高校一年 五月
高校一年 五月
音穏
充実した日々は熱を帯びたまま進み、五月になった。
にしても変わらず、昼休みの音穏は一人教室で楽譜をいじっていた。聞こえてくる周りの雑音は、誰かの愚痴を満面の笑みで吐いて盛り上がっていたり、あいつが先輩と浮気してるとかの噂話とか、とんだくだらないものばかりだった。
入学してから約一ヶ月経って、どうやらクラスの人間たちの会話のネタは、仲良くなろうムードからすっかり変わったようだ。
そんな人たちを冷たい目で見てやってたら、いつも通り春がこっちにやって来た。
「ね、音穏!」と言いながら、前の椅子をガラッと引き、そのまま流れるように座る。
「あのさ、今度遠足で東京行くじゃん。あれ終わったらさ、行きたいとこあるから一緒に回ってくれない?」
春は絶対オッケーをもらうだろうと、確信を持っているだろうに、まるで慎重なお願い事みたいに訊いてきた。
「もちろん、付いてくよ。三時解散はさすがに早すぎるからね」
わざとらしい春に、呆れた笑顔で返してやった。
しかし春はもっと笑った。
「よっしゃ!約束ね!」
「うん、約束ね」
子どもの姿で喜ぶ春に、フッと笑いながら返事をする。
「てか、3時解散ってやばいよね、せっかくの東京だよ、せめて5時とかでしょ。この学校の本当分かってないねー」
「まあ、そっちの方が早く終わって、その後そのまま遊べるから良いじゃん。もっと遅い時間に解散とかだったら、自由に遊べないよ」
「あ、そっか。うわー3時解散ありがとうほんとに」
手の平がひっくり返ったような春に、「さっきの人誰だったんだよ!」と、笑いすぎるのを堪えながら言った。
「で、行きたいところって、どこなの?」
「え、秘密だよ、お楽しみにとっておこうよ!」
遊んでるように春は言う。
「えーでも、気になるじゃん」
「ダメ!その日になってからね!あ、でも行きたいとこ一つじゃないからね。体力付けておいてねー」
春はそう言って、他の友達のところに行ってしまった。
遠足当日の朝。途中の駅で合流したあきのりと、九時集合の東京駅に向かって、電車に乗って向かっていた。ドア付近の手すり掴まり、外の景色を眺めながら、所々会話を繋いでいる。今日の遠足は東京駅に集合して、そこからバスで観光名所をクラスごとに回るらしい。
正直、自由が良かったが、まあ行事ごとだし仕方がないだろう。
あきのりとはクラスこそは違うが、同じ合唱部のメンバーなため、部活のときなどはよく話したり、一緒に自主練習をしたりする仲だ。
「そういえばさ、一組は今日どこまわるの?」
あきのりはまだ眠そうな声で訊く。
「えーと、たしか浅草と上野だっけ。有名な美術館行くらしい、でもこんな短時間で二つなんてキツいよまじで、まあ浅草は全クラス行くけどさ」
わりと声が通る音穏が言う。
「まあまあ、せっかくなんだし良いじゃん。楽しもうよ」
あきのりは優しく返事をする。
「そうさね、そういやあきのり三組だよね、三組どこいくの?」
「浅草と国立競技場だよ。なんか国立は場内見学みたい
な感じらしい。結構貴重だよね」
「あ、いいじゃん。え、でも遠いね」
「まあ、国立なんてなかなか行く機会ないから、いいんじゃない。オリンピックが開かれた場所に行けるからさ。まあ、まさか一年延期になるとは思っていなかったけどね。今思えば、もうなんだか懐かしな」
「もう何年か立ったか。え早いなー。ほんのちょっと前だったたのに」
音穏とあきのりは、わりかしどうでも良い話を、もて余していた時間をたっぷり使って話す。
「そういえばさ、今日の遠足終わった後、そのまま春とデートするんでしょ?」
「え?」
唐突に言われて、喉に唾が詰まりそうになった。
「え、なんで知ってるの?てか、デートっていうわけじゃ」
「春から聞いたんだ、めっちゃ楽しそうに言ってたよ?"遠足終わったら音穏とデートするんだー"って」
音穏は吹き出したようにフッと笑った。
「そこ繋がってたんだ、あんま絡んでるイメージなかったけど。てかデートじゃないから」
「最近わりと話すようになったんだよね。ほら、音穏が部活休んだとき全体練習で、席隣だったから」
