈夫だけど、どうしたの?」

 

《あのさ、もし直也が良かったら、ちょっと話したくて》

 

 音穏は、いつも通りの声としゃべり方で、話している。なんだか安心できた。

 

「うん、いいよ、話そ。ありがとね」 

《こちらこそ。あのさ、さっきのことなんだけど、》

「うん」

《俺急に会いに行っちゃってほんとに大丈夫だった?》

 

 すぐに返事はできなかった。だけど、音穏が続けて言ってくれた。

 

《もしかしたら直也、俺に見られるの嫌だったんじゃないかなって。俺はすごく心配で駆けつけちゃったけど、直也は、その、なんというか》

 

 音穏は傷つけないように、言葉を探しながら伝えてくれた。

 

《全治がわかって、包帯で巻かれている状態で、俺に会いたくはなかったんじゃないじゃなって。ごめん、全然まとまってなくて》

 

 だから答えたい。

 

「えっと、本音で、良いんだよね?」

 

《もちろん》

 

「音穏が来るって、姫奈から聞いたときは、そりゃあ、ビックリしたよ。だし、こんなボロボロの状態、親友に見られるのかって、ちょっと怖かった。最後の大会も間に合わないし、進路だって、一気に分かんなくなった。それを、この姿を見て知られるのは、なんというか。

夢を諦めた人みたいで」

 

 頑張って、今出てくる言葉を繋げた。

 

《そっか、そうだよね、ごめんね》

 

「ううん、でも、来てくれてすごい嬉しかったよ。すごい安心したし。だけど、やっぱり、音穏が近くにいると、安心しちゃって、なんでもかんでも言っちゃうからさ。音穏、話しずらかったよね」

 

《ううん、いや、うん、ちょっとね。何て言ってあげれば良いか分かんなくて、何て言ってほしいんだろって考えてるうちに、どんどん言葉が出てこなくなって。あでも、謝らないでね》

 

 先に言われてしまって、ちょっと笑けてきた。

 

「うん、そっか、そうだよね。色々気遣ってくれてありがと、嬉しいよ」

 

《ほんと、よかったー、不安だったから安心したよ》

 

「え、不安だったの?」

 

《そりゃそうだよ!直也のこと傷つけちゃってないかなって》

 

「傷ついてないよっ、音穏は優しいねぇほんと」

 

 ちょっとずつ、いつもの調子が戻ってきた。なんだか、音穏が微笑んでいるのを電話越しに感じられる。

 

《だって、優しくしてるからね》

 

 直也は息づかいて相づちを表した。この二人の空気が好きだ。

 

 音穏が再び会話を繋げる。

《ていうか、電話するの久しぶりだね。いつぶり?》

 

「さあ、いつだっけね。電話、してなさすぎて、分かんないなぁ」

 

《じゃあさ、今週いっぱい電話してあげるよ。退院するまで毎日》

 

「え、ほんとに言ってる?いいよ一週だから」

 

《ほんとだよ!寂しいじゃん!あ、でも無理に出なくて良いからね。一人になりたいときは、ちゃんと一人を守ってね。行けるときはお見舞いも行くからね!》

 

「え、ほんとに、嬉しいわ!」

 

《もちろん!じゃあ、そろそろ》

 

「うんっ、音穏と話してちょっと元気出た、ありがと!」

 

《良かった!じゃあ、おやすみっ》

「うん、おやすみ」


音穏

 直也と話せて、ホッとできた。やっぱり、いつもの元気はなくて、ずっと穏やかだった。それが逆に安心できて、スッキリした。

 

 音穏は、携帯を置いて、またベッドに入った。そして静かに灯りを消して、長い1日を終えた。


 一週間と祝日を挟んで、直也の入院は、無事に終わった。とは言っても、まだ今までの日常生活を送るにはほど遠いだろう。

 

 今日は直也が一週間ぶりに学校に登校する日だ。

 

 音穏は早めに学校に行き、直也の教室までをサポートしようと、玄関で待っていた。

 

 しばらくすると、直也は母親に車椅子を押されて登校してきた。車椅子の後ろには、松葉杖が刺さっている。直也と、直也のお母さんは玄関に入る。

 

