高校二年 夏休み
高校二年 夏休み
音穏
「うわすごい雨だな、これまだ帰れそうにないね」
「えぇ、もうよしくてくださいよー、かれこれ三十分は待ってるのに」
後輩のはやとが力無さそうに言う。
「そんなん俺に言われたってしょうがないよ、じゃあ練習する?」
「嫌です、絶対に嫌です」
八月の末。外では強い雨がコンクリートに打ち付けられる激しい音が鳴り響いている。教室の窓から見渡せる景観は圧巻のもので、グランド一面はほとんど水浸し状態。さっきまでグラウンドにあった池みたいなデッカイ水溜まりは、やがてダムになり、そこから川が派生している。
そんな中、合唱部に所属する浜田音穏は、テノールを専攻している一個違いの後輩はやと共に、二の一教室でパート練習に励んでいた。
大体パート練習のときは同じパートの人と二、三人組を組み、各教室に分かれて練習をすることが多い。かといって顧問の先生がしょっちゅう様子を見に来るわけでもないから、こうやって自分たちのペースで練習することができる。
しかしながら今日は、練習が終わり帰ろうとしたタイミングで、運悪く朝の予報にはなかった大雨に引っ掛かった。おそらく通り雨だろうけれど、「校内に居る者は天候が落ち着くまでそのまま待機」とアナウンスが三十分前に入った。念のため安全面を考えたのだろう。
「いつ帰れるかな、困っちゃうね」
「ほんとですよ、いやぁーにしても、こんなときでもようやりますねサッカー部は。外がダメなら内か」
はやとは廊下の方に体を向ける。するとドンドンドンと強い足音を響かせながら、何と言っているかハッキリとは聞き取れない、とにかくデカイかけ声を放つ集団がどんどん近くなっては、あっという間にオレンジのユニフォームをまとったガタイのゴツい人間の塊が目の前を通りすぎて行った。これでもう十四週目だろうか。どこをどう回っているのか分からないが、目に留めないわけにはいかない目立ち具合だから、週数を自然と数えている。
「ゴリラかよ」
はやとは呆れた顔で呟く。
「それはラグビー部に言ってやれよ。まあでも、ほんとすごいよサッカー部は。気合いが違うね」
この学校のサッカー部は、公立高校でありながら毎年県大会の優勝候補に挙げられるほどの、県内有数の強豪だ。全国大会も何度も経験しており、直近では二年前のインターハイに出場している。
「え、もう帰ってきた、ヤバすぎ」
はやとがそう言うと、たしかにさっきの男苦しい声が段々と近づいてくる。そして繰り返すように、すぐに目の前を通り過ぎるていく。もうとっくに見慣れてきた。
しかしその後すぐに、キャプテンらしき人物の「終了!休憩ー!」という声とともに、彼らの音沙汰がなくなった。
すると音穏は待ち望んでいたかのように、ニヤニヤしながら教室の扉を開け、走り終わったサッカー部員たちの元へ向かった。
廊下に出るといかにもスポーツマンの体臭が鼻の奥にツーンと来て、若干嫌気がさす。目線の先にはそこには屈強な男たちが、ヘットヘトに倒れ込んだり、嘆いている姿が当然あった。
その屈強な集団で、少しずつどこかへ歩き始める人が出てくる中、最後までくったくたに倒れ込んでいる選手がいた。
「直也!」
「ん?おぉお!音穏!」
オレンジのユニフォームで背番号十二番を付ける、日元直也。激しい練習で、首元にはかなり汗をかいている。
直也はと言うと、明るい雰囲気をかもし出しながら、かなり真面目な根を持っている。背がわりと高い方で一見細身に見えるが、しっかり見ると中々の筋肉質で、二の腕や胸筋は分厚い。サラサラと流れる今時風の髪型をしていて、美容にはわりかし関心があるらしく、毎日欠かさずに塗っている日焼け止めのせいか、他の部員と比べても比較的肌の白さを保っている。
