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高校三年 夏休み

高校三年 夏休み前日 

音穏 

 そして月日はあっという間に流れて、夏休み前前日まできた。

 

「いやーもう、夏休みか、早すぎるな。まあ、今年の夏は勉強勉強だな。うわーやだー」

 

 りょうたが元気よく愚痴を言う。

 

 ここ最近直也から、「迎えに来てくれるの申し訳ないから、いいよ。松葉杖結構慣れたし」と言われたため、今日もいつも通り教室で直也が来るのを待っていた。

 

 すると、すぐに直也は教室の後ろからやってきた。そこに松葉杖は無かった。一つ後ろの席に座る直也に、音穏は振り返って声をかける。

 

「直也、おはよ」 

「おはよ」

 

 するとりょうたが元気よく声を発した。

 

「あれ!直也、松葉杖無くてもいけるようになったのか!」と、満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに言う。

 

「うん、リハビリのお陰でだいぶ歩けるようにはなってきたから、試しに。まだまだ歩きにくいけどね。これでも、めっちゃ回復早い方なんだぜ」

 

 直也は音穏とりょうたに、リハビリの成果の喜びを分け与えるように言う。

 

「直也、リハビリ頑張ってるもんね」

 

 音穏がそれを包むように褒める。

 

「うん、ありがと。あ、ごめん昨日、また電話できなくなっちゃって」

 

「あ、ううん、大丈夫。大丈夫だった?」

 

 直也は一瞬、たしかに目が泳ぐ。

 

「うん、大丈夫。ちょっと、忙しくて」

 

 この頃、直也は電話に出てくれないことが多い。

 

「そっか」

 

 深くうなずいた直也に対して、音穏は軽くうなずいて促した。

 

 ふと、直也の手を見る。その手はやはり傷ついている。

 

 ここ最近、直也の手が荒れてしまっていることや、電話に出てくれないことが気がかりだったが、あえて触れなかった。あまり直也の様子に対して心残りになる言葉をかけてはいけないと思っていたから。特に直也は繊細だし。

 

 だけど、今日はそれはできなかった。このまま長い夏に入る前に、という口実をつけて、そのまま言葉に出してしまった。

 

「ねえ直也、手、大丈夫?」

 

 すると直也は、ビクッ、としたように言葉に反応し、すぐにそれを笑ってごまかした。

 

「あ、うん、大丈夫。ちょっと、えっと、引っ掻いちゃって」

 

 直也は、分かりやすく動揺した。そしてすぐに、両手を机の下に忍ばせた。だけど、これ以上詰めるのはさすがによくないと思って、そっとしておいた。

 

「そっか、お大事にね」 

「うん、ありがとう」

 

 直也は目を泳がせたまま言った。

 

 音穏は後ろを振り返るのをやめて、前に身体を起こし視線を黒板に戻した。

 

 やっぱり、何かおかしいと思った。異変が、分かりやすすぎる。だけど、とりあえずまだ心の内に閉まっておこう。

 

 直也は、核心をつかれたように、動揺している。後ろにいるだけでも、殺気だっているその気配が、感じられる。まるで、自分の本心を圧し殺しているようだった。

 

 そんなことを悟りながら、音穏は今日を過ごした。

 

 終業式の日は、必ず午前中で終わる短縮日課で、全部活動オフだ。だから、音穏は、直也を誘った。

 

 帰りのホームルーム前。

 

「ねえ直也、今日部活ないでしょ。この後暇?」

 

「え、うん、暇だけど」

 

「じゃあさ、二人でうどん食べ行こうよ。ほら、駅前の。帰り道の途中だから、いいでしょ!」

 

「あーいいよ。行こ行こ。お昼、どっかで済ませようと思ってたから」

 

「よし、決まりね」

 

 放課後、音穏と直也は、二人で駅前のうどん屋に向かった。お店の前に着く。

 

「ここ、あきのりに教えてもらってからよく行ってるんだよね。俺の勝負飯だからね」

 

「たしかに、音穏、うどん好きってよく言ってるよね」

 

「そうそう、大会前とか、大事なことがあるときは、絶対ここ来てる。それくらい好き。さ、入ろ」

 

 音穏は手動の扉を開けて、それを後ろから直也がおさまえる。築を重ねた、木の香りが鼻に広がる。

 

 直也は入り口のところに置いてあった、アルコール消毒液をプッシュして、しっかりと手に伸ばしていた。

 

