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高校一年 六月

高校一年 六月

音穏

 ひとつきが経って、合唱部のコンクールの日がやってきた。朝、もうすぐ仕事に出掛けそうな母さんと、愛犬のポチスケに「行ってくるね」と言って、自転車を漕いで、駅へとへと向かった。

 

 駅から歩き、会場へと到着した。

 

 中へ入ると、集合場所のロビーにあきのりやいつもの合唱部のメンバーが、もう結構揃っていた。

 

「あ、音穏!おはよー」 

「おはよーみんな早いね」


 あきのりが出迎えてくれた。

 

「気合い入ってるからね。あ、今日午後から結構雨降るみたいだよ」

 

「え、そうなの!?やば、駅まで自転車で来ちゃったよ」

 

「ちゃんと天気予報見ないからだよ、カッパ買って帰りな」

 

「そうするしかないかー、あれ、まだ春は来てないの?」

 

「そういえばまだ来てないね。でも、まだ集合まで時間あるし、そのうち来るんじゃない?」


 音穏は一瞬だけ息を止めて、何もなかったように微笑んで頷いた。

  

 あきのりと話していると、楽屋から戻ってきた部長が声を上げた。

 

「みんなー!まだ集合の時間じゃないんだけど、開始までまだ時間あるから、先生が楽屋で音合わせしよって!まだ来てない人には楽屋まで来るように、LINEお願いね!」

 

 その声で、皆がゾロゾロと楽屋へ向かった。


 あきのりも先に進もうとする。

 

「じゃあ、俺らも行くか」

「まって、春にLINEするから」

 

 音穏はポケットから携帯を取り出して、春のLINEのトークに「集合楽屋だって」と打って、その後に「!」を後付けして送信した。

 

「よし、行こ」

 

 音穏とあきのりは、楽屋へ向かった。

 

 楽屋では同じパートの人同士で音合わせをしたり、岩永先生指導の発声練習をしたりしていた。だけど、その最中もずっと音穏は、春のことが気がかりで仕方がなかった。

  

「ねえあきのり、春遅くない?」

 

 いつまで経っても春が来ないことに、不安を隠せない。

 

「たしかに、集合時間もう過ぎてるよね。遅刻なんて滅多にしないのに」

 

「先生、春から休みとか、遅刻の連絡来てないですか」

 音穏は心配そうに訊ねる。

 

「あれ、私の所に連絡来てないね、どうしたんだろ。

ちょっと待ってね、他の先生が知ってるかもしれないから確認してみる。みんなー!先生ちょっと抜けるから、各自で練習してて!」

 

 先生はすぐにどこかへ向かった。

 

「春、どうしたんだろ」

 

 音穏は自分のロッカーを開いて、携帯を掴んで引っ張った。

 

 LINEを開く。


 未読のままだった。


 トーク画面は、昨日の会話で止まっている。

 

「返事ないの?」

「うん、返事来ないね。電話かけてみる」

 

 コールをかける。

 

「ダメだ、繋がらない」

「自転車乗ってるとかで、出れないかもしれないね」

「一応、DMでも連絡してみる」

 

 音穏はインスタのダイレクトメッセージを開いて、「大丈夫?」と、送信した。

 

「何もないと良いんだけれど」

 

 音穏は不安そうに言う。

 

「とりあえず、何か連絡入るまで練習してよ。今はそれしかできないよ」

 

「うん、そうだね」

 

 音穏は携帯を、ロッカーに戻すように置いた。

 

 思いを裏切るように時刻は着々と進んでいった。


 音穏の心は、壁掛けてある時計の針が微かに動き続けることに比例して、視界の薄暗さを帯びていった。

 

 先生がようやく帰ってきた。

 

「やっぱり連絡来てないみたい。春の携帯にも、お家にも連絡したんだけど、繋がらなくて」

 

「そうですか、俺も連絡してみたんですけど、やっぱりダメで」

 

「もう本番まであと少しだし、今日は間に合わなそう。仕方ないけど、本部に春の欠場を連絡しないと」

 

 岩永先生は、寂しげ雰囲気を出しながらも、覚悟を決めた表情でこちらを見た。

 

「先生、ちょっとおうち行ってみる。誰かいるか分からないけど、念のため。生徒が連絡も付かずどっかいってしまった状態で、じっとなんてしてられないからね。あ、指揮は急遽、磯山先生にお願いしたの」


 音穏はそれに強く頷く。

 

「分かりました、もし何か分かったら、連絡ください」

 

 先生も真剣な眼差しで頷く。

 

