高校三年 十月
高校三年 十月
音穏
あっという間に夏が過ぎ去ってしまった。暑苦しさがなくなったものの、なんだか教室の空気は以前よりも重くなった気がする。
辺りを見渡せば、指定校がどうだとか、B判定だとかの進路の話しを深刻な顔をでしているやつらも居れば、インスタで知り合った男の顔が会ってみたら全然イケメンじゃなかったとか、そんな戯言を吐いてる連中もいる。まあ後者はどうだって良いのだが。
こちらはホームルームが始まるまで、早く来ていたりょうたとあきのりで話をしていた。
「ねえ音穏、進路希望調査。書いた?」
あきのりが訊いてくる。
「あ、いや、まだ、考え中ってとこかな」
「それ、いつも言ってる。てか、結局一学期希望調査、ちゃんと提出したの?」
「……さあ、どうだったっけ、な?」
音穏はとぼけた小ボケを挟んで、笑ってくれる二人の反応を楽しんでいた。
そうしていたら、直也もやってきた。パッと見で、一学期に比べて、かなり自然に歩けるようになっている気がする。
「あ、直也!おはよ!」
「おはよ、あ、ごめんね、最近全然LINE返せてなくて」
直也は音穏の後ろの席に座りながら言う。だけど、今日の直也は、日常会話にしては若干台本のセリフみたいな不自然さがあった気がした。
「あ、うん、大丈夫だよ」
音穏はそれに、はにかんで頷いた。
やっぱり直也の手はなんだか、傷ついて潤いがないような、乾いているように見える。
けれども、その話題には今日も触れることはできなかった。
直也は静かに、席に座った。こんな疑いをかけるのは親友としてどうかとは思うけど、直也はまだ理性を保てている気がしている。まだ、とか言ってしまっているけれど。
だけど、音穏はその言葉では感情を片付けることができないくらい、直也に対しての疑問と、気がかりな思いで心がいっぱいだった。まだまだ、分からないことが多すぎて。何て声をかけていいのかわからないし、触れていいのかも分からない。
普段から人の心には、特に直也の今の心には、あえて深く触れないようにしている。本当なら見てもいい許可を当人から得ない限り、心は自分だけのパーソナルスペースだから。いくら親友とはいえど、見られたくないものを見られて良い気はしないだろうし、どうしても今の直也の心は、入室禁止の赤い文字が乱暴に書かれた張り紙が、斜めがけでシワを帯びて張られているような、そんな勝手なイメージがある。だから恐くてその扉を、おもいっきり開けたいだなんてめっぽうに思えないし、数センチ開けて隙間から覗くなんて勇気も、時間とともにどこかへ行ってしまった。ほんの少し前まで抱いていたのは事実だけれど。
音穏は気づかない間に直也に対する不安と疑問を、心に留めておくことしかできなくなってしまった。だけど、どうしても、どうやったっても消えない思いが心には残っている。それは、直也のことをもっと知りたいという思い。
こんなに知るのが恐いとほざいていながら、それでも知りたいという呆れた矛盾を、誰かは笑ってくれるだろうか。触れたくても触れられない直也の指と心に、このどうしようもない思いが届くだろうか。
そんな心を背後にいる直也に感じとられないように、静かに息を吐いて、冷静さのなかに温かさを保った。直也を背中で守るように。
その日の休み時間、音穏はトイレに行った。
そうしたら、そこに直也がいた。手元を見ればよく泡立つ石鹸で、手をゴシゴシ洗っている。
音穏はそのまま目線を上げて直也の顔に焦点を合わせる。するとそこには、殺気だった真剣な眼差しで泡立つ自分の手を見つめている表情があった。鏡があるのに、後ろに親友ががいることなんて、絶対に気づかないくらい、直也は自分の手元しか見ていなかった。
音穏は遠くで一度、息を飲む。そして、直也の屈強でか弱い姿をただ眺めて、ゆっくりと歩き出した。
「お、直也」
音穏はまるで、たまたまトイレで会ったように声をかける。
すると、直也の背中がビクッと反射した。そして、後ろを振り向かず、はじける泡を見たまま、「……あ、やっほ」と、震えた声で言ってくる。
鏡ごしに見る直也の目はまるで、ビート板に頼って、足が半分沈みかけたばた足のように泳いでいる。それくらい、何かにすがっているような、頼りきっているようなものを感じた。
音穏はまた歩き始めて、トイレを済ませた。
すぐに手荒い場まで戻ってくる。すると、直也はまだ、さっきと同じ体勢で手を洗っていた。
正直ビックリしたが、とりあえず直也の隣のもう一つ鏡の前で手を洗った。明らかに表情が強張っている直也を横目に、なんと声をかければ良いのかも、なんと言ってはいけないのかも分からなくて、その場でかなり迷った。