「あ、直也!」

「音穏、待っててくれたんだ」

 

 直也はそう言いながら、車椅子から降りて松葉杖をついた。

 

「ありがとね、音穏くん。まだ、一人で移動したりするのがちょっと難しくて。もし直也が困ってたら、サポートしてくれるとすごい助かるわ」

 

「もちろんです、同じクラスなので結構一緒にいれます!」

 

「本当にありがとうね。それじゃあ、私はこの辺で。頑張ってね」

 

 直也のお母さんはその場を後にした。

 

「お気をつけて、じゃあ、俺らも行こっか。あ、荷物持つよ」

 

 音穏は強引に直也のリュックを奪った。

 

「あ、ごめん、ありがと」

 

「先生に言って、エレベーター使わせてもらお。ちょっと待ってて!」

 

 先に行こうとする音穏を、直也は慌てて止める。

 

「あ、いいよいいよ。階段くらいなら、歩ける。病院でも歩いてたしね」

 

 音穏は振り返りながらゆっくり頷く。

 

「そっか、じゃ、行こっか」

 

 音穏と直也は二人で歩き始めた。

 

 無事にクラスについた。直也が久しぶりに帰ってくると、皆嬉しさのあまり大歓迎してしまうから、直也が気まずくなってしまわないように、あえて特別なことはしないでなるべくいつも通りのテンションでいこうと仲間たちの間で決めていた。

 

 クラスに入ったら、あきのりやりょうたがゆっくりと、いつも通り駆けつけた。

 

「直也、久しぶり!」

 

 りょうたが先陣を切って声をかける。それに続くようにあきのりが「ノート、休んでた分、後で見せるよ」と、皆いつもの感じで声をかける。

 

「久しぶり、ありがと、助かる」

「うん、あ、座ろ座ろ」

 

 あきのりは椅子を引いて、直也を誘導する。

 

 直也は「悪いね」と言って、松葉杖を机の横にかけて、腰をゆっくりおろした。

 

「しっかし、最初聞いたときはビックリしたよ。それに心配だった。だけど、直也には音穏が付いてるから大丈夫だろって、俺らで話してたんだよな」

 

 りょうたは、途中であきのりの顔を見て言う。

 

「そうだね。音穏なら、直也のこと支えられるって」

 

 あきのりは、音穏の方に、微笑んだ目線を送る。

 

「支え、られてた?」

 

 音穏はちょっと笑いながら、直也の方を見た。

 

「もちろん、めっちゃ支えてくれたよ。毎日電話かけてくれたもんな」

 

「え、まじで!めっちゃアツアツやん!カップルみたい!」

 

「ちょ、やめてよ!恥ずかしいな!」

 

 音穏は照れ隠しにムキになって言う。

 

「いい仲間だね、二人とも」

 

 あきのりの言葉に、音穏と直也は目を合わせて、恥ずかしくなって、ニヤける。

 

「あ、そろそろ時間か、俺ら席もどるわ!また後で!」

「うん、またね」


 そして、何事もなく、無事に帰りのホームルームの時間になった。放課後を告げるチャイムが鳴り響く。

 

 りょうたとあきのりが、こちらの席に寄ってきた。

 

「じゃ、俺、帰るわ」

「俺らは、部活だね、音穏」

「うん、そうだね」

「じゃあ、皆また明日!直也も帰り、気を付けてな!」

「うん、ありがと」

「じゃっ」

 

 りょうたはみんなに軽く手を降り、教室を抜けていった。

 

「直也はこの後どうするの?部活、行く?」

 

 音穏は、少しだけ慎重に訊く。

 

「部活、行くよ。一週間休んじゃったから、できることやんないと」

 

 直也は微笑みつつも、真剣な眼差しを向けていた。

 

「そっか。あ、下まで一緒に行こうか?」

「いや、いいよ。部活のメンバーと一緒に行くから」

「分かった、じゃあ、俺らもそろそろ行くわ」

「うん、じゃあまた」

「またね」

 