「皆ちょっと聞いて。今、春と、春のお母さんにも連絡が付かなくて、どこにいるかが分からないので、今抜けてお家まで行ってきます。急ごめんね。指揮は練習でいつもお世話になっている、外部コーチ磯の山さんに急遽やってもらうことになりました。この曲の練習でも、何度か指揮を皆と合わせたと思うし、磯山先生なら信頼して任せられるので。コンクール、緊張すると思うけど、いつも通り、自分たちを信じて頑張ってね。じゃ、行ってくるね」

 

 先生は会場を後にした。

 

「本当にどうしたんだろう、春、」

 

 過剰に下がった声で音穏が言う。

 

「きっと、大丈夫だよ、気づいたら、いつも通り笑って来るよ」

 

 あきのりの言葉は、どうしても強がっているようにしか聞こえなかった。それでも音穏は、信じるように頷いた。

 

 コンクール開始の時間になった。

 

 このコンクールは県の南部の大会で、七校が出場している。音穏の学校は三番目の発表だ。

 

 出番が来た。音穏たちはステージに上がり、歌う姿勢に入った。本来、春が立つ場所は、構成のため詰められて並んでいる。

 

 音穏は不安を宿したまま、切り替えて、歌に集中した。


 

 そして、やっとの思いで歌いきった。

 

 合唱部は退場し、ゾロゾロと楽屋へ戻っていく。

 

 皆戻ってきたら、各々しゃべったり、携帯を見たりとと、最後の結果発表まで自由に過ごそうとしていた。

 

 音穏も水筒をカバンから取り出し、いつもより乾いた喉に水分を流し込む。耳鳴りがひどいのは、一体誰のせいだろうか。

 

 そんなことまで思っていたら、音穏の携帯が無造作に鳴った。岩永先生からコールだった。すぐに携帯を取る。

 

「もしもし、先生、何か分かりましたか」

 

 音穏がいつもより熱がこもった声で訊く。なのに、先生の応答がなかった。しばらく、先生の、まるでフルマラソンを走りきったよう乱れたな呼吸音と、打ち付ける雨と、水を掻くように走る車の音がよく聞こえなかった。

 

「もしもし、聞こえてますか先生」

 

 音穏は、重ねるように訊い続ける。すると、先生は声帯を細めたような、小さくてよく通らない声で、応答してきた。

 

「ごめんね……聞こえてるよ。あのさ、音穏、よく聞いてね…落ち着いて」

 

 音穏は電話越しなのに、ゴクンと頷く。

 

「さっき、春のおうち向かってる途中に、春のお母さんから折り返しの電話があったの、そうしたら…」

 

 先生が、深く息を吸う。そのまま飲み込まないように、グッと溜めているような、間が生まれる。

 

 先生は、吸った息を添えて、乱暴にならないように言葉を吐いた。

 

「今朝、春が交通事故で亡くなったって……」

「え、………」

 

 音穏は、漠然と立ち尽くした。呼吸をどこかに忘れたように、一瞬して張り裂ける思いが込み上げてくる。

 

「家から自転車に乗って、会場に向かう途中に、トラックと衝突したんだって、それですぐに病院に搬送されたんだけど……さっき、死亡が確認されたって、」

 

 音穏は言葉が止まった。しばらく、なんも分かんなかった。

 

 だから、ただ、床に足をつけて、息をした。記憶があまり鮮明でない。

 

 すぐに返事ができなかったことだけが、確かである。

 

「それで今、春がいる、病院に向かっているの。春のご両親もそこにいらっしゃるみたいだから、会場には戻れないけど」

 

「先生、どこの病院ですか」

 

 音穏は、先生の声を遮って、強い声で言う。

 

 先生は応答してくれない。

 

「先生……どこですか……先生!!先生!!!」

 

 音穏は答えてくれない先生を叱るように強い言葉を放った。

 

 先生は、病院の名前を言ってくれた。

 

「でも……!音穏!……ちょ、」

 

 音穏は何も言わず、通話を落とした。

 

 ロッカーを勢いよく開け、必要最低限のものだけバッグから取り出し、ポケットに突っ込んだ。

 

 そして、何もも考えずに、走り出した。

 

「おい音穏!どうしたんだよ!」

 

 急かす音穏にあきのりが言う。どうでもいい。

 

 音穏はすぐに楽屋を飛び出していった。あっという間にロビーも抜け、出入口の扉も越えた。

 

 外は予報よりも早く、雨が降っている。

 