そうやって一瞬頭をギュッと振り絞ったら、「大丈夫?」とだけ言うのが、一番案配がとれている言葉だということに気がついた。音穏はそのまま「大丈夫?」と声をかける。
すると、直也から「……あ、ううん、うん」と、ハッキリしていなくて分からない言葉を返される。
音穏は、ここ近頃口癖にもなってきているような気もする「そっか」で、返事を返した。こう言っちゃ変に思われるかもしれないが、「大丈夫?」と「そっか」は、相手の内容に触れずに、共感しているという心情をさりげなく相手にアピールできるものだから、使いやすくてよく使っている。仮に自分がそ言われても頭に傷として残らないから、それをそのままそっくり相手にもやってしまっている。
直也は音穏から声をかけられて、諦めたように手についた泡を水で切り出していった。その手は絶対に赤かった。傷ついていた。見れば分かるだろうに。
直也はその手をすぐにハンカチで覆うように包み、水滴を拭う。音穏もほぼ同じタイミングで手を洗い終わって、直也のその様子を見つめながら、ハンカチで手を拭いた。
その場の流れのまま、直也が先にトイレから出て、それを追うように後ろから音穏がついてきた。
音穏は、たんまり空気を飲み込んで、グッと力を込める。直也を呼び止めた。
「ねえ直也、ちょっといい?」
「……ん?」
このとき、自然と直也の背後を壁にしてしまったことが非常によくなかったと、瞬時に反省する。なぜなら、後ろに逃げ場がないから、話の圧を感じるしかない。環境は人の感情に影響が出るほど、それくらい大切なんだ。
だけどもう流れで行っちゃったから、音穏は質問を続ける。勇気と覚悟は結構振り絞った。
「訊きたいんだけどさ、直也って、潔癖、だったりするの?あ、あの全然言いたくないとかだったら言わなくてもいいから」
直也は数秒、止まった。止まって、またさっきみたいに目が泳ぎだした。けれども、さっきとは違って、言葉がずっと出そうなのに、どこかに突っかかって出れないように。声を出す瞬間に「やっぱ違う」と、言葉探すように。直也は、あきらかに戸惑って見えた。
何でだろうか。何に戸惑っているのか。知られたくない秘密があるのか。不意打ちに核心のつくものを訊かれて、何も言えなくなってしまったのか。それもと、自分自身の心に嘘をついていて、本音が言えないのか。
音穏は、こんなにたくさんの思いを、直也が止まって泳いだ数秒で、一気に考えた。人の心を想像するときは、よく頭の中で映像や写真を作って表現する。だけど、今の直也の心に楽しい未来が予想された想像の映像は、まだ一枚もなかった。それども、知りたい。それに、若干知らなきゃいけないという使命感もある。
それは、自分が直也の親友であるから。
すると直也は口走るように、やっと話し始めた。
「……え、あ、まあ。ちょ、ちょっとね、綺麗好きみたいなとこはあるかもしれない」
場を逃れようとするようなコメントを頂く。
音穏は、今回ばかりはそれだけじゃ納得できなかった。
「……ほんとに?」
時間をうまく使って、直也の負担にならないように。そんな気遣いの思いと裏腹に、身体のどこから込み上げてくる溢れ出る気持ちは、止まることはなかった。
「ねえだって、最近の直也。なんか、手とかすごい長い時間、真剣な顔して洗ってるし、手、荒れちゃってるし、なんか、心配でさ、」
しゃべっていくうちに、段々と言葉が回らなくなっていく。なぜだろう。言葉が一言一句、喉につっかかかって、声が息を混じりになってしまった。けれども、音穏はしゃべり続けた。
「本当に言うのが辛いとかだったら全然言わなくていいだけど、やっぱり俺、直也のそばに居たいから。どんなことでも、直也のこと、もっと知りたくて。長くいても、知らないとこ、いっぱいある、からさ、」
元々文章だったものを、誰かに噛み砕かれてバラバラになった破片を、無理くり繋げて再興したような文で、なんとか言いきった。
それでも、直也は静かだった。
けれど、自分がしゃべるにつれて、直也の目がどんどん赤くなっていくのに気がついた。やがて、直也は、急激に呼吸が、加速していく。
「……直也、?」
「ごめん……ちょっと、ごめん、……。」
直也は涙がこぼれてこないように、一回上を向いた。呼吸はあらげたままで。
音穏はかなり焦った。さっきある程度の覚悟を決めたのに、自分の言葉で傷つけてしまったと、自分がやってしまったことだから一瞬で責任を感じ取れた。