「え、今日来てたの?おい先に言えよ!」
「ちょ、今朝LINEで送ったんだけど」
「えうっそ。ごめん見るの忘れた、わるいわるい。あ、てかこの後暇?」
「暇だけど」
「俺これで今日の練習終わりだから。どうせ外出れないし、そこら辺でダベってようぜ」
「そうだね、そうしよっか」
直也はさっきの疲れ果てた姿とは打って変わって、少年のような笑顔を取り戻す。
「おい日元!行くぞ!」
「あ、先輩ちょっと!待ってください!ごめん俺もう行くから、また後で!」
直也は焦ってすぐに行ってしまった。なんて嵐みたいなやつだ。
教室に戻ると、さっきまで音穏とはやとで二つ並べて壁掛けておいた、はやとのリュックだけが無くなり、音穏のリュックだけ取り残されていた。たぶん、はやとが気を利かせて、自分の荷物を持ってどこかに行ってしまったんだろう。しかしかながらなんて出来た後輩なんだ。ていうか、こんな雨でどこか行き場はあったっけ。
音穏は窓際の一番後ろの席を空けて、その一個前席に座った。
ああ見えても直也は、サッカー部の二学年の中ではかなり上手い方らしい。
直也は中学時代、無名のサッカー部に所属していたが、高校の体験入部のときに監督が直也の魅力き気付き、「私立じゃないから受験してくれ」と、監督直々のスカウトを受けて入学を決意したと、同学年のサッカー部員から聞いた。
またその彼によれば、この学校は県内数多くの猛者たちが体験入部に来るのに対し、それほどの逸材がいる中で監督が直々に声をかけたのは直也ただ一人らしい。そこら辺の情報にはあまり詳しくないが、直也は素人でも分かるかなりの実力なのだろう。その情報に証拠を持たせるように、既に一年生時点でトップチームに昇格したと言っている。つまりさっきの軍団もそうなのだろう。
音穏は直也を待つ間、外の荒れた景観をじっと眺めながらやり過ごした。にしても、雨はまだ止む気配がない。まあ、その方が直也と話す時間が長くなって、都合が良いんだけれど。
音穏は微妙に口角を上げ、また外を見つめた。
直也
やった、音穏に会えた。まさか音穏が学校にいるなんて思ってもいなかった。
「やっぱりLINEとかは確認しとくべきだよーな、」と、音穏にさりげなく言われた言葉が自分の落ち度すぎて笑える。
直也は現在サッカー部が占領してしまっている廊下の踊り場に、一番遅れて着いた。
三階から四階をただひたすらグルグルと走り続けるこの練習は、暇さえあればボールをいじっていたいサッカー野郎たちにとっては、肉体的にも精神的にもかなりくるものだった。そのせいか、多くの仲間たちが愚痴を漏らしながら床に横たわっている。
直也は床に尻を着けて座り込み、大量の水を喉から体に流し込んでは、ため息を吐いた。そして、ソッと右膝に手を伸ばす。
実を言うと前々から右膝の調子が悪い。確実に痛めているのだろう。
直也の足の利き足は左のため、パスやシュートをするときは右足が軸足になる。特に攻守共に参加するサイドバックというポジションがゆえに、クロスやロングパスなど、キックに強い威力が必要になるシーンが多い。
そのため過度な負担が余計に右足にのし掛かっているわけだ。そりゃあ痛めるだろう。それに加えて、監督やマネージャーには内緒で、放課後の家の近くのボール遊び用のデッカイ壁が設備されている公園で、一人でコッソリキックの練習なんかもしてしまっている。
基本的に練習後の自主練習はオーバーワークで怪我に繋がる恐れがあるため、禁止されている。けれども、直也にはそれでもハードな練習を続けたい訳があった。
「ねえ、直也!ちょっといい!?」
荒れていた呼吸が落ち着いてきたと思ったら、今度はマネージャーの音葉姫奈がすごい勢いで近寄ってきた。いかにも何かを申し上げそうな表情をしている。