「あーそっかそっか、まあ、今日遊ぶのは向こうが誘ってきたからね、普通に友達って感じだから、そういうのじゃないよ」
音穏は、わりかし真剣な目で言った。
「大丈夫わかってるよ、音穏と春、音楽の相棒って感じなの、部活見てるだけでも分かるよ、お互い部活で刺激し合ってる仲だもね」
あきのりは、音穏の目の焦点を落ち着かせるように、穏やかに言う。
「まあ、そうだね、本当に相棒って感じ」
音穏はビルが並ぶ街並みを眺めながら、少し溜めを作る。
「俺、一緒に切磋琢磨できる仲間がいて本当に嬉しいんだよ。だから、春と出会えて本当に良かった。友達としてもめっちゃ良いしね」
音穏は今自分の言った言葉に少し誇らしくなった。
「なんかいいなー、じゃあちゃんと今のこと、春に伝えるんだよ、大切な仲間なんだから」
あきのりが諭すように言ってきた。実際にその場面を想像してみると音穏は少しだけ喉が閉まった。
人の良いところって、本人がいないところではこんなに簡単に発言できるのに、本人の前だと言葉が詰まるどころか何も言えなくなってしまう。近くにいるからこそある恥ずかしさからか、何かのドッキリか、引退間近とか、そうおうイベントがないとしゃべれないという、勝手な条件を必要としてしまう。なんて自分は消極的でドラマチックじゃないんだろう。
「そうだよなー、ちゃんと言わなきゃな感謝。俺も言ってもらおー、春のこといつも世話してあげてるから」
横目で笑っているような顔であきのりに言う。
「そうだね、めっちゃ良いと思うよ」
気づけば、到着までもうすぐだった。
「そろそろだね」
音穏とあきのりは東京駅の付いて、集合場所のロビーまで来た。
「じゃあ俺らのクラスあっちに並んでるから、もう行っちゃうね。じゃ、デートも楽しんでねっ」
あきのりはすぐに行ってしまった。
遠足は順調に進んで、音穏たちのいる一組は美術館入り口で予定通り三時に各自解散になった。
春がもう満足気な顔で寄ってくる。
「よ!たのしかったね!」
「そうだね、楽しかった」
音穏は比較的あっさり冷静に返す。
「じゃ行こっか、春が行きたいの、お台場だよね」
「うん、そうそう。楽しみだね~」
音穏と春はすぐ歩き始めて、お台場へと向かった。
「着いたー!お台場ー!」
春はさっきまで遠足だったことを感じさせないくらいにフレッシュに言う。
「はしゃぎすぎ、良く疲れないね」
「ぜんぜん!だって、これから遊ぶんだよ。そりゃあ元気に決まってるでしょ!ほら行こ!」
音穏は春に引っ張られるようにして、目的地へと歩き出した。
着いたのは大きなショピングモールだった。
「えここ?行きたかった場所」
「そうだよ、ここなんでもできるからね。お買い物もできるし、商店街もあるし、ハンモックもある。あ、あと反対側行けばね、海だよ海!東京湾があって、砂浜とか、海岸とかお散歩できるんだよ!」
なんだか、本当に楽しそうで、嬉しくなった。
「わすごいじゃん、楽しみだね」
「うん!めっちゃ楽しみ!あ、いこいこ!」
音穏と春はわりと足早にショッピングモール内に入っていった。入り口から約三十秒くらいのストロークは、目に入ったものにすぐ触れていってた。しばらくお互い、どんなお店があるかなど、目で景色を追っていたらめ、会話という会話をするのをうっかり忘れていた。
「あ、そいういえば二つ行きたいとこあるって言ってたよね、もう一個はどこなの?」
春はそっと遠くを見つめる。
「あー海だよ、海と、ここのショッピングモール」
「あ、そゆことなの。てかなんで二個に分けた?こんな近いならセットでしょ」
面白くて春に訊いてみた。
「いいの!海は特別なの!」
ムキになったように春が返答してくる。
春は子どものような理由を、子どもの笑顔で言ってきたんだ。
音穏は春の幼い感じを見守るように、優しく笑った。
「あと、こういう普通のこと音穏としてみたかった。いっつも部活ばっかだし、休み時間も短いからね。こうやって長く遊べるのめっちゃ貴重じゃん!レアだよレア!」
やっぱりさっきの子どもが、ちょっとばかり成長したような言葉に聞こえた。
「そうだねー、あんまり、というか全然だもね、二人で遊ぶの。なんか新鮮で良いわ」