ごめんと謝り続ける直也に音穏は極力温かく声をかける。
「ううん、謝らなくて大丈夫だよ、こっちこそ辛いこと聞いちゃってほんとにごめんね、ねえ、大丈夫、?ちょっと、一回休む、?」
あくまで平然を装って言った。
すると直也は深く深呼吸をして、答えてくれた。
「……ありがとう、もう大丈夫。ちょっと、気持ちが溢れ出ちゃって」
「うんうん、そっか、」
「気にかけてくれて、ほんとにありがとね、」
「ううん、」
「えっと、何て言えば、いいのかな……」
直也は少し溜める。音穏も、やっと落ち着いてこれて、直也の隣にサッと移動する。すると直也は、頑張って答えてくれた。
「……なんかさ、自分でもあんまりよく、分かってないんだけど、音穏が言ってくれたみたいに、ちょっと最近……潔癖、?と、いうか、そういう感じなのななって、思うこといっぱいあって……」
直也は震える声を振り絞って、自分に言ってくれる。
背中を擦りたいけれども、そういう理由なら不可能かもしれない。
音穏は一度、深い息を吐いた。ため息じゃないいいけど。
そんな不安さえも抱いているうちに、音穏は震えが止まらないまま続きを話し出した。
「……俺、音穏に悪いこと……しちゃったんだよね……」
自分で言った言葉に、直也は落ち込む。
「え、そんなことしてないよ、」
「ううん……あのね、この前音穏が……、いえ、きたとき、に……」
直也は話せば話すほど、比例するように涙が熱くなる。ブルブルと振動する声帯を、極力大きく開いているようなしゃべりだった。
「俺……音穏が帰った後に、何でか分かんないんだけど、不安になっちゃって……その、潔癖、?みたいなやつが、」
「うん、」
直也の話を遮らないように気をつけて、相づちを打つ。
「それで、抗菌スプレーかけちゃったの……一緒に座ったところに、」
直也は顔を曇らせたまま、恐くて謝るの遅くなっちゃってってごめん、とわりかし焦ったように言う。
「……ううん、大丈夫だよ、謝らなくても。家、行っていい?って言ったの、俺の方だし、!」
直也は、首を横に大きく振った。
「ううん、あの日、すごく楽しかった、だから、大丈夫。うん、」
直也の言葉は、自分自身に言い聞かせるために言っているようにも聞こえた。
「そう、それなら、良かった」
二人とも、片言を上手に話すように、一生懸命会話した。
音穏は、ふと、気づいた。今までお互い何も考えずに、気の向くままに話せていたのに、それが今、二人ともできなくなってしまっていることを。
音穏はそんな思いが頭に登ってきた結果、ゾッとした。嫌な胸騒ぎがする。
今までどんなときでも気ままに、心行くまま話してきた二人にとって、会話を頑張るという作業がどれほど苦しいものか。なんだか、今まで見るのが恐くて避けてきた不安が、ドンッ、と目の前に大きな壁として置かれたような、そんな気にされられる。
そのとき、一瞬にしてさらなる不安が音穏を襲った。
何であのときも、あのときも、うまく言葉をかけれなかったんだろう。どうして異変に気づいていたのに、そのままにしておいたんだろう。
触れようとすれば何か支えられていたのかもしれない。もう少し恐がらずに、直也との距離を保つことができれば、そばにいるだけでいい存在になれたんじゃないか。
今さらそんなことを思うべきではないのは分かっている。けれど、どうしても親友を支えきれなかった自分を責めてしまう。今更だけど。
そんな、過去の自分からの暴力が一気に振りかかって、音穏の呼吸も少し乱れる。
けれども、音穏はこんな心の中を覗かれないように、無理に平常心を保った。そんなことを考えいる間に、直也はすっかり落ち着いてきていた。
「結構落ち着いてきた、ありがとね」
「ううん、こちらこそ話してくれてありがとうね」
直也は、目頭を伸ばしたまはにかんだ精一杯の笑顔で「うんっ」と、頷いてくれた。
正直、こんな場面で抱くのは不本意な感情かもしれないが、今の直也の笑顔が、美しく見えた。
音穏は直、也のその笑顔に気づかされた。直也のこの笑顔が好きだ、この笑顔を守りたい、そのことにこんな場面で、ここでようやく思い知らされた。
だから、決めた。
「もうすぐ五限目始まるよね、そろそろ行かなきゃ」
直也はそう言って、ゆっくりと歩き始める。
「直也」
「ん?」
直也は振り返ってくれた。
音穏は直也の目を真っ直ぐ見る。
「そばにいるからね、もしも頼りなくても、近くにいるから。だから、無理しないで」
音穏は、穏やかで包み込むかつ、ブレても折れないくらい真っ直ぐな眼差しで、この言葉を口にした。