 このお店は発券機制だから、まず最初に発券機で注文する。

 

「俺決まってる。これー」

「じゃあ、俺も」

 

 音穏がもう一つの店内に繋がる扉も開けると、中はカウンターも、畳も、昼休憩のサラリーマンで賑わっていた。

 

「いっらっしゃいませー!」若い、女性の店員さんの声が店内に響く。「二名様で、こちらどうぞ!」


 予想通り店内は混んでいたため、案内されたのはカウンター席だった。

 

「お、いいねカウンター席。俺、カウンター好きなんだよね」

 

 音穏が慣れた口調で言う。

 

「そうなの?あ、でも、分かるかも。畳もいいけど、対面だとちょっと圧迫感あるからね。横顔で話せるカウンターの方が、ちょっと気楽かも」

 

「そう、それ、まさにそれ」

 

 音穏は水を持ちながら、店内を見渡して言う。

 

 しばらくすると、うどんがやってきた。シンプルな、きつねうどん。

 

「うわーうまそ!いただきます!」

 

 二人はそろって、湯気の出るアツアツのうどんを、ずるずるっと音を立てて、口にかけこむ。

 

「うわ、これこれ、やばー染みる」

「あ、うま」

「でしょ!ほんとおいしいよねー」

 

 音穏と直也は、しばしば、ワンパターンの会話を続けながら、目の前にあるうどんに集中した。

 

 そして、音穏は、少しずつ、話を踏み込んでいった。

 

「直也、最近どう?調子は」

「うん、まあ、ボチボチかなぁ」

 

 直也は一回箸を止めて、下を向いて息を吐く。

 

「早く、サッカーしたいよ」

 

 苦笑いで言ったような声で直也は言って、それをカモフラージュするかのように、麺をズルズルっと、音を立ててすすった。

 

「まあ、もう諦めはついたよ。どう頑張ったって、高校のサッカーは間に合わないし、進路も、サッカーじゃいけないし。だから、もう未練はないよ」

 

 直也は自分を褒めるような、はにかんだ笑顔で言った。

 

「そっか、そうだね」

 

 音穏は曖昧な返事を返して、また、うどんをすすり始めた。二人ともお腹が空いていて、あっという間にうどんが終わってしまった。

「あーおいしかった。ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 

 すると、音穏が、グッと力を込めたように、固い表情をして言葉を出した。

 

「ねえ、直也」

「ん?」

「何か抱えてるもの、ない?」

 

 唐突にそんなことを言われて直也は、止まった。そしてすぐに、笑った。

 

「いや、特には」

「ほんとに?」

 

 直也は少し考えるように、目線を下にそらした。

 

 少し間、時間が止まる。

 

「なんか、自分だとあんま分かんなくて。ていうか、サッカーしかやってなかったから、あんま、自分のこと知らなくて。何て言っていいか、分かんないかな」


 直也はその言葉の後に「あ、でも、大丈夫だからね。ほんとに」と付け加えて、笑った。


「うん、わかった。だけど、」

 

 音穏は、直也の瞳をしっかりと見つめて伝えた。

 

「無理はしないでね」

 

 直也は、少し微笑んで返してくれた。

 

「うん、ありがと」

「じゃあ、行こっか」

 

 二人は、店の外へ出て、駅の改札へ向かった。

 

「おいしかったねうどん」

 

「うん、おいしかった」

 

「ねえ直也さ、夏休みのどっかで直也のお家いっていい?怪我、まだ治ってないから、会うなら部屋とかの方がいいかなーって」

 

 会話に少し間ができる。

 

「あ、うん。いいよ」

 

 音穏は笑顔でコクンと頷いた。

 

「じゃ、俺こっちだから、またね」

「うん、今日ありがとね、またね」

 

 二人は、改札前で別れた。音穏が先に行った。直也は、それを眺めるように見送った。


高校三年 夏休み 

音穏

 音穏はショッピングモールの服屋に立ち寄っていた。上下デニム生地のセットアップを着こなすマネキンを音穏は眺める。

 

「んー、さすがに派手すぎか?」

 

 別に、直也に見せたいがために服を買おうか迷っているわけじゃない。たまたま夏服が少なかっただけだし。まあちょっとは、せっかくだからっていうのもあるんだけれども。

 

 音穏はわりかし長い時間悩んで、結局店員さんを呼んだ。 

 

 夏休みの下旬、部活がオフの日。

 