「足、怪我してるでしょ」
え、バレた、と思ったときにはもう既に言葉が出ていた。
「え、な、なんでわかった?」
直也は分かりやすく動揺する。
「走り方。さっき見たとき、右足ちょっと引きずってたよ」
姫奈は端的な言い方で言った。なんちゅう観察力だ。さすがエリアマネージャー、分析力が鋭すぎるくらいでむしろ怖い。
「安静にしてなきゃダメじゃん、怪我悪化したらどうするの、ほら、足かして。痛いのどこ?」
「あ、ありがとう、この辺り」
直也は手のひらで右膝を撫でるように姫奈の説明した。すると姫奈はあらかじめ用意してあった救急バッグからテーピングを取り出し、処置を始めてくれた。
姫奈は中学からの同級生で、マネージャーは高校から始めた。中学のときからずっと髪型はポニーテールで、目がくりっと大きくてかわいいとよく周りの人間が言っている。口調やいつもの振る舞いから、見るからにエネルギッシュな性格をしていることが分かるが、実は結構神経質な一面も持っている。その両面の特性を上手く活かして、試合の映像分析から部員の体調管理まで行う、幅広いサポート活動をしてくれているのだろう。
当然、マネージャーとしていつも怪我をすると必ず駆け寄られるし、怪我を隠すなんてことをしたら絶対に許されない。姫奈は繊細で、人一倍正義感が強い人なのだ。
「せめてテーピング巻くとかあるでしょ。ただでさえ直也怪我多いんだから、こっちだて心配するよ」
姫奈は少しムッとした顔で言う。
直也は一瞬、何と返して良いのか分からなくなってとりあえず笑った。そして、どこかにグッと力を溜めて、テーピングを張ろうとする姫奈の手を止めた。
「ごめん、やっぱりこれ、やんなくていいわ」
姫奈は当然困惑した様子を見せる。
「え、なんで?いいよ遠慮しなくて。大丈夫だよ監督には大事にならないように言って」
「大丈夫大丈夫。これで試合出れなくなったら嫌だからさ」
食いぎみの放った言葉は、姫奈には不満げに届いたようだった。
「俺、サッカーやってないと生きてられない人間だからねっ」
直也はちょっとボケっぽい言葉で空気を調和しようとしてみる。
姫奈はそのままの顔で、何も言ってくれなかった。いや普通にスベったみたいで気まずいじゃないか。どうしてくれるんだこの空間。
すると姫奈はそれを察したように、直也の足から張りかけのテーピングを静かに剥がしていった。
「あ、ごめん」
「うん」
直也はつい言葉がこぼれる。
「でも、気にかけてくれてありがとう、でのほんとに平気だから!」
直也はそう言いきって、どこか場所を変えた。
姫奈はうつむくように頷いた。
練習後の軽いミーティングも終えて、すぐさま音穏が待っている二の一の教室に向かった。
教室の扉を開けると音穏は窓辺にいて、荒れ果てた外の景観をジッと眺めているようだった。
「お待たせ!」
直也が元気よく言うと音穏は扉を開く音に反応して、元気よく後ろを振り返る。
「お疲れさま」
「ありがとーいやぁまじ疲れたよ。てか、雨やばいね。まだ全然帰れそうにないじゃん!」
「なに、嬉しそうじゃん」
「そりゃそうよ話せるし!」
「そうだね、あ、疲れてるでしょ座ろ座ろ」
二人は窓辺に一番近い奥の列の一番奥の角になってるところに音穏が前で直也が後ろの席に、上下になるように座った。今思えば音穏と教室で話をするときは、大体この形だ。何とも言わず、当たり前のようにこうやって座る。たぶん初対面のときの記憶が勝手に二人に刷り込まれているのだろう。
音穏とは一年生のとき、英語の授業が始まる前に一人でサッカーの試合を見ていたから、何となく気が合うと思って声をかけて仲良くなった。