 その中で音穏は、傘もささず、ずぶ濡れになるようにして、駅まで向かった。

 

 強く打ち付ける雨が、段々と体に染み込んでくる。

 

 けれど、音穏は絶対に止まらなかった。もう、何がなんだか、分からない。けど、走るしかない。

 

 音穏は、無我夢中で走る。不格好な走り方だけど、もうそんなのどうでもよかった。

 

 次第に、靴の中が、ビチャビチャと、気持ち悪い、冷たい感覚になってくる。

 

 走る。走り続ける。段々と、身体の呼吸音と心拍数が乱れてゆく。息をするのが苦しくなってきた。でも息を吸うのを絶対にやめなかった。


 絶対にやめてはいけなかった。


 

~現役~

「ちゃんと走るのは、かなり久しぶりだったんですけど、それなのに走れたんです。雨の中で」

 

 音穏は、微笑んで話すことができた。

 

「本当に無我夢中でひたすら走った記憶しか、残ってないです。何が起きてるのか、今自分は何をするべきなのか。そんなことはどうだって良かった。ただ、走りたかった。走るしかなかった。どんなに速く走ったとしても、どんなに転んで時間をロスしても、事実なんて変わらないのに」

 

 音穏は静かに話を続けた。

 

「でも、変わらない事実があったとしても、少しでも現実に抗いたくて。春のそばに行ったら、何かが変わるかもしれないって。悪い夢から覚めるんじゃないかって。嘘なら嘘でも良いから、心配かけてごめんねって、言ってほしくて」

 

 音穏は深くソファに座って、沈むように言った。こぶしが熱くなるように、強く握りしめる。

 

「まあ、そんなこと当時は、考える暇もなかったですけそね。全部、今思えばの話になってしまいました」

 

 江坂先生の方をみて、ちょっと冗談交じりにして言う。

 

 江坂先生は、ちゃんと笑ったくれた。

 

 音穏はその返事が嬉しくて、スッと微笑む。

 

「話の続きなんですけど、俺はその後、無事に春のいる病院に着いたんです。初めて行く病院だったし、あんなに大型病院だったのに、名前なんて覚えてない面なんですけど」

 

~音穏~

 音穏は遂に、病院までたどり着いた。雨は少しずつ弱まっている気がする。


 屋根のある、入り口前にくぐるようにして入った。一旦、冷静になれないけれど、冷静になりたくて、持っていたハンカチをポケットから取り出し、頭と体を雑に拭いた。

 

 深呼吸を繰り返して、冷たい体と、火傷しそうな心の体温を調節する。

 

 そして、病院内に入る。

 

 すると入り口のすぐそばに、岩永先生が待っていてくれた。

 

「先生」

「音穏」

 

 音穏は受け付けを済ませ、人通りの少ない廊下まで行って、二人で椅子に腰かけた。

 

 体が濡れているのを気遣って、病院の人がバスタオルをくれた。タオルで頭を、さっきよりは柔く拭けた。

 

「今、医師の方が、ご遺体の状態を見てくれているみたい。春のお母さんは、資料の手続きとかしてる。お父さんは、海外に出張に行っちゃってて、今日は帰ってこれないんだって。私たちはここで、お母さんが来るの、待ってよ」

 

 音穏は少しだけ首を傾けて、頷いているように見せた。

 

「春ね、自転車で駅に向かってる途中、小さい女の子が交差点で、車に引かれそうになってるところを、助けにいったんだって」

 

 先生は、いつも二人だけで話すときの穏やかな声で、ゆっくりと話す。音穏は顔を上げる。「そう……なんですか。なんか、いや」今、言っていいのかわかなくて、一応口を止める。

 

「ん?」

「いや……なんか、」

 

 音穏は、途切れ途切れにそうな言葉を繋げたままがんばって言う。

 

「今日交通事故で搬送されて亡くなったの、ちゃんと春なんだなって……なんか、動機が、春で……それが何よりも、根拠なんです」

 

 泣くような声で言う。

 

 先生は一度下に目をそらして、頑張って、微笑んでいるような、笑顔を作ってくれた。

 

「春だね、間違いなく、あのこだね」 

「……はい」

 

 まだ立ち上がることができない、音穏が言う。

 

 気づいたら、都合よく外は、雨がやんでいた。太陽が少しずつ、街中をかざし出し始める。

 

 こちらにも光が差し込んでくる。外の水溜まりのせいか、ちょっとだけ、眩しくなる。目は元から眩んでいるけれど、まだ、泣けなかった。

 