すると直也はまたつられて笑うように、ちょっと口角が上がった。それがほんとに、嬉しかった。
二人の間の温かさはそのままで、音穏と直也は二人並んで教室へと戻っていった。
直也
放課後、部活動が始まった。直也は部室でマネージャー混じり、ボールやマーカーなどを整備をしていた。怪我が落ち着いてこういう仕事ができるようになってから、ほとんど姫奈がつきっきりで一から教えてくれている。
直也と姫奈は、空気の入りが甘いボールを取り出し、空気入れでボールを正常な固さに戻す作業をしていた。
「ねえ直也」
直也は、「ん?」とボールに目を向けたまま、返事をする。
「リハビリ、今どんな感じなの?」
「あー、だいぶ歩けるようになってきたよ。まあ、まだまだ先は長いけどね」
「そっか、よかった」
姫奈はボールに目を返して、空気がこもったような声で返した。
「直也はさ、進路、どうするの?」
二人の会話に少し間が生まれる。直也はなぜかにやけた。
「まだ、特に決めれてない。そもそも、大学でもサッカー、やるつもりだったから。だけど、もうサッカーできるか分かんないし」
直也は振り切ったように言う。姫奈は少し、反応に困った様子だった。
見かねた直也は、少し時間をとって会話を再開させる。
「ごめん、こんなこと言って、反応困るよね。あ、姫奈は進路どうするか決まってるの?」
姫奈なわりとすぐに返事をしてくれた。
「あ、私は専門行くよ、栄養士になりたいから栄養学勉強するんだ」
「そうなんだ、良いじゃん」
姫奈はうつむいたまま頷く。そして、少し考え込んで、振り絞ったように言った。
「あ、あのさ。ちょっと訊きたいこと、あるんだけどいい、?」
ひどく緊張していて、おどけない感じのしゃべり口で言ってくる。直也は、目線を姫奈の合わせて「うん、いいよ」と、返事をした。
「あの、直也さ、何か抱え込んでない、?大丈夫?」
また会話に間が生まれた。それは時が止まった感じとは違った。確かに壁に掛けてある時計の音はチクタクと鳴っているままだった。
「え、何で?」
直也は、少し疑問そうに問う。
「直也、怪我してから浮かない顔すること多くなったなって思ってて。いや、もちろん怪我があったから、気持ちが上がらなくなるのは当たり前だけど、それでもやっぱり、心配で」
直也はどう反応して良いか分からなくなって、目が泳ぎ始める。姫奈はそんことお構い無しに、話しを続ける。
「それに、その手、あかぎれてる。あの時みたいだよ」
右ストレートを食らった気もするけど、すれすれで避けたみたいに、少し微笑んであまり刺さってないことにした。
「これは、まあ、この前転んで」
「嘘付かないで、ねえもしかして、また部活の皆になんか言われたりしたの、?」
「いやまさか、ていうかそれ、この学校の話じゃないし、ずいぶん前のことだよ」
「そうだけど、」
姫奈は心配になった様子でうつむき、ちょっと怒っているような、がなった声でそう言った。
「だって、最近直也よく手洗ったり、消毒したりしてるとこよく見る」
直也はどうしても耐えきれず、ビクッと反応してしまう。
「一年生のときもさ直也、このぐらいの時期に怪我してあんまり試合出れなくて、そのときもちょっと手荒れてたから。もちろん、そのときもすっごい心配だったんだけど、さすがに今回のはひどすぎるよ、もう傷だらけじゃん、」
「いや、まあ、そこまでじゃないと思うけど」
「ううん、心配だよ。だって、直也いつも水道で手洗ってるときとか消毒してるときとか、すごい怖い顔してる。なんか、悪魔にでも取り憑かれたみたいな顔」
「なにそれ、そんなことないよ、たまたま」
「ねえ」
姫奈は少し強くなったように、声を上げる。
そして、少し目を赤くしながら、眩しい眼差しで直也を見つめた。
「……本当に大丈夫、?無理してない?ちゃんと寝れてる?」
正直、姫奈の方が敏感になっているよう気もするが。
「……ごめん、言いすぎたかも」
顔をしかめる直也にボソッと言った姫奈は、まるで自身の失言を省みるような、悲しい表情をしていた。
「私、結構人の悩みとかは放っておけないタイプで」
続けるように姫奈が言う。
昔本人から聞いた話だが、姫奈もこの学校で過去に友達との揉め事をきっかけに、誰かが事実とは異なる偽りの情報を流したり、クラスメイトから誹謗中傷を受けたりなど、人間関係のトラブルがあったようだ。一重に言ってしまえば、"いじめ"とも呼べるだろう。
直也も、その噂も少しは耳にしたことがあった。しかし姫奈は浴びせられたバッシングの内容や事件の詳細は、想像よりも痛々しいものだから詳しくは言いたくないそう。