最初の印象は、座ってていても分かるスラッとした背丈の高い細身でスタイルが良いということ。顔を見たときに、綺麗に分けられたセンターパートで、末広の二重目と鼻筋の通った端正な顔立ちがくっきり見えたこととが印象的だった。
でも何よりも初対面の音穏が「君は誰?」と、不思議そうな顔で言われたことをなぜかずっと覚えている。君、なんて呼ばれ方をしたからだろうか。まあどうだっていいけど。
音穏と直也はリュックを仲良く壁に追いやって、何も持たず気軽に席に座った。
そういえば、音穏はいつもリュックに赤と黒の二つの音符のキーホルダーを着けている。特に理由を訊いたこともないし誰かにもらったものなのかは分からないけれど、音穏はこのキーホルダーを大切にしているらしい。デザインもシンプルだし分かりやすい色で目立つから、比較的遠くに音穏らしき人がいると、いつもキーホルダーで本人かどうかを区別している。あと純粋にデザインがかわいいという点で、勝手ながら自分も気に入っている。
「雨だね」
「うん、雨だね」
二人は何となく、窓から見える外の世界を眺めてはボーッとしている。
「ねえ直也」
「ん?」
「怪我してるよね」
「……ん?」
直也の頭は一瞬だけ真っ白になって、またいつも通り稼働し始めた。音穏が澄ました顔を窓に向けながら、怪我に付いて当ててきやがったからだ。
「え、なんで知ってんの?うわ、姫奈から聞いたっしょ。やられたー」
「いや違うよ、勘だよ」
なんちゅうことだ。どいつもこいつも観察力やら野生の勘みたいなものに長けていて恐ろしい。嘘を見抜かれたみたいだ。まあ本当に見抜かれたのだけど。
音穏は笑顔を見せて直也の方に顔をやった。
「やっぱり怪我してたんだ~何かあると思ったんだよね。で、さっきテーピング張らないまま走ってたでしょ、ダメじゃん」
音穏に全てを見透かされた気分になって、かなり恥ずかしくなった。が、恥ずかしいと思ってることを悟られるのが恥ずかしいから、ネタっぽく交わした。
「いやだって、練習には出たいだろ!怪我してたら休めって言われちゃうし」
無理に平気を装ったせいか、最後の方だけ思ったよりも低くてボソッとした声が出てしまい、なんだか心細い雰囲気を作ってしまった。けれどもこの心細さは直也にとってまんざらでもなかった。
その様子を不審に思ったのか音穏は、優しく心配の言葉をかけてくれた。
「最近大丈夫?全然、何でも話していいよ」
直也は一瞬嬉しくなって、優しく微笑んだ。
けれども、心の内を答えようとはしなかった。
「大丈夫!ほんと優しいね~音穏は。ありがと」
直也は強く笑いながら、首を横に振って言う。
「うんっ、そっか」
音穏は優しい息混じりのブレスがかった声色を出して答えた。
その後は目まぐるしく話の話題が変わった。あの漫画の最新話がヤバいとか、二組かわいい子多すぎないかとか、何度も話したことあるような内容を未だに新鮮な気持ちで繰り返している。まるで生産性のない会話だが、それが心地よくて、大好きだ。
しばらくすると予報通り、雨は止んだ。
「じゃあそろそろか。あ、駅まで一緒に行ける?」
音穏のその言葉で、帰宅ムードになった。
直也はほんの少しだけうつむいて、すぐに笑顔を出した。
「あ悪い、俺、サッカーノート書いて提出しなきゃだわ。あっぶない書いてなかったー!」
わざとらしく言う直也に、音穏は笑って返す。
「ちゃんとやんなきゃダメじゃん!じゃあ俺、先帰ってるね、後でまた連絡する!」
「おっけー!またね!」
音穏が先に行った。それを直也はいつもと変わらないつもりの笑顔で見送った。
直也
直也は家に帰ってシャワーを浴び、昼食を食べた。
その後は、自分の部屋で残っていた英語の課題に取り組んでいいて、気づけば夕方になっていた。日が沈もうとしているのにまだ暑い。