 二人ともも一日空いているということなので、直也の家で遊ぶことにした。

 

 久しぶりに純粋に遊べるから、すごくワクワクしている。ただ、だけど、その。手のこととかまだちゃんと直也から聞けてないから、もしできることならば、直也を支えるためにも何か知りたい。

 

 前の手を真剣に洗っていた行動と手の状態がなんとなく想像で結び付いてしまって、気掛かりだから。

 

 いや、やっぱり、心配という言葉に言い換えておこうか。

  

 音穏は新着のデニムのセットアップを頑張って着こなし、片方の手に紙袋を持って、直也の家の前に到着した。インターフォンを押して、チャイムが鳴る。家の扉が開かれると、直也が待っていた。

 

「お、直也!久しぶり」

「久しぶり、いらっしゃい」

 

 直也は音穏を家中に案内した。

 

 するとすぐに、直也のお母さんも出てきた。

 

「音穏くん、いらっしゃい」

「どうも、お邪魔します」

 

 音穏は手にもっていた紙袋を手渡す。

 

「これ、クッキーです、よかったら」

 

「わ、そんな良いのに、ありがとうね。あ、音穏くんのお母さんにも、よろしく言っておいてね。じゃ、ゆっくりしてって、お母さん買い物行ってるから」

 

「はい!ありがとうございます」

 

 直也と音穏は、靴を脱いで、家に上がった。

 

「あ、消毒」直也は、独り言のように声をもらして、玄関の棚に置いてあるアルコール消毒液の容器のキャップを押した。

 

「あ、うん」それを見た音穏も、同じように消毒する。

 

 そのとき、消毒液の下の絨毯と棚の隙間のフローリングが、白く濁っていることに気がついた。一瞬、何かの考えが頭をよぎったが、今日を純粋に楽しみたい気持ちが勝って、スルーした。

 

 直也と音穏は階段を登って、直也の部屋のある二階に向かった。扉を開く。

 

「わ、久しぶりだ、おじゃましまーす。お、ちゃんと綺麗にしてるじゃん」

 

 音穏は楽しそうに笑顔を浮かべて言う。

 

「まあね、音穏が来るから、綺麗にした」

「別に良いのにー」

 

 音穏は、微笑んで返した。

 

「外、暑かったでしょ。てか、その服めっちゃかっこいいじゃん。新しいの?」

 

「そう!これ昨日思い切って買ったんだ。良いっしょ」

「え何。俺のため?かわいいとこあんじゃーん」

「いや違うから!」

 

 直也は優しく微笑み返す。

 

「あ、飲み物持ってくるよ、麦茶しかないんだけど良い?」

 

「うん、ありがとー」

 

「ちょっとまってて。あ、どっか座っといていいよ」

「はーい」

 

 音穏は直也のベッドに腰かけた。

 

 直也が下に行っている間に、音穏はなんとなく、部屋を眺めた。木の雰囲気が強い、とても落ち着く部屋。

 

 直也の家には、何回か来たことがある。なんか、あの頃よりも、本棚の本が増えた気がする。

 

「星の下で」「猫の転生」「恋した死神」

 

 様々なジャンル本が、本棚に収納されている。

 

「へぇー。ちゃんと小説読んでるんだ」

 

 その本棚の上に、ボロボロのロボットのおもちゃがあった。右腕がちぎれて取れている。おそらく小さい頃に直也が遊んでいたおもちゃの一つだろう。今も捨てずにとっておいてあるということは、相当お気に入りだったんだろうか。

 

 そういえば直也って、小さい頃どんな子だったんだろうか。子ども心くすぐるあのロボットのおもちゃを見ていたら、そんなこと当たり前に考えてしまう。

 

 直也の幼少期なんて本人から聞いたこともないし考えたこともない。けれど、間違いなく優しい子だったんだろうな。まあロボットの右腕が外れるくらいだから、少し破天荒な一面もあったんだろう。お遊びはやんちゃだけど、根がすごい優しくて、繊細で泣き虫。みたいな子じゃないと今の直也は育たないだろう。後で直也に訊いて確かめてみようか。

 

 そんな直也の思い出たちを眺めていたら、おぼんに麦茶の入ったコップを二つ乗せて、直也が帰ってきた。

 

「お待たせー」

「あ、ありがとね」

 

 直也はベッドの前に置いてある、小さなテーブルに、麦茶ろさっき上げたクッキーを乗せたおぼんを置く。

 