姫奈はこれらを"トラウマ"として記憶しているらしい。それも人間関係の。
だから姫奈と仲の良い人から以前聞いたのは、友達関係とか、親子関係の愚痴とか悩みの話題になると、姫奈は過剰に心配の言葉をかけると言っていた。不安にさせてしまうと悪いから、姫奈の前ではあまりそういう話題を出さないようにしているとか。
「ほんとごめんね、押し付けがましいよね」
そう言って曇った表情を見せる姫奈に、直也はすかさず声をかけた。
「俺は全然大丈夫だけど、姫奈こそ大丈夫?」
姫奈は強張っていた頬の肉がほどけたように微笑んだ。
「大丈夫なことは大丈夫だけど、私やっぱり人の悩みにはめっちゃ敏感に反応しちゃうんだよね。大丈夫かなって、ちゃんと寝れてるかなって。自分がそういう経験一回でもしちゃうと、中々抜けないもんなんだよね」
姫奈はその言葉の後に「直也だからこういうこと言うけどね!」と、強調するように言った。
直也が普段から誠実に、他人の虹色の思い出を、決してけなすことなく聞いてくれるからだろう。それに、人の話を聞いて感情は乗るものの、心が病むほど他人に興味はない。姫奈はそれを知っているからこそ、こういう話をしてくれる。
「話してもいいよ、そういうこと。ここ誰も居ないし、まだまだ練習終わんないでしょ」
姫奈は微笑しながら、「ありがとう」と優しくつぶやいた。どうやら、過去に受けた"いじめ"の中で、まだ話していなかったことを、ここで話してくれるらしい。
「実は、同じ時期にいじめられちゃってた子がもい一人居たの」
直也はすかさず相づちを打った。
「私の友達で、どちらかといえばその子のほうが、ひどいいじめられ方してた。物隠されたり、机の落書きされれるところまで」
姫奈は、過去を話すたびに、時折寂しそうな表情を見せるが、それでもたしかに微笑んではいた。
「その子ね、強い子だったの。ひどいこと言われてもすぐに言い返してたし、言い合ってるところだけ見たら、いじめよりかは喧嘩してるって感じだった」
直也は続くように相づちを打つ。
「でもやっぱり、複数人で嫌がらせされちゃったりしてたし、何よりも本人が一番傷ついてたから、やっぱりいじめだったよね。私にも色々相談してくれてね、いじめられっ子の仲間みたいな感じで、傷ついた心に寄り添ってくれた。だけどね、」
直也は少し、息を飲む。
「私とその子、いじめの標的が変わってから、今度はいじめる側の方になっちゃって」
「え?」
思わず声が漏れてしまった。
「ロッカーにあるものを勝手に机に移動させたり、声かけられても睨んで無視しちゃったり。まあ、私勇気がないからこれくらいしかできなかったんだけどね……これくらいってちょっと良くないけど。もちろん、すぐに辞めて、その子には正直に話して謝った」
「……そんな、なんで」
姫奈の表情は一瞬固まって、また静かに解けた。
「いじめられたくないから、自分を守るためにしてたの。少なからず加害者になれば被害者にはならないから。でも、私、そんな自分に失望しちゃって」
弱々しくなかった声が、姫奈の感情を伝えている。
「それなのにやめることができなかった。いじめられるのが恐かった」
直也は頷かずに、息を飲むのもやめた。
「そんなにトラウマになっちゃったのかなって。自分を守るために誰かを傷つけなきゃいけないって思っちゃうくらい、心が壊れちゃったのかなってずっと思ってた。逆にいじめる側になったら、今までいじめられてきた孤独感とか、寂しさとかをちょっとでも埋められるような気もしちゃって」
姫奈寂しそうに言った。
直也の鼓動は高鳴りは、すっかり治まっていた、
「それじゃあまるで肉食動物みたいじゃんね。自分を守るために誰かを襲うなんて、人間らしくないよ。だからそんな最悪なことをした自分が憎い」
姫奈は自分に刃物を向けているのに、それに慣れてしまっているようだった。それでも当然、刃先はとんでもなく恐いのだろうけれど。
「そっか、そうだったんだ」
直也は痛みに寄り添うように返答をする。
「今思えば、トラウマを紛らわす方法なんて他にもありそうなのに、その頃は私もこれしか思いつかなかった。やっぱ、いじめられて頭おかしくなっちゃたのかな」
姫奈は再び微笑んでいた。それくらい時間は過ぎている。
「やっぱり、いじめって、何かを埋めるためにみんなしちゃうのかな」
直也は姫奈の顔をまじまじと見て、お言葉を返す。
「さあ、どうだろうね。その人のことが本当に嫌いでいじめてる人も多そう」