「でしょー?わかってるー!」
音穏と春はそのままのテンションでショッピングモールを気ままに歩き回った。道中でおもしろいものがあったりしたら、こんなんがある、あんなんがあるをお互いに伝え合いながら、共感し合った。
「音穏なんか買ったりする?」
「いや俺はいいよ、回るのが楽しいから」
春は狙ったように笑う。
「じゃあ服選んであげるね」
「あ、ちょっと、別にいいよどうせ買わないし」
「いいじゃん!行くだけ行こ!」
春はいつもの笑顔で、先を急ぐ。
「ねえちょっと待ってよ」
春は店の外から見える、マネキンに着せた男性用のセットアップの服をじっと眺めていた。それに音穏が追い付いて、声をかける。
「休みの日とか出かけるわけじゃないから、あんまおしゃれとかしないんだよね。まあ、かっこいいとは思うけどさ」
「えーおしゃれ楽しいよ。洋服ってね、自分の好きな服着れば、それが個性になるの。いいっしょ!」
マネキンから目を離して話して笑顔で言ってくる。
「そっか、そうかもね」
「私はおしゃれするの好きだよ、自由に自分の服着れるのめっちゃいいじゃん!着ちゃえば、まるで自分だけの服みたいになるし。
音穏はスッとマネキンに目をやる。
「着ちゃえば、自分、か」
春は音穏のその顔をじっと眺めた。
「ま、気が向いたらおしゃれしてみれば!」
「そうだね、そうしよっかな」
春は軽く頷く。
「あ、そろそろ良い時間だ!ねえ音穏!海行こ海!」
「え海?あ、海浜公園?」
「そう!行こ!早く!」
春に腕を引っ張られて、ショピングモールの反対側の出口へ向かった。春が常にちょっと先にいて、時折振り返ってきて、そのまま長い距離を小走りで行った。
ようやく出口が見えそうになってきた。夕日が漏れてこちらまで差し込んできてるのが分かる。
春と音穏は出口をくぐり抜ける。
そこにあるのはオレンジに覆われた世界だった。
出口から海浜公園の一部と、おそらくレインボーブリッジの片鱗が見える。東京湾にオレンジ色の光線が放たれているのが、たしかに分かった。
二人はそのまま、国道沿いを歩き、海浜公園に向かった。公園に入ると、そこはもう砂浜だった。
「わ、すごい」
音穏はただ、それだけ言った。
春を見ると、いつも通り微笑んでいる。
何も言わないまま二人はもっと潮の近くまで行く。木材をつなぎ合わせて作られた散歩コースの道の、丈夫でしっかりとした感触から、砂のなんとも言えない暖かい感触に変わる。
水面に近づくことに風に乗って運ばれた潮の香が、鼻を通り抜ける感覚になっていく。
春はそこで立ち止まった。香りを吸うように、呼吸をする。
前を見ると、眩しくて目が眩んだ。ビルとビルの間から顔を出す太陽は、焼けるような色をしているのに、暖かかった。まるで人間社会を見守っているようだった。
音穏はその太陽を拝むような目で見た。
隣を見ると、春は太陽に向かって、笑っている。笑っているというより、音穏には春が太陽に勇気を貰っている顔にしか見えなかった。なんだかその横顔が、とても美しかった、
そんな春を見ていると、やっと目が合った。
春はちょっぴり恥ずかしそうに、目を砂浜に反らす。
そしてもう一度音穏に目を合わせ、すぐさま海を見た。
「これ、音穏と見たかったんだよね」
「嬉しいけど、なんで?」
春は少し問を溜める。
「なんか似合いそうだったから。音穏がこの場所に!」
言ってやったぞというばかりでもない顔をして言ってくる。
「なんだよその理由!似合うって」
笑いながら返してやった。
春は、じっと太陽を見る。
「ねえ歌っていい?」
「え、今?」
返事もなく、春は歌い始めた。何の歌かは分からない。けれど、その歌はこの海と太陽と東京の街中という、冷静に考えれば不思議な風景に、とてもマッチしていた。
流れるような、風のような歌だった。
「良い歌だね」
「これ私が作ったんだ。昔家族とここ来たこと会ったんだけどね、そのときに、思い付いたメロディー。良いでしょ!」
「え、すご、作曲もできるんだ」
春はまた眩しく笑った。
「すごいでしょー!あ、そういえば音穏ってさ、将来の夢とかあるの?」