 しばらくして、やっと足が疲れて、ふくらはぎが張っているのに気がついた。ふくらはぎを、揉むようにして触る。フワフワ浮いてたのが、地に足がついた感じした。正しい呼吸法を習得したみたいだった。

 

 でも、正常な言葉が戻ってくることはまだなかった。

 

 まだしばらく、伝えたいことが上手く伝えられない。まるで子どもみたいだろう。もう十六歳なのに。

 

 岩永先生と音穏は、ずっと、座り込んでいた。

 

 結構な時間が立ち、外の日が沈み始めた頃、春のお母さんが手続きを終えて、こちらにやって来た。

 

 春のお母さんは二人の顔を見てハッと、表現を上げ、深く礼をする。

 

「この度は春がご迷惑とご心配をおかけして、申し訳ありません。色々と、ありがとうございます」

 

 再び春のお母さんは礼を繰り返す。岩永先生と音穏は何も言えなくて、先生だけがただ「いえいえ」と、相づちに言葉を添えるだけだった。

 

「葬儀は後日、身内の親戚だけで執り行おうと思っています」


 二人は相づちの言葉を唱える。

  

「そして、君は音穏君、だよね?」

「……あ、はい」

 

 春のお母さんは一歩近づいて、優しい目を向けてた。

 

「春と仲良くしてくれて、本当にありがとうね。春、合唱こととか、あなたのことをよく私に話してくれてね、すっごい、キラキラした目をして言ってくれるのいつも」

 

 春のお母さんは、目にほんのり涙を浮かべながら、少し微笑んで、ちょっと前のことを覚い出しながら、伝えてくれる。

 

「そうなんですか、それは、良かったです、」


 心ない声で、言ってしまった。

 

「じゃあ私、そろそろ。今日は春のために、本当にありがとうございました。そして、本当に今までお世話になりました。それではまた、ご連絡しますね」

 

 春のお母さんは、それだけ言って、その場を後にした。

 

 岩永先生は深く、音穏は深くには沈めなかったけれど、お辞儀をして、春のお母さんを見送った。

 

 お世話になりましたなんて言われて、なんも言えなかった。本当に、春がいなくなってしまったみたいに聞こえるから。お世話になんて、こっちこそが。

 

 音穏は身体を少し傾けたまま、涙が出ててくるのを、必死に堪えた。指で目をなぞって水滴を拭いたら、もろ泣いている人だし、そもそも泣くって、認めちゃってるというか、認めなきゃいけないんだめだけど。

 

「音穏」

 

 先生が、少し震えた、でも、温かい声をかけてくれる。先生の鼻をすする音が聞えてきた。

 

「受け止めきれないものは、無理に背負わなくてもいいんだよ。泣きたいときは、たくさん、泣いていいんだよ」

 

 涙が、頬に縦の放物線を描いて、流れ落ちてくる。先生の言葉にやられて、体勢を崩したから、次第に涙がボロボロと落ちて、床で弾けた。しばらく、それしかできなかった。背中に人の温もりを感じながら、崩れるように、床に膝を置いて、思うがままに整理できない心をさらけ出した。胸が火傷しそうなくらい、苦しかった。

 

音穏

 あれから、二週間が経った。学校は、春がいたときのように、いつも通り回っている。

 

 今日はお昼終わり短縮授業で、音穏は前にあきのりに教えてもらった、学校の近くにあるうどん屋でうどんを食べて、電車に乗って、春のお家へと向かった。

 

 春の最寄り駅の改札を出て、来たことのないコンクリートと緑の街町を、縫うようにして歩いた。

 

 そして、ちょっと迷いながらも春の家の前までやって来れた。お家は木造とても大きな家で、緑が広がる庭も広い。立派な家お家だ。インターフォンを押す。

 

 すると、すぐに扉から、春のお母さんが出てきた。

 

「音穏くん、いらっしゃい」

「お邪魔します」

 

 中に入ると、見えるところに仏壇が備えてあった。

 

 音穏は仏壇にお線香を灯して、りんを鳴らした。

 

「さあ、こっちに座って」

 

 春のお母さんはダイニングテーブルに温かいお茶をだしてくれた。

 

「急に呼び出しちゃってごめんね、わざわざありがとうね」

 

「いえいえ、いつかお伺いしたかったので」

 

 春のお母さんは微笑んで答えてくれる。

 

「音穏君に、娘のお礼を伝えたくて。まずは、春と仲良くしてくれて本当にありがとう」

 

「そんな、こちらこそです」

 