姫奈は直也のその言葉に続けて、息混じりの小さい声でつぶやいた。
「そうであってほしいけど」
直也は、ゆっくり首を縦に振って、頷いた。
「大丈夫、大丈夫」
姫奈は微笑んで、ゆっくり頷き返してくれた。
「ありがとうね」
二人は一緒に頷いて、笑い合った。
「でもほんとに、心壊れたら私みたいにおかしくなっちゃうかもしれないから。壊れる前に、私でも、音穏くんでも、何かあったら絶対誰かに相談して」
直也は少し返事に迷った。一息飲んで、じっくり考える。
「……壊れる、か」
今出せる最大限の言葉は、否定的な言葉しか見当たらなかった。
直也の表情は薄っぺらくなる。それに気がついて、すぐに笑顔を取り戻して言った。
「大丈夫、大丈夫だから。俺壊れてないから、壊れないように気を付けるから、心配しないで」
姫奈はその言葉に頷いたが、少し神妙そうな顔をしている。
「あ、そろそろ練習終わるから俺らも行こ」
姫奈その表情のまま、先に行く直也の背中を眺めた。
今日もマネージャーの仕事で学校は終わった。
直也
夜になって家に帰った。直也は家の扉の取っ手を取り、腕を引いた。鍵がかかって、開かなかった。
いつも、母さんがいるときは自分が帰る時間になると、鍵を開けて置いてくれるから、家に誰もいないことが分かった。そういえば、朝、今日は夜までパートが入っているなんて言っていた気がする。
直也はバッグから家の鍵を取り出して、扉を開けた。中に入って、鍵を閉める。靴を脱いで、床に足を踏み込んだ。そして、棚の上に置いてある消毒液のキャップを、意味も持たないまま押して手を消毒した。
直也は洗面所と繋がっている引き戸の扉を、取っ手を使わず、扉の板に手を添えてスライドさせるように開いた。すると、とあることが頭に浮かんできた。
「玄関の扉、ちゃんと鍵を閉めたっけ」
そう思って、一応振り返って確認してみる。ちゃんと、鍵は閉まっていた。確認できたことに満足して、直也はさっき開けたままだった引き戸の先へ行こうとする。
しかし、余計な不安が邪魔をした。それは今、戸締まりがちゃんとできているかチェックして見た物が、本当に正しかったのどうか。もしかして、実際はちゃんと閉まってなかったんじゃないのか。そんな二重構造の不安を誰かがポンッと自分の頭に置いた。
「……閉まってたよね?」
直也はもう一度玄関の扉に前に立つ。この不安が気にくわないから、確信を持てるまで凝視してやる。
そんな思いで扉にガンを飛ばしたが、ちゃんと鍵は閉まっている、ように見えた。
それなのに、直也はそこで立ち尽くしたままだった。誰も笑わないでほしい。こっちは本当に真剣だから。
呆れるほど確認してもたしかに扉は閉まっているように見える。それが信じられなかった。今の自分が為すことすべてに、甘えることができなかった。否定しなきゃいけなかった。
直也は自分に疑いをかけるように恐る恐る、扉に近づく。そのままそこで、まるで試合の前と同じように深い呼吸をする。
少しずつ少しずつ、取っ手に右手を差しのべ始め、次第に伸ばし始める腕はブルブルと振動を開始する。静かに震える腕がうるさかった。
やがて、直也の右手は取っ手を捕らえることに成功した。右手に宿る冷たい確かな感触を、手のひらを擦り付けて、その真相を肌で確かめる。
直也の唇がとあごは打ち震えるように揺れている。呼吸が静かに荒れるのを、止める。準備が整った。
直也は震えのせいでエイムが定まらない心に見切りがついたように、タイミングを無視して取っ手をおもいっきり引っ張った。扉は開かないでいてくれた。
それをちゃんと見れて、直也はホッとするように息を大きく吐いた。そのまま右手をゆっくり離して、身体を後ろを起こした。一応鍵が閉まっている扉を最後まで見続けた。
ようやく心が落ち着いた気になって、ちゃんと家の中に入ろうと、身体を望み通りに動かし始めることができるようになった。
その前に、直也はまた消毒液に手を伸ばして、液体を手に取り出した。それをすり伸ばすように、手の端までまんべんなく広げる。
「痛ッ」
手のひらを見ると、アルコールで手がギシギシになって、水滴に触れるたびにほんの少し痛覚が働いていた。
証拠に、手のあかぎれはまた増えている。だけど、それを無視した。サッカーで怪我する方が、何十倍も痛いだろうと、比べる必要さえないものを比較して、勝手に固い理念を作ってしまった。だから、それをくつがえすような可能性をもつものを、認めることはできなかった。