 音穏とあきのりも、続けて教室を後にした。

 

 教室から少し距離ができたくらいの場所で、あきのりは言った。

 

「直也、最後の大会も間に合わないってくらい、大怪我したっていうから、精神的に大丈夫かなって心配してたんだけど、やっぱり音穏が近くにいれば安心だね」

 

「そうかな、そうだと良いんだけど」

 

「どうしたの、なんか不安なことでもあるの?」

 

 音穏は少しだけ顔をしかめる。

 

「いやなんか、直也の様子が、ちょっと変と言うか。前と違うっていうか」

 

 音穏は、直也の微妙な異変を感じとっていた。

 

「まあ、それは、あんなに大怪我して、大好きなサッカーがしばらくできなくなったんだから、前と違うのは、当たり前なことじゃない」

 

 音穏は間を溜めて、何かの勢いに任せて言葉を放った。

 

「ねえ、直也の手、よく見た?」


 あきのりはちょっとばかり顔を傾ける。

 

「え、手?あぁー、そういえば、ちょっと傷ついてたような。怪我したときに、擦りむいたんじゃない?」

 

「そうかもしれないんだけど、さっきね、直也と一緒トイレ行ったときに。めちゃめちゃ真剣に、手ゴシゴシ洗ってたんだよ」

 

 あきのりは少し目をボケーとさせて言う。

 

「あー、まあトイレで手洗うのは普通なんじゃない?」

 

「そうなんだけど、なんか、普通な感じじゃなくて。ちょっと様子が変というか。結構、真剣な顔してた」

 

 あきのりは少し目を尖らし、その場で立ち止まった。

 

「直也って、潔癖症だったりする?」

 

「いや、そういうイメージはあんまり無いけど。普通に色んなとこ触ってたし、全然本人からそういう話聞いたことなくて」

 

 あきのりは少し間考える。

 

「そっか、んー。分かんないけど、もしかしたら何かあるのかもね」

 

「そうなのかな」

 

 音穏はすごく不安になって、息混じりの声を出す。

 

「もし、また直也になんかあっても、音穏がいるから、大丈夫だよ」

 

 その言葉に、上手に頷くことができなかった。

 

「あ、でも、音穏も一人で抱えすぎないでね。音穏が抱えきれないときは、俺とかりょうたに頼って」

 

 音穏はほんの少し口角を上げ、嬉しさを確かめるように、小刻みに頷いた。

 

「うん、ありがとう」

「じゃ、行こ」

 

 二人はまた、ゆっくり歩き出した。

 

 気のせいかもしれないが、なんだか今日のあきのりは少し元気がないような、いつもと比較すれば淡白な感じがした。それでもあきのりは優しいだけれど。

 

 音穏とあきのりは音楽室に付いた。先に、後輩のはやとが自分たちの席に座って、待っててくれた。

 

「あ、音穏さん、あきのりさん、こっち!」 

「あ、はやとありがとね」 

「まあ今日パート練なので、すぐ移動しちゃうけど」 

「あ、そっか、今日パート練か。忘れてた」

「音穏さんちゃんと把握しておかないとー」

 

 はやとが笑いながらツッコンでくる。

 

「ごめんごめん、直也のことで、いっぱいいっぱいになっちゃってた」

 

 はやとは不安げな顔を音穏の寄せる。

 

「直也先輩、大丈夫なんですか?その、メンタル面というか」

 

「まあ、直也もなんとか踏ん張ってる感じなのかな、ノーダメージなわけないしね」

 

「そうですよね、」

 

 はやとは少し寂しそうな顔をして言った。

 

 そんなことを話していると、顧問の岩永先生が教室に入ってきた。

 

「起立、例。お願いします」

 

「はい、お願いします。では、今日もさっそく、パート練習なので、それぞれで練習してください。個人個人でも、誰かと練習しても、自由だから、皆しっかりやるように。終わりの時間になったら、もう一度ここに集まってください。じゃあ、解散」

 

 先生の合図で、皆それぞれでバラけていった。

 

「じゃあ、俺らも行こうか」

 

 三人は譜面台を持って、空いている二の二の教室に向かった。

 