「え、将来の夢?」
「そう、夢。こんなことしてたいなーとか、こんな風のなってたいなーとか」
唐突にそんなことを訊かれて、すぐに答えることができなかった。夢がなかったから。
「夢か、なんだろう。えー、今は特にないかも」
「ないの?夢はあった方が楽しいよーきっと」
夕日で焼ける東京湾の風景に、二人は声を当てる。
「じゃあ、そういう春はどんな夢持ってるの?」
春は一度だけ、音穏の顔を見てニヤリとし、また視点を戻す。
「私ね、プロの歌手になりたいんだ!」
風が切れるような感覚がした。
「え、歌手?本当に言ってる?」
音穏は驚いて、声が裏返ったような、笑ってしまったような、そんな声で言った。
「ほんとだよ!私、アーティストになるのが小さい頃からの夢なんだ!」
続けて春が言う。音穏は目を春に向けてその話を聞いた。
「歌を歌うのがめっちゃ好きっていうのも一つの理由なんだけどね。私、お父さんとお母さんの影響で、昔の曲とか、洋楽とか、ずっと近くで聴いてたの」
燃える眼差しを、太陽光が加熱させる。
「それで音楽が好きになったし、今まで、ずっとそばに音楽がいてくれたの。辛いときも、悲しいときも、嬉しいときも、寂しいときも。ずっとそばで私を支えてくれたの。だから、」
春は熱い瞳を灯しながら、まるで自分を愛でるように口角を上げた。
「私、プロのアーティストになって、みんなのそばに居たいの。あの時、苦しい自分を支えてくれたり、嬉しいときに盛り上げてくれたり、恋してるときに共感してくれたり。音楽は、そういう力を持ってる。だから、絶対に音楽を求めている人はいる。私も届けたいの。あの時の私みたいに、音楽と共に生きていく人に、世界中の、一人でも多くの人に届けたいの。そのために"世界的なアーティストになる"ってことが、分かりやすいおっきい夢かな!」
春は太陽と海を見て言った。
音穏は春に体を向けたまま突っ立っている。
「すごい、良い夢だけどさ。怖くないの、?そんなに大きな夢を立てて」
か細い声で音穏はしゃべり始める。
春は、音穏に目向ける。音穏の声の強さは、次第に加速していった。
「だって、そんな簡単なことじゃないんだよ。うちのお父さん音楽家だから、何となくだけど分かる。音楽がずっと好きで、春がめちゃくちゃ歌が上手いのはもちろん知ってるけど、だからって、そんな。目指せるようなもんじゃないよ。音楽が好きでも、それを夢にしたり職業にしたりしたら、大好きな音楽に傷つけられるかもしれない。俺だって、昔も、今もちょっと、プロのアーティストに憧れはあるけど。もし俺だったら、好きを夢にして音楽が好きじゃいられなくなるのが、恐くなっちゃうよ」
音穏は初めて、春に向けてこんなに長々としゃべった。所々息を留めたり、声に混ざらせながら、何とか言い切った。
それでも春は真剣に聞いてくれていた。けれども、今は微笑んでいる。
「夢に進むのがどれだけ怖いかなんて、今もう進んでるんだから、それくらい分かるよ。現在進行形でねっ」
「でも」
音穏は耐えきれず言う。
春は海を見る。弾むように話し始めた。
「ねえ音穏、知ってる?夢って、誰でも持てるんだよ」
「誰でも、?」
「そう、だって、夢って重さがないじゃん。質量が。たしかに、夢を本気で目指すなら、重い荷物を背負うこともあって、ちょっと大変かもだけど。夢を持つこと自体はゼログラムだよ。誰でも、自由に夢をもてるんだよ」
春は東京湾に沈み始める太陽に負けないくらいの眼差しをギラつかせた。頬は光で燃えている。
音穏はその春を、じっと見つめる。鼻がつまったような感覚だった。
春は通り抜けるような風で、こちらを見て、また笑った。
「音穏も歌、やりたいんだ!」
「そうだけど、別にプロのアーティストにはなろうとはしてないよ。なろうとしてないって、そんな偉そうなこと言えないけど。俺はずっと歌を好きで居られるために、まあ趣味みたいな感じでずっと、歌やってたい」
「いいじゃん!一つ夢持ってるじゃん!私もずっと歌い続けることも夢だから、その夢は一緒だね」
春は顔を覗かせながら、続けて言う。
「どっちの方が長いかな~?」