直也は、傷ついた手を睨みつけるように眺めて、すぐに開けたままの引き戸を通過した。そして、今起こったことを取り消すかのように、バンッ、と音をたてて、引き戸を閉まった。直也は家の中のどこかで、特に何もせず、ダラダラと時間を使った。
七時過ぎ頃。夕飯を食べ終えて、母さんは台所に立って洗い物をしている。その間に直也はゆっくりご飯を食べ進める。父さんは今日、飲み会があるから、帰りが遅くなるそうだ。当然、家で晩御飯は食べない。
「ごちそうさまでした」
直也は箸を置いて、手をちゃんとすり合わせて言う。そして食器をまとめて、流しに入れた。
「洗い物、やろうか?」
「あ、いいの?ありがとう」
直也はスポンジを取って洗剤を付けて、泡を作った。するとすぐに、母さんが言ってきた。
「直也、手、どうしたの?なんか荒れちゃってるじゃん、あかぎれ?」
手を見つめながら、目を細めて言ってくる。
「あー、うん、ちょっと、」
「うちにハンドクリームまだあるから、お風呂出たら塗っときな」
「うん、ありがと」
すると母さんは、ハッ思い立ったように、間を作って目を開いた。
「直也もしかして、手洗いすぎなんじゃない?最近、ハンドソープとか消毒液の減りがすごくて」
直也はピタッと手を止める。何も言えなかった。
「そんなに、菌とか気になる?」
心配そうに見つめてくる母さんを横目に、冷や汗が出そうだった。
「……いや、そんなことないよ。ごめん、使う量気を付けるね」
母さんは納得のいっていないような顔をしつつも、しっかりと頷いて「後はお母さんやるから大丈夫だよ、先、お風呂入ってきな」と促してくれる。
「わかった、ありがとう。じゃあ、入ってくるね」
直也は迷わず脱衣所へ向かった。脱いだ洋服を洗濯かごにいれ、ドアを開けて浴室に入った。すぐにシャワーを出して、頭と身体を全体的に濡らす。そのまま、シャワーを浴びながら、髪の毛を手で洗ったりして、シャンプーをする準備をしていた。
しばらく湯洗いして、そろそろいいかなって思って、シャンプーを手に取り出しす。それを手のひらで伸ばして、頭のつけた。ここまではいつもと何も変わらない。
けれども、シャンプーを初めてほんの数秒、なぜかは分からないが、また不安が募ってきた。
直也は、一旦泡だらけの手を止める。そして、よく泡立ったけ手を見る。
「今の、シャンプー、だったよな?」
あれ、おかしいな。いつもだったら全く気にならないこと、今日はすごい気になる。
心配からなる、確認の癖。ずっと、気づきはしていた。
「シャンプーだったよね、別のやつじゃないよね?あれ、なんでこんなのこと、気になってるんだろ、」
なぜだか分からないことはないんだけど、分からないままにしておきたいから、こうやって心を改ざんしてしまう。じゃないと、とにかく気持ち悪い。
直也は止まったままの手と、髪の毛についた泡を一回、綺麗に洗い流した。そして、念のためと頭に言い聞かせて、もう一度、今度は自分でもハッキリ見て、シャンプーを取り出した。
それなのに、不安は消えてくれなかった。
「あれ、ほんとに合ってる?なんか、また違うやつやった気がする、」
そう思ってもう我慢できなくなって、手の開に出されたシャンプーの液体をまたお湯に流してしまった。
直也は、見切りのつかない不安にさすがに段々と焦ってきた。だからこそ、一度深呼吸をして、ちゃんと心を落ち着かせる努力をした。
「大丈夫だ、大丈夫、大丈夫」
そう言い聞かせて、もう一度チャレンジした。よく、自分の手元と、シャンプーの容器のキャップから、液体が流れ出してくるのを、よーく見た。
やっとの思い、今のがシャンプーだったことを確信できた。
「……さすがに、今のは」
ようやく風呂を終えることができた。
タオルで頭を吹きながら一旦リビングに行く。すると、母が声をかけてきた。
「あれ、随分遅かったね」
直也は核心をつかれたみたいにビックリして、きょどっとてしまう。時刻を見ると、時計の針は八時二十分を指している。
「……一時間ちょっとも、ああ、ごめん……」
母さんは何も言わず、返事もしなかった。ただ、心配そうな顔を向けられる。
「じゃあ、お母さんもお風呂入ってきちゃうね」
直也は、母が脱衣所へ向かってから、ダイニングテーブルに座った。ふと、自分の手を見る。あかぎれと、乾いて向けたような皮膚の乾が、ポロポロし始めている。
それをただじっと、おとなしく見つめていれれば良かった。
直也は思い立ったように呼吸を荒らしながら立ち上がり、台所へ無心で向かう。そして、ちょっとの間、蛇口に触れるか触れないかで躊躇する、弱々しくて痛々しい声が、誰もいないリビングに広がる。