 直也も、音穏の隣に座る。

 

「だいぶ、歩けるようになってきたんだね」

「うん、結構よくなってきた。ま、リハビリ頑張ってるからね」

「よかった、ちょっと安心した」

 

 直也は微笑んで、どこかを見た。

 

「まだまだリハビリ頑張らないとな」

「応援してる」

「え、ありがと」

 

 音穏と直也は二人で微笑み合いながら、恥ずかしくて、所々目を反らしながら会話を続けた。

 

「いやーにしても、外は暑いね。ほんとに参っちゃうよ、熱中症になっちゃう」

 

 音穏は麦茶片手に言う。

 

「ほんとだよな、毎年毎年、暑くなってる気がする」

 

「うんうん、そうだよね、運動部とか、絶対キツいだろうな」

 

「夏はもう地獄だよ。普通に熱中症警戒アラート出てもやるからね、パワハラも良いとこだよ」

 

「え、鬼畜じゃん。やばすぎ!」

 

 今日はなんだか久しぶりに、直接会って、話す内容に力を入れずにしゃべることができた気がする。もうすぐ夏休み終わっちゃうね、とか。最近ハマってるアーティストとか、直也のお気に入り小説とか、彼女ができたら観たい映画とか、とにかくたくさん話すことができた。

  

 しばらくすると、音穏は床に座ってゲームに熱中し、直也はベッドで横になっていた。何も言葉を交わさないこの時間も、直也と居るから全然寂しくないし、むしろこれはこれで大好きだ。居るだけでいい、とはまさにこのことだろう。

 

 音穏はゲームに一区切りがついたタイミングで、直也にあのことを問いかけてみた。

 

「ねえ直也、直也ってさ小さい頃どんな子だったの?」 

「えー、小さい頃?」

 

 直也は寝っ転がりながら、恥ずかしさを堪えるようなしゃべりで言ってくる。

 

「どんな子か、」

 

 直也はいつも、たとえどうでも良いよな質問だったとしても、こうやって真面目に答えてくれる。

 

「んー、難しいな。でも、親はよく泣き虫だったって言うよ、自分ではあんまし覚えてないけど」

 

 やっぱりそうだろうと思った。じゃないと今の直也は絶対にないだろうって最初から予想はついていたから、そこまで驚きはしなかった。

 

 質問をしたら直也はゆっくりと起き上がってきてくれた。 

「やっぱそうなんだ」

「やっぱりってどゆこと?」

「予想付いてたからねっ」

「なんでだよ!」

 

 直也は照れて笑ったように返した。

 

「でもまあ、昔は本当に弱虫兼泣き虫だったな」

 

 直也は斜め上を仰いで、昔の景色を写し出すように天井を見る。

 

「弱虫と泣き虫ってイコールじゃないの?」

「まあ、たしかに」

 

 直也は吹き出すように笑いながら言った。直也のそうううところが好きだ。

 

「よく親に怒られたときとか、友達と喧嘩したときとか、すーぐ泣いてたよ」

 

「喧嘩したときもなくの?喧嘩した後に?」

 

「いや、喧嘩しながら」

 

「ええ?」

 

 音穏はうっかり声が裏返った。

 

「な、なんで?喧嘩しながらだよ、泣きながら怒ってるってこと?」

 

「あ、そうそう」

 

 直也は当たり前のように返す。

 

「喧嘩とか本当は昔から嫌だったんだよね、なんか悲しいじゃん、さっきまであんなに仲良くしてたのに急に仲良くできなくなっちゃうなんて」

 

「うん、まあ、そうだね」

 

「それが悲しくて嫌だっただけど、喧嘩しないはしないで寂しかったし、まあ幼かったからさ、自分の気持ちぶわーって言いたかったんじゃない?」

 

 音穏は「そっか」というかたわらで、頭の中で一瞬、直也にもそういう時期があったんだ、と感心する。だから音穏はあいずちが小刻みになって、言葉を噛みしめているような感じになってしまった。

 

「じゃあ、素直な子だったんだね」

「そうだね、結構素直だったと思うよ」

 

 音穏は流れで言っちゃえ、と試しにある言葉を出してみた。

 

「今は?」

「え?」

 

 直也はほんのちょっぴりだけビックリして、一瞬で笑顔になる。

 

「だからー、今は素直?」

 

 さあ直也はどう答えるだろう。できることなら素直って言ってほしいけれど。

 