 春のお母さんは優しく微笑んで、話し始める。

 

「私、すっごく嬉しかったの。いつも学校から帰ってくると、『部活でこんなことがあったんだー!』とか、それこそ、音穏君の話とか、もうにかく楽しそうだったの。それは音穏君や合唱部の仲間たちと、先生方たちに本当に恵まれたからだと思う。春の話を聞いていただけだけど、こんなに良い人に囲まれていた春は、最後まで幸せだったと思う。だから、本当に感謝しているの」

 

「そうですか、嬉しい気持ちでいっぱいです」

 

 音穏は一旦間を作って、心細い声で話し始める。

 

「実は、自分こそ春にすごく感謝しているんです。教室でただ一人、休み時間に楽譜をいじるだけだった自分に、声をかけてくれた。そして、春が目標になって、音楽を続けることができた。音楽で夢をもう一回持つことができたんです。だから春には本当に感謝しているんっです」

 

 春のお母さん嬉しそうに笑う。

 

「そっかそっか、春のことそんな風に思っててくれたんだ。なんだかお母さんも嬉しいっ」

 

 終始にこやかに言ってくれた。

 

「あ、そうだ。実は、渡したいものがあるの、あ、ちょっと待ってて」

 

 そう言って、春のお母さんは見えないところに行ってしまった。

 

 少しすると、白いガーゼのようなものを抱えて、戻ってきた。

 

「これ」と言って、ガーゼをめくる。

 

 中から、赤い音符のキーホルダーが出てきた。あの時の、春との約束。

 

「あ、これ、」音穏は声を漏らす。

 

「これ、春がスクールバッグに付けてた、お気に入りのキーホルダーなの。いつも子どもみたいにね、『このキーホルダーかわいいでしょー!』って嬉しそうに言ってた。それで気になって訊いたら、『音穏との約束なの!』って、もっと強い笑顔で返してくれて。お母さんも、すごく嬉しかったの。お揃い、だったんだね」

 

 春のお母さんは、赤い音符と、音穏のバッグについた黒い音符を、愛でるように見つめ、微笑んだ。

 

「これ、警察の方から返してもらったの。あの時も、付けてたからね。でも、奇跡的に傷一つ付かなかったみたいで、良かった」

 

 音穏はそのまま、見つめ続けた。

 

 なんだか、春との思い出が、ちゃんと存在したことが、一気に鮮明になって行く気がした。

 

 そして、緊張が解れるように、フッと力が抜けて言った。

 

「汚れるわけ、ないですよね、俺らの約束」

「そうね」

 

 春のお母さんは音穏の、緊張した筋肉がほぐれて、自然と明るくなった表情を見つめた。

 

「これ、もらってもいいわよ。音穏君がいいなら」

 

「え、良いんですか。春の大事なものだから、家族の皆さんが持っていた方が」

 

「大事なものだからこそ、音穏君に持っていてほしいの。それに、音穏君との、約束のものだから」

 

 音穏はしっかりと噛み締めるように頷いた。

 

「そうですか、じゃあ、頂いていきます」

 

 春のお母さんは「うんっ」と、頷いてくれた。

 

「俺、この後部活があって、そろそろ戻んなきゃいけないんです」

 

「あ、そっかそっか。玄関まで送るね」

 

 音穏と春の母は玄関まで付く。

 

「忙しいのにごめんね」

 

「いえいえ。今日は本当にありがとうございました。何だか、背負ってた気持ちが楽になったというか、少し前を向けた気がします」

 

「そう、それは良かった」

 

 音穏は最後に、溢れでる思いを噛みしめるように言った。

 

「春は、最後まで、幸せそうに歌い続けていました。だから、俺も。最後まで、幸せすぎるくらい歌い続けます」

 

 音穏はもう来ることのないだろうこのお家にお礼をした。

 

「うん頑張ってね」

「はい、頑張ります。それでは」

 

 春のお母さんはまた、口角を上げる。

 

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

 音穏は来た道をまた戻って、学校に帰った。本当は、部活の活動があるわけではない。岩永先生に頼んで、マンツーマンで歌を教えてもらうのだ。

 

 学校に着いた。外はまだ明るい。今日は動きが多いから、すでにいつもの倍くらい、濃くて長い気がする。

 

「音楽室で待っている」と伝えられているから、岩永先生はもうすでに音楽室でピアノでも弾いていられることだろう。

 

 音穏は音楽室までの階段を、ゆっくり上がっていった。近づくごとに、ピアノの綺麗な音色が強くなる。

 