「比べなくて良いでしょ!お互い、好きにやろうよ」
「お、かっこいいこと言うねー。じゃあさ!」
春はハッと、思い付いたように視点を太陽にした。
急に履いてたローファーと、白い靴下を脱ぎ始める。
着崩したリボンがなぜか光って見えた。
「ちょっと行ってくる!」
「あ、ちょっと!待ってよ」
春は太陽と光る水面に向かって、勢いよく飛び出していった。グングンと人を抜いて、砂浜に足跡を残していく。その後ろ姿はまるで鮮やかで、神秘的だった。
春は水面にぽちゃっと、くるぶしが浸かるくらい足を着ける。足と足の間隔をこぶし2個分くらい開けて、スラッと、太陽光を反射しそうなくらい堂々と、立った。
春はいつも通りの制服姿で、海を挟んで、太陽と対面した。そこで「はあぁぁ」大きな空気を吸う。
その瞬間。大きな声を上げて、太陽に誓うように言った。
「絶対!!アーティストになってやる!!世界のみんなに届くように、めっちゃめっちゃ有名になって!みんなのこと、幸せにするからー!!!絶対にー!!!」
砂と水と待ちゆく人々の声の中で、差すように春の声が通った。
待ちゆく人がビックリして、春を一瞬だけ見て、何もなかったように皆視線を戻した。
春は顔を戻してこちらを振り返る。かなり眩しい。
「ほらー!音穏も!夢、あるでしょ!」
「え、いいよ俺は!」
「何言ってんの!早く!こっちきて!」
「もお!分かったよ」
仕方なく遠く離れた春に届くように声を張り上げ、ゆっくりと歩き出した。
ようやく、隣まで追い付いた。
「ほら、言ってみな!」
春に諭されて、音穏は息をした。
「絶対!死ぬまで!歌い続けるぞー!!」
「私もー!!!」
春が横で笑う。
「ちょっと、今俺の夢に便乗したでしょ!ずるじゃん!」
「良いでしょ!私の夢でもあるんだもんっ!」
歯切れよく春が言う。もうすぐこの時間が終わっちゃうんだと知った。
「意外と声出るんだねっ」
「やかましいよ!」
音穏と春は、沈みかける東京湾の上に浮かぶ太陽の下で、互いの夢を笑い合った。いつもと変わらない制服姿で。
やっと日が暮れ、辺りは暗くなった。
音穏と春は、街灯が立ち並ぶ、大きな橋を並んで歩いている。
「なんか、ごめんね、色々付き合わせちゃって」
春が少し落ち着いたように言う。
「全然、楽しかったよすごく。それに、なんか刺激もらった」
春は微笑んでうなずく。
「夢って誰でも持てるんだね、考えたことなかった」
「うん、持てるよ、当たり前のことだからねー」
二人は暗くなった世界をじっくり眺めながら言う。
なんだか、ずっと抱えていた荷物に手すりが付いたみたいで、ちょっと持ちやすくなった。
音穏は、風景と街灯の灯りが良いと思う場所で立ち止まる。
「俺もさ、アーティストになるの夢だったんだよね。自分の歌で聴いている人の心が揺らぐようなアーティストになるって、小さいときはずっと思ってたよ」
春は優しく頷いてくれる。
「でも、自分の歌を聴いてくれる人に届けたいってのは、今も思ってるよ。プロは、憧れはあるけど、まだ恐いからさ。今は自分の近くの人の心に届くように、歌、頑張ってる」
「うん、すごい素敵。音穏らしくて良い」
さっき夢を大声で言ったからか、春は疲れていつもより落ち着いた声で話し続ける。
「でも、それって本質的にはアーティストだよ」
「え?」
「音楽ってどんなときでも一対一じゃん。だから、何千とか何万とか聴いてくれる人が増えても、それは一対一の数が増えてるだけであって、他は何も変わらないよ。アーティストがやるべきことはいつも"誰かじゃなくて、あなたに届ける"ことだと思う」
春は、わりかし爽やかに言い切った。
「まあ、私が小さな頃からずっと、この曲自分のためだけに歌ってくれてるじゃん!って思えた曲が好きだったからねー」
「自分のためだけか、たしかに、そうなのかも」
音穏は、まだどうしても素直に頷くことができなかった。
音穏がちょっと険しい顔をしてしまったからか、春は、春なりの安心したような笑顔と声で励ましてくれた。
「音穏ならきっと大丈夫だよ!きっと、ずっと音楽のことが好きでいれるとおもう!」
春は急に復活したような元気を見せる。