「んー、難しいね。あのときみたいに、何も知らないわけじゃないからね」

 

 直也は解答に迷ったときは、いつも答えを曖昧にして言う。AとBの二択でどっちが良いか聞いて、迷っていたらCって答えるし、答えなかったとしても両方を褒めるだろう。直也はそういう人だ。

 

「えーでも、素直なつもりだけどね。でも、中々それだけじゃいられなくなるよね」

 

 結局素直ではあるんだろう。けれども直也の言い方だと、素直でいたいけれど、素直な気持ちを抑えていないといけない、っていう言葉にしか聞こえない。

 

 やっぱりちょっと心配になった。だけど音穏はそれを言わなかった。

 

「そっかそうだよね、素直だけじゃ中々難しいからね」

「それでいったら、音穏素直じゃん」

 

 急にこっちの話にそれたからちょっとビックリした。ちょっと油断しすぎただろうか。

 

「え、まあ、素直かな?」

 

「素直だよー、俺から見ればだけどね、音穏、嫌なことは誰にでも嫌って言えそう」

 

「たしかに、んー嫌っていうか、やめてほしいこととかだったら|躊躇なく言えるよ」

 

「まじで!すご、いいね!」

 

 音穏は微笑みながら、少し下を噛んで言った。

 

「体質体質!」

 

 ふと、机に置いてあっ小さな時計を見る。時刻は五時を回っている。

 

 そろそろ時間だ。だけど、音穏は中々言葉を出せずにいた。

 

 すぐそばにある直也の荒れた手のこと、まだちゃんと訊けていない。後で訊けたらいいなくらいに思ってたら、気づいたらこんなにも先延ばしししまっていた。まあ、二人の会話が楽しすぎたせいなんだけど。

 

 音穏は少しの間、何から声をかければいいのかじっくり考えた。自分が知っている最大限の言葉を頭の中に並べて、一番適しているものを選びたい。まさに脳内はカルタ状態だった。

 

 これまでの直也の苦しい出来事を経た状況的に、今の直也の心は特に繊細だろう。だからお手つきなんてしたら一回休みどころか、直也との間にかなりの距離ができてしまう気ような気がする。

 

 だから、前みたいに突き付けるような言い方ではなく、慎重に、なるべく奥手に、訊き出したい。

 

 それになのに、言葉が上手く出てこない。慎重に、一生懸命考えているのに、一番良い言葉がまだ見つからない。ヤバい、こうしているうちにどんどん沈黙が続いて、時間が過ぎて。

 

 血迷った音穏から抜け出したように出てきたのは「あ、もうこんな時間か、じゃ、そろそろだな」という、あっさりとした言葉。これしか、言えなかった。

 

 音穏は前のテーブルに置いていた携帯を掴んでポケットに入れ、スッと立ち上がった。すると直也も真似したように立ち上がって「そうだね、あ、駅まで送ってくよ」と言う。

 

「いいよいいよ玄関までで。怪我治りかけなんでしょ?今日はゆっくり休んでて」

 

 直也は微笑んで、頷く。だけど、音穏は同じように笑うことができなかった。なんだろう、この嫌な胸騒ぎは。何も聞けないまま、また離ればなれになってしまうのか。

 

 そんな思いを抱く隙に、あっという間階段を下りて、玄関にたどり着いてしまった。

 

 訊かなきゃ、何か言わなきゃ、そんな言葉たちが音穏の感情を急かした。しかし、返ってきた言葉は、くだらなかった。

 

「もうすぐ二学期始まるから、次会うときは始業式かな、なんだか早いね」

 

「うん、あっという間だね」

 

 直也は一口息を飲んで、頷いた。

 

「それじゃあそろそろ」

 

 何も触れられなかった。嫌な心を残したまま、直也は言葉を発した。

 

「またね」

 

直也

 音穏を玄関まで見送った。

 

 今日は色々な話ができて、本当に嬉しかった。音穏のハマってる音楽とか、アニメとかの話もしてくれたし、一緒にゲームができたのがめちゃくちゃ嬉しかった。音穏がゲーム強すぎて、結局自分は途中で投げ出したけれど。

 

 こうやって、何も考えずに、友達と話せるのが、結構ってレベルで久しぶりな気がして、とっても嬉しい。

 

 直也は、満足そうに二階の自分の部屋に戻った。

 

 とりあえず勉強机の前に置いてある、椅子に腰かける。なんとなく、携帯を取り出して、暇潰しでもしようとした。

 