 音源の音楽室を入ると、やはり岩永先生がピアノを弾いていた。そこに音穏は、いつも通りスタスタとした足取りで向かう。

 

「お、音穏。おかえり」

「ただいまです、先生」

 

 音穏は並べてある机と椅子のなかで、ピアノの鍵盤の真正面をチョイスし、椅子に腰かけた。

 

「で、どうだったの?」

 

 先生がピアノの演奏を止めてこちら訊う。

 

「春のお母さん、とても優しい人でした。なんだか、こちらまで元気をくれるような、明るい人で。でも、最初からずっと話を真剣聞いていてくれました」

 

「やっぱり、春のお母さんだもん。春の性格に結構近いとこいっぱいありそうだね」

 

 先生がちょっと口角を上げて言った。

 

「そうですね、でも、やっぱり寂しいです。急に居なくなるなんて、嘘みたいで」

 

 音穏は、机に目を向けて、それでも微笑んで言う。

 

 そうしていたら、先生の声が聞こえてきた。

 

「人間はなんて、儚くて、もろいものなんだろうね。皆いつか死ぬって決まってるのに、明日も居るって、思い込んじゃうからね。私も、すごい寂しいよ」

 

 音穏はうつむいたまま、小刻みに頷く。そして、そのままで、静かに話し始めた。

 

「俺、小さいころからアーティストになるのが夢だったんです。父親と母親に、自分の歌を褒めてもらえたことが嬉しくて。それでアーティストっていうのが夢だったんです。だけど、現実はそんなに甘くなくて。小、中世代のミュージカルの習い事にも行ってたんですけど、自分よりも上手いって思う人ばっかで。技術とかじゃなくて、もう才能なのか、確実にアーティストとしての魅力が格段に上だったんです。だから、ずっと夢を追う足が重かったんです」

 

 岩永先生は、本音をさらけ出す音穏の話を見守るように聞き入った。

 

「だけど、春と出会って、それがものすごく刺激になったんです。春は音楽がそばに居なきゃいけないくらい、音楽と一緒に生きていました。そして、夢を追っている今の道中を、誰にも負けないくらい楽しんでいた。なんか、春といると、夢を語るのがすっごく美しく見えて、嬉しかった。現実問題とか、そういう色々なもんは一旦置いといて、夢ってもっとキラキラしてていいんじゃない?だって、夢には重さがないから。って、今でも春は言うと思います。そんな春が俺の目標だった」

 

 今すぐにでも後ろからトントンと肩を叩かれそうな、鮮明な思い出を、音穏は落ち着いた声で、振り返らずに言い続けた。

 

「春にはちゃんと言ったことなかったんですけどね。実は俺、今でもプロのアーティストが夢なんです。聴いている人の心に届くような、勇気を貰えるような、そんな人になりたい。本当はそう思ってるんです。だけど、」

 

 音穏は、再び首を下に傾けた。

 

「自分の夢を笑われてしまったトラウマがあったり、あの時、素直に春の夢を応援できなかった自分がいたり。やっぱり、自分にとっては、夢を追うって、そんな簡単なことじゃなくて」

 

 音穏は頑張って笑って、自分の気持ちをちょっと無理して、上げようとする。

 

 先生は、まだ微笑んでくれている。

 

「無理はしなくていいんだよ。夢は自由なんでしょ?

例え形を変えたとしても、そのまま持っていたとしても、夢は夢、だよ」

 

 急にこみ上げてくる思いが、目に浮かんできた。身体に抵抗するように、心は耐える。けれどもこぼれる思いは止まらなかった。

 

「……はい、ありがとうございます、!」

 

 先生は、うんっと強く頷いて、応援してくれた。

 

 音穏は、涙で濡れた目を、強く光らせて先生の方を見る。そして、凛とした声を堂々と上げた。

 

「先生、俺に、歌を教えてください」

 

 岩永先生は、そのまま音穏の目を見続ける。

 

 音穏の声は、次第に震える。けれども、震えながらもちゃんと届くように、声を張り上げた。

 

「俺、プロのアーティストになるから、皆の心に届くような、!天国まで届くような歌を歌うから、!!だから、俺に歌を教えてください、!!」

 

 音穏は、強くて淡い目で、先生を見る。

 

「ええ、もちろん。さあ、歌いましょ!」

 

 先生は、眩しすぎない笑顔で言ってくれる。

 

 そして音穏は、痛みを抱えたまま振り切ったように、鮮やかに泣いた。

 

 その涙はたしかに心地よかった。


 

春のお母さん

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