課題が終わったところで、直也は少し休もうと思い、ベッド飛び込んだ。今日は体力作りのメニューで疲労が溜まっているし、このまま夕御飯までウトウト寝てしまおうか、なんてことを思っていた。
けれども、さっきの音穏との会話が頭の中からずっと消えなくて、中々寝付けなかった。
やっぱり、テーピングすら巻いてないのに、右膝の怪我を抱えていると当てた音穏はさすがだなと、関心した。まあ、怪我がバレないようにテーピングをしてなかったからといって、普段の走り方と顔の表情を比較すれば、一目で分かってしまう。
もしかしたら、音穏にも怪我はバレたくなかったのかもしれない。バレたくなかったのか、それともバレてても言わないでほしかったのか。
直也は昔から感情の整理が上手くできないため、心の奥の感情を言葉で脳に留めておくことが極めて難しい。けれども、さっきの音穏の心配の言葉が、空いた心に直接届いた気がした。
だから、今日はしっかり自分と向き合おうという気になった。
直也はベッドに沈むように転がり、何もない天井を見上げ、ゆっくりと呼吸を続けた。
スポーツ選手が怪我を処置しないまま運動を続けることの恐さ、そんなの分かっている。今抱えてる右膝の痛みが、ただものではないことだって分かっている。
だけど、それでも怪我を認めるのが恐かった。絶対に休息を余儀なくされると分かっていて、怪我を申告することが、サッカーが命とまで言う直也にとってどれだけ恐ろしくて避けたい現実なのかを、周りの人間たちは誰も知らないだろう。
オーバーワークとか、また怪我が悪化するとか、そういう現実的なものからどうしても目を避けてしまう。自分に目を向けて、今と向き合わなければ、成長は止まってしまうし、そもそも怪我すら治らない。そんなことなんて分かっている。
それなのに、自分がチームを勝たせなきゃとか、みんなの期待に答えなきゃとか、サッカーで生きていきたいからとか、そういうプレッシャーが自分を邪魔してくる。
そんな気持ちから、現実逃避のような、今の自分の現実に背中を向けて空想に飛んでいってしまっている。
だからといって、サッカーに関わる努力は絶対に怠らなかった。部活の後には必ず三十分自主練習をしたり、試合後は必ずシュートとドリブルの練習を少なくとも十分ずつ。苦手な自己分析克服のために、毎日欠かさずサッカーノートを付ける。などなど、徹底した努力はどんなときも続けてきた。
もちろん、それはサッカーが大好きで、これからもずっと自分のそばにいてくれるものだと確信しているから。そして、小さい頃からの夢のプロサッカー選手を叶えるため。そのために、これまで頑張ってきた。
それなのに、未来の自分に投資してきた期待と努力が、時折重圧になって潰されそうになってしまうのは、なぜだろう。
心の奥に閉じ込めておきたい不安が中々消えないのは、誰のせいだろう。
もう今日はそろそろ考えるのをやめたいのに、なんでやめさせてくれないの。
直也は静かに自分の心を抑制できていないことに焦りを感じ始める。そして、段々と鼓動が早くなって、呼吸がしずらくっていく。
もし、試合で大きなミスをして、チームの期待を裏切ってしまったら。
もし、怪我が思うように治らなくて、スタメンを奪われてしまったら。
もし、重圧に押し潰されて、おかしくなってしまったら。
サッカーを好きでいられなくなってしまったら。
脳裏にへばりついた、剥がれ落ちない不安が直也を襲った。決して初めてのことではなかった。
直也はただ静かに、孤独で苦しみに耐えた。時刻が進み、世界が暗くなり始めていること気づかず、深いベッドの中で、直也の感情はたしかに沈んでいた。
ハッと息を多く含んだ声を出し、勢いよくベッドから起き上がった。