「あ、そうだ!」
「ん?」
「実は渡したいものがあるんだー!」
そう言うと春はバッグから、二つ同じデザインの音符のキーホルダーを取り出て、右手には黒、左手はに赤色を手のひらに乗っけて見せてくれた。
「わ、音符だ、これ、くれるの?」
「もちろん、プレゼント!音穏がトイレ行ってるときー、暇で買っちゃったのー」
そう言って春は無邪気な笑顔を見せてきた。
「ねえ!どっちがいい!」
「えーじゃあ、こっち!」
音穏は、右手の黒色の音符を指差した。
「お、じゃあこっちね!それじゃあ私はこっちー」
春は赤い音符をぎゅっと握りしめた。
「二人にとっては、これくらいが丁度いいでしょー」
「たしかに、そうかもね」
「このキーホルダーはお守りね、夢を目指すときには楽しいことばかりじゃないから、これ見て、元気出そ!」
音穏は微笑ましくなって、優しく頷いた。それは春も同じだった。
「ねえ音穏、約束ね!」
春は赤いキーホルダーを掴んだそのままの手で、約束の指だけを立てた。
「音穏も私も、最後まで歌い続ける。で、音穏も私も、歌を聴いてくれる人に、歌を届け続ける。約束ね!」
音穏は、春の指を結んだ。
「約束!絶対ね」
熱い目を凝らして、約束を交わし合った。
互いにぶつかるキーホルダーの音色が、何よりも美しかった。
その夜、音穏はベッドの上で今日のことを一つ一つ振り返っていた。あきのりと一緒の電車乗ったこと、春が思ったよりもませた子どもだったこと、春が想像以上に自由だったこと。その一つ一つを、記録するように振り返った。当然だが記憶の割合は春がかなり高かった。あらためて、仲間としてずっとそばに居てほしいと思った。
けれども、音穏にはどうしても不安が残っている。
ここ近々思っていたが、春はいつも子どものように笑っているのに、考えてることが大人すぎて、結構ギャップにビビる。春の真面目な話を聞くと、いつもハッとさせられてしまって、たまに振り切られて追い付くことすらできていない気がする。自分の考えがどれだけ浅はかで、もろいものだったかを、いつも思い知ってしまう。
春の歌は特別だ。自分にはない、聴いている人を引き込ませるよう才能と、技術を持っている。前々からとっくに気づいていたが、音楽に関して春は自分の一歩二歩先にいる。
音穏はこの前音楽室で、合唱部の岩永先生に言われたことを思い出す。
――「先生、どうやったら春みたいに、聴いている人が引き込まれるような、歌ができますか。才能なんですか」
「音穏、あなたはもっと本質的に音楽を知った方がいいと思うわ」
「本質的って」
「大切なのは、音楽とたくさん会話すること。それと、"誰か"じゃなくて、"あなた"に届ける意識を持つこと。私もビックリしたけど、春はもうその意識を、腹をくくったようにもう持ってるの」
――ベッドの上で、仰向けになって考える。
「音楽と会話、"誰か"じゃなくて"あなた"。んー…。
あぁぁもうわかんねぇ!!」
言い疲れてベッドに沈む。
「やってみるしかないか!」
音穏はベッドから飛び出して、棚に閉まった来月のコンクールで歌う曲の楽譜に手を付けた。机に向き合って、歌詞と音符を一つ一つ、聞くように見た。
フレーズに込められた意味や、この感情をどう歌で表現すれば良いか、ただ考えるだけじゃなくて、音楽に耳を澄ませ、聞こえた音をなぞるように楽譜に書き写した。そうやって、一つ一つ見つけ出すために、大切なものを探し始めた。
~現在~
「彼女が目標だったんです。歌を歌うことに関して、一歩二歩先をゆく彼女を、俺はずっと追いかけてきた」
音穏は微笑みながら言う。
「あの頃、今まで続けてきた音楽がなかなか上手くいかなくなって、よく悩んでたんです。そこに、春が訪れた。そして、"最後まで、聴いてくれる人の心に歌を届け続ける"と約束した。そういうのがあって、歌、頑張れたんです」
江坂先生は、穏やかにコクンと頷く。
「でも、もしかしたら、目標とする人を近くに立てすぎたのかもしれません。近すぎて、ちょっと眩しかったです。それに、近すぎると、それなりの恐さも伴いますからね」
江坂先生は、目を閉じて頷いてくれた。