「よし、じゃあやりますかー。て、音穏さん、気になる気持ちも分かるけど、外ばっか見てないで」

 

 音穏はグッと力を入れて、言う。

 

「ごめん。よし、やろ」

 

「じゃあ、一旦発声練習からやろうか。みんな、準備できてる?」

 

 あきのりの声で三人は一気に、部活モードになった。

 

 音穏も、真剣に練習を開始した。

 

 練習は順調に進んで、段々と終わりの時間に近づいてきた。辺りはだいぶ日が落ちてきた。

 

「あ、もうこんな時間か。そろそろですかね、二人とも」

 

「そうだね、もうすぐ片付けだね。あきのりもそろそろ」

 

 音穏がそう言ってあきのりの方を向くと、あきのりは静かに、窓の外を見つめていた。

 

 当然ちょっと心配になって、音穏はゆっくりと近づく。名前を呼んだが返事がないので、もう一度デカイ声で言ってみる。

 

「あきのり!」

 

 あきのりはその声で驚いた様子を見せる。

 

「うわぁ!ビックリした!なんだよ」

「なんだよじゃないよ。ほら、片付け」

「ああ、そっかそっか、ごめん」

 

 あきのりは、何だか力無さそうに答える。やっぱり、何かかあったのだろうか。

 

「あきのり、大丈夫?」

 

 心配になって、音穏は声をかける。はやともそれを遠目から見ている。

 

「うん、大丈夫。ごめん、ちょっと疲れてるみたいで」

 

 あきのりの微笑みは、いつものような暖かさはなく、頑張って作っているものだとすぐに分かった。

 

 音穏はそっとあきのりの隣に立つ。

 

「俺でよかったら話、聞くよ」

 

 あきのりはスッと微笑む。

 

「ごめん、ありがとう、でも大丈夫だから」

 

「さっき俺に、何かあったら頼ってって、言ってくれたじゃん」

 

 あきのりは、同じように微笑む。

 

「そうだよね、それじゃあお言葉に甘えて」

 

 音穏とはやとは、耳を澄ませた。

 

「実は、その、父さんが、アルコール中毒なっちゃってて」

 

 あきのりは、寂しくてやるせないような表情でしゃべり始める。

 

「父さん、会社で出世してから、責任者の重圧とストレスで日に日にお酒飲む量増えちゃってて。気づいたときみはもう、お酒飲まないとやってらんなくなっちゃってて」

 

 音穏とはやとは、神妙そうに話を聞く。

 

「それで、俺も母さんも心配で。もうそろそやめなよっていつも注意してるんだけど、やっぱり、ヒドイこと言われちゃったりして」

 

 しっかりと相づちを打つ。ちゃんと寄り添えるように。

 

「前まですっごい穏やかで、優しかったのに、急に変わっちゃって。父さんも"直したいけど直せない、俺はもう壊れちゃったから"って、それ聞いてすっごい苦しくて」

 

 あきのりは目に込み上げてくるものを、グッと押さえる。

 

「そっか、そうだったんだ。話してくれて、ありがとうね」

 

「ううん、こちらこそ。ずっと隠してたわけじゃないんだけど、なんか、言う勇気中々出なくて。言えてスッキリした」

 

 音穏は頷いて「よかった」と返事をした。「もしも何かあったら言ってね」と、いつも優しい言葉をかくれるあきのりでも、自らの悩みを仲間に共有する勇気は中々持てないものなのか。そうふと疑問に思った。

 

 やはり他者からの視点から見れば、「何かあったら言ってね」という言葉がが、悩んでいる当事者を最大限に配慮した言葉になるかもしれない。けれども、当事者の心はそう簡単に行くものじゃないだろう。やっぱり、その人の悩みは、その人にならない限り分からないものなのか。

 

 音穏は、あきのりにかける言葉が見当たらなかった。あきのりの思いに寄り添う言葉は、どんなものなのか。今、そんな言葉が必要なのに、その言葉を身体のどこに閉まっているかを思い出せない。

 

 そうしていたら、少し後ろから聞いていたはやとが声をあげた。

 