 すると直也は突然、何かを悟ったように、さっきまで二人で座っていたベッドの方を、体を思いっきりひねって振り返った。

 

 なぜだか、分からないけれど、ゾッと強い寒気を感じる。二人の温もりが、まだそこにあるみたいに見える。それをただ、まじまじと見つめ続ける。

 

 段々と、呼吸が、不定数になってくる。なぜだろう。

 直也は、少しずつ少しずつ。今、自分が何を思っているのか、何でこんなに焦っているのか。その理由を身体の震えから感じ取っていった。

 

 けれどそれは、そう簡単に理解できるようなものではなかった。だから、感情を脳で文字起こすることが、まだできない。

 

 直也は、誰も居なくなった部屋で、不確かな感情と静かに戦っていた。息が少しずつ遠のいていく。

 

 そして、呼吸を整えないままで、何かを振り切ったように急いで階段を駆け下りた。階段下のすぐそばにある、掃除用具が収納されている棚を、ガッと開く。そこから、抗菌スプレーをガシッと掴んで、懸命に腕を引いた。一回だけ、そのスプレーの容器を眺める。

 

 すると、そのタイミングで玄関の扉が開いた。長いこと買い物をしていた母さんが、ようやく帰ってきた。

 

「ただいまー、あれ、直也、どうしたの?」

 

 直也は焦って、ぎこちない苦笑いをして、この場を乗りきろうとする。

 

「……あ、ああ、ちょっと、綺麗にしたくて」

 

 母さんは不思議そうな顔のまま頷く。

 

「ふーん、そっか、じゃあお母さん、ご飯作るね」

「……うん、ありがと」

 

 そして母さんが台所までいったら、止めていた息を荒く吐いて、階段を急いで駆け上がっていった。部屋に入るとまもなく、直也は二人が座っていたベッドの、半歩手前で立ち止まった。

 

 そこで、空気をたんまり吸う。呼吸するときに、うっかり声が漏れる。こんな身体のまま、まるでピストルの引きがねを引くかのように、そこらめがけてスプレーを噴射させた。質感の悪い呼吸が、しばらく続いた。

 

 まるでここは、サスペンスドラマで、誰かを殺めてしまった犯人の犯行現場のような空気感。直也はそれくらい深刻に、真剣に、何かと向き合っていた。

 

 やっと、呼吸が整ってきた。直也は少しホッとなったように、勉強机の椅子に座る。当たり前だが、天井を仰いだ。

 

 そしてすぐに、今、やってしまったことに対して見つめ直すように、身体を背もたれに預けた。一瞬にして、邪悪な罪悪感と、何かを失った虚しさが一気におそいかかってきた。瞬く間に心が締め付けられる感覚が走る。

 

 直也は襲いかかる苦しみに耐えきれず、委ねていた身体を倒し、額を机ですり減らして頭の周りを腕で覆った。鼓動と呼吸が急かすように早まる。

 

 今度は、わりかし分厚い息を吐いていく。そしてそのまま、ゆっくりと左手の拳を握りつぶしていく。一瞬、このまま、ドカンッと机にぶつけてやろうかと思った。けれどもそれはさすがに筋が通らないから、この考えは頭を通り過ぎて行った。

 

 直也はまるでからぶったような左拳を握ったまま机に擦り付けて、悔しさをやけつけにぶつけた。摩擦で皮膚がすれていく音だけが聞こえる。

 

 なんだか、何て言えば良いのだろうか。敗北よりも、惨敗よりも、もっと深い負けを感じているような気がする。

 

 それは、自分の理性が、親友を裏切ってしまった罪悪感だった。瞬時に感じた不安と恐怖に怯えて、友情を差し置いて自分の心に従ってしまった。迷う時間も少なく、身勝手に行動してしまった。今さっき自分でやったことなのに、そんなことを後悔してしまっている。

 

 直也はそのままの体勢で、やるせない気持ちを拳に宿す。それなのに痛くなかった。心の方がよっぽど痛いから、痛覚も麻痺したんだろう。なんて、変なことも考えてしまった。

 

 そして、しばらく心を削って、少しずつ気持ちが落ち着いていくのがわかった。今度は流すように呼吸をして、息を整えた。

 

 ゆっくりと時間をかけて、直也は起き上がった。そして、起き上がった頭を感触のない手で塞いだ。

 

 まだ、自分がやった行動に、確信がもてなかった。

 



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