ただただ、不安を流しさりたいだけだった。家族に迷惑がかからないうちに、こいつを殺したかったんだ。
直也は、時間の流れなんて頭から吹っ飛んだように、目の前のことに全力を注いだ。
「……直也?」
恐る恐る言ったような、か細い声が後ろから聞こえる。
直也はハッと驚いて振り返る。するとそこには、風呂上がりの姿をした母さんが、誰かに魂を抜かれたような顔でこちらを見てきた。
母さんはそのままゆっくりと近づいてくる。そして、真っ赤になった直也の手を、決して触れることはなく、唖然とした目で見続ける。親の前なのに息を殺すような感覚になった
次第に母さんは、力を入れたように一回微笑んで、話しかけてくる。
「ねえ直也、もしかしてなんだけどさ、やっぱり菌とか、気になるよね、?」
上手く頷けなかった。頷きたかった。
それでも母さんは笑っていてくれた。
「あのさ、今度お母さんと一緒に、クリニック行かない?心の相談とか乗ってくれるとこ。ほら、お母さんいいとこしってるから」
母さんはポケットから取り出した携帯を夢中になるように指で動かす。
「ほら、ここ。いつ空いてるかな、えっと」
「やめて」
直也は息混じりの声でせき止めた。
「……やめてよ、大丈夫だから、心配しないでよ」
見栄を張っただけの弱い声が、強く響く。
母さんは無理に微笑みながらも、真剣に目を見てくれた。
「……でも、すごっく良い先生らしいんだよ。きっと直也も気に入ってくれると」
「だから、そうじゃなくて」
感情はそのままこぼれ落ちる。
直也は流れるように、かといってなるべく感情を落とさないように気を付けて、言った。
「俺、壊れてなんかないから。普通だから。ちょっと落ち込んでるだけだから」
母さんは、何も言わなくなってしまった。
一気になんとも言えない空気が二人を襲う。
直也は、静かに息を吸って言葉を出した。
「ごめん」
耐えかねた直也は、返事なんて待たずに去っていった。
更に夜は更けた。直也は寝る支度を済ませ、沈むようにベッドへ入る。いつもなら気づかない間に眠りのつけるのに、今日はそれができなかった。直也の脳は嫌でも働き続ける。
本当は、自分の心に異変が起きていることに気づいていた。しかも、この異変は今回が始めてのものではなかった。
実は直也は、幼い頃から強い不安にかられたり自信を失くすような出来事が起こると、激しい自己嫌悪からか、いわゆる心配性と言われる症状が過度の領域にまで達してしまうことが多々あった。実際に、自分の部屋の戸締まりがちゃんとできているかを何回も確認したり、トイレに行ったときにいつも以上に手が汚い気がして何回も手洗いをしたりなど、精神が不安状態になるといつも気にならないことが気になってしまうようになってしまった記憶がいくつかある。
それらは、サッカーの試合で大きなミスをしてしまったときや、誰かにひどいことを言われてしまったときなど、自信が無くなって持っていたはずだった自己肯定感を失ったときに起こるものだった。
だから、何となく今回のもそういうことだと思った。ずっと自分の人生の中心だったものを失って突然空っぽになった心は、まだ現実には追い付けていないだろう。明日を生きる活力を失って、何にすがって生きていけばいいのか分からなくなった今、生きることに対して不安があるのは、至って必然のこと。
大丈夫、ちゃんと分かっている。何で今自分がこういう状況で、こんな不安を背負っているかなんて、誰に言われなくたって理解している。ずっとサッカ一色で埋まった心に慣れすぎて、ポカンと空洞ができたことに上手く対応できず、心と身体のバランスが保てないんだろう。重さがなくなって軽くなったがゆえに、重りがあったからこそ完成していた過去に気づいて、今度はそも頃の未練で上手く身動きが取れないんだろう。そうなんだろう?
全部、何もかも全て、分かっている。
それなのに、なぜ呼吸が上手くできない。
なんでこんなに息が浅い。
どうして、明日が恐い。
直也は、枕元に立つ不確かな不安に襲われた。
そんなに、空いた穴は大きいのだろうか。不安の根本を理解しているのに、それでもダメなのか。
上手く感情の整理が付かなかった。
けれど、その中で一つだけ、明確なものがあった。
それは、できれば明日が来ないでほしいということ。
直也は、今日を先延ばしするように深い呼吸を続けて、日付をまたいだらようやく眠りにつけた。
できれば、明日も、明後日も、飛ばして行きたい。
そう願って、今日を終えた。