「壊れちゃいけないなんて、そんなことはありません。壊れたらダメって誰が決めたんですか?別に壊れていたって、良いじゃないですか。どんなに変わっても、その人はその人なんだから」

 

 はやとは、いつもと違う強い口調で言った。

 

「すいません、急にこんなこと言っちゃって。あきのりさんも、あきのりさんのお父さんも、とても苦しい思いをしていると思います。だから、赤の他人の僕が言わせてください。生きてる上で変わっちゃいけなんてルールはありせん」

 

 はやとは、これでもかというくらいはっきり言い切る。

 

 あきのりの目には少量涙が浮かんでいた。

 

「そうだよね、そうだよな。ありがとう」

 

 はやとは微笑む。その目線の先で、あきのりは微笑みながら鼻をすすっている。

 

 音穏はそーっと、あきのりの背中の手を当てて、ゆっくりと撫でた。

 

 はやとの言葉に、音穏も感銘を受けた。たしかに、壊れていけないなんてことはない。また新しい発見を得ることができた。

 

 けれども、自分も今のはやとみたいに、その人の救いになる言葉が言えたら、なんてことを思ってしまう。

 

 音穏はそっと、外の景色を見る。目線の先には、ベンチに一人座っている直也の背中があった。こうやって直也の背中をさすれれば、直也の気持ちは何か少しでも変わるのだろうか。

 

 果たして、何が自分のできることなのだろう。

 

 部活が終わって、音穏は真っ先にサッカー部のところへ向かった。けれども、どうやら合唱部がミーティングをしている間に、サッカー部はもう終わってしまったみたいで、グラウンドにはもう誰も居なかった。

 

「もう帰っちゃったか」

 

 そうつぶやくと、玄関口の方から直也の声がした。

 

「音穏!」

 

「あ、直也!あれ、中にいたの?」

 

「音穏たちよりも早く終わったから、合唱部行こうと思って。でも、階段違ったみたいだから、すれ違わなかったね」

 

 自分と同じで、ちょっと笑ってしまった。

 

「そうなの?てか、怪我人なんだから、そんな動かなくていいって!」

 

「いや、これくらい動けるし!それに、松葉杖の練習」

 

 直也は笑顔を見せてくれた。安心した。

 

「へー?あ、お母さん迎えにきてくれるの?」 

「そうだよ、もうすぐ来てくれる」 

「そっか!」

 音穏はなんだか嬉しくて笑った。

 

「じゃあ俺そろそろだから。あ、後で電話していい?」

「いいよ、話そ」

 

 直也はそっと頷いて答えた。なぜか、なぜだろうか。不本意かもしれないが、直也の目が何かを悟っているようにしか見えなかった。特に理由はないけれど。

 

 音穏は、優しく微笑んで言った。

 

「じゃあ、またね」

「うん、またね」

 

 音穏が先に行って、直也がそれを見送って、二人その場で別れた。

 

 

 十時頃、音穏は、約束通り直也に、電話をかけようとした。机に置いておいた、携帯を手に取る。直也のLINEのトプ画を開いて、コールをかえた。けれども、直也は電話に出なかった。

 

「あれ、出ない」

 

 いつもこの時間に電話をかけたら、だいたい出てくれるから珍しいと思った。また気づいたら折り返しが来るだろうと思って、一旦放置する。

 

 音穏は机に置いてあった、読みかけの本を手にとって、しおりが挟んであるページからしおりを抜いて、続きを読もうと目を流した。すると、すぐに携帯からLINEの通知音が鳴った。待受画面を開いたら直也だった。タップしてみる。

 

《ごめん》

《今日電話できなそう》

 

 音穏は息が一瞬だけ止まって、すぐに何事もなかったかのように呼吸が再開された。そう、何もなかったと思い込んだままで、一人微笑んでスマホの画面をタップし始めてしまった。

 

「おっけー」

「おやすみ」

 

 音穏は再び読みかけの本に手をつけたが、妙に気持ちが落ち着かなくて、仕方なくベッドに入った。


 しかし、眠りに入れたのは数時間後だった。

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