「夢、?」想像だったのか幻想だったのか、分からなかった。がしかし、どちらにせよ冷たい水滴のような感覚が皮膚を覆ってきたため、自分が首元と背中にびっしょりと汗をかいていたこに気付き、現実に帰還することができた。
エアコンが効いていた部屋だったけれど、夏だから汗をかいてもおかしくはない。今日はそういうことにしておこう。
直也はそっとエアコンのリモコンを持って、部屋の温度を下げた。エアコンをずっと付けていたせいで、少し喉が絡む。時刻はもう十九時を回っていた。
「直也!ご飯だよ!」
タイミングよく、一階から母さん声が聞こえた。
「はーい!」と、ちゃんと聞こえるように返事をする。暖かい母さん声で、少しホッとできた。
さっきのことは、サッカーと自分によく向け合うことができたと、そうポジティブに捉えておこう。試合でも、切り替えが大事だ。
床をしっかりと踏み、地に足を付ける感覚を取り戻す。そのままスタスタの歩き、一階のリビングへ向かった。
階段を降りると玄関がある。そこの備え付けの棚の上に来客用として使われている、アルコール消毒液の容器が置いてある。そのすぐ下の、フローリングの床は、白く汚れていた。
直也は、消毒液と汚れたフローリングを、目を少しだけ細めて、じっと見るように眺めた。息を飲んだ。
何となく消毒液を手にとって、指先までしっかりと伸ばした。それに比例するようにアルコールの香りが顔に漂ってくる。
直也は玄関とリビングを繋ぐ引き戸の、扉の引手には手を付けず、引手の少し上に手を添えて、擦るようにして扉を引いた。
ダイニングへ向かうと、母さんが既に夕飯の用意を済ませてくれていた。
「ごめん母さん、遅くなっちゃった」
「良いのよ全然、疲れてたでしょ。あ、やだ、直也エアコン付けないで寝た?」
母さんの言葉に、直也はなぜか視線を逸らしてしまう。
「……あ、うん、たぶん暑くて。その、エアコン付けるの忘れちゃって」
母さんは察したように「そっか!」と微笑みながら言ってくれた。
「ご飯ラップしとくから、もう一回お風呂入ってらっしゃい」
「うん、ありがと」
お風呂から上がると、母さん特性のコロッケをレンジでチンして、熱々にして持ってきてくれた。お味噌汁も、ご飯もとても暖かい。温かいご飯を目の前にして、まだ食べていなくても、心がとっても暖かくなった。
「今日は直也が大好きなコロッケにしたよ~。栄養も満点だしね!」
「そうだね、ありがとう!じゃあいただきます」
直也は、ホクホク湯気を立ててと踊るコロッケを、箸でつまみ、口に入れた。カリッカリの衣と、フワッしたじゃがいもの具が、噛み締めることで混ざり、味覚を感じさせる。
「やっぱり、めっちゃ美味しいよ!」
「そう、よかった!」
母さんの料理は誰の料理にも勝ると、また母さんの困るようなことを思ってしまう。
「いくら五つ星のレストランの料理人がつくる、熱々ビーフシチューが絶品だからって、母が俺のためだけに作ってくれた、昨日のビーフシチュー方がよっぽど暖かいし上手い」なんて、比べる必要もないことを思ってしまう。でも今日は、なんだかそういう気分だった。
「ねえ直也?」
母さんが黙々と食べ進める直也を見て声をかける。
「あんまり無理しなくてもいいのよ、直也はもう十分頑張ってるもんね」
直也は、母さんではなく、コロッケに視線を向けながら微笑む。
「ありがとう、今日は無理しないで早めに休むよ」
「うん、そうね」
いつも母さんには、素直になることができた。恥ずかしがり屋なところも、不器用なところも、全て等身大のままで居させてくれる。
「ごちそうさまでした」
直也はすぐに食器洗いを済ませ、二階に行ってはベッドに転がり、一日を終えた。
日元直也
音葉姫奈
直也母
はやと