長くて暑い夏の1日 その1
「今日も暑くなりそうだねぇ...」
受付から見える外の景色は、まだ朝だというのにアスファルトの照り返しのせいか少しぼやけて見え、これから日中にかけてかなりの気温の上昇を予感させた。
道路には車が溢れている。世間は休日なので、みんなどこかに出かけるのだろうね。
「きっと、今日は暇だよ」
外から聞こえるセミの大合唱を聞きながら、横の舞ちゃんにそう言った。
午前の診察が始まり、患者さんがぽつりぽつりとやってくる。
フィラリアの予防薬。
ワクチン接種。
ノミの予防。
病気の子はあまりない。
みんな『暑いねぇ』と、いいながらやってくる。
時折鳴る電話は、『お盆やってますか?』の問い合わせ。
そんな中、胸腔内腫瘍のMixの飼い主さんから電話があった。
「食欲もなくなり、かなりつらそうなので、家族で相談したんですが...」
2、3日前から、状態が芳しくないっていうのは聞いていた。
もうこれ以上は、その子も、そして家族もつらいだろうね。
「わかりました。伺った方がいいですか?」
「いえ、病院につれて行きます」
夜の診察が終わった後に、ということで約束をした。
いよいよか...。
いつかはこの日がくるって思っていたけど、よくがんばったねぇ。
そして、午前の診察が終わった。
「棺の箱、用意してくるから」
昼食の後、舞ちゃんに留守番をまかせて外出。
外に出ると、朝にはうるさかったセミの声も聞こえない。
これだけ暑いとセミも鳴かないのかな?
用を済ませて戻ろうとしたところで、携帯が鳴った。
舞ちゃんから。
「山田さんちのフレンチ、破水したけど生まれないそうです」
そうか、そろそろ出産の日だったね。
「すぐ戻るから、病院に来て待っててもらって」
慌てて汗をたらしながら病院に戻る。
破水したフレンチブルは、落ち着かない様子でパンティングをしている。
緑色のおりものが出てる。
グローブをはめ、指にイソジンクリームを塗る。
膣より触診。
頚管は開いてるけど、反射なし。
指先が、少しだけ赤ちゃんに触れる。
お腹に疼痛があるかな? 痛い?
エコーをあてる。
一番頚管に近い子。
プローブを動かす。
他の子たち...。
「子宮の出口のいる子の心臓がはっきりしないですね。ひょっとしたら...。他の子も心臓の動きが弱いようですし...」
やるしかないね。
帝王切開。
飼い主さんの希望で、同時にSpay(避妊手術)もすることとなった。
診察時間内じゃないから、すぐに手術を始められる。
短頭種なので、一気に導入して挿管。
巨大なお腹にドレープをかける。すっごいなぁ。
ホチキスでドレープを固定。
そんな時、電話が鳴る。
「出なくていいですか?」
舞ちゃんが聞く。
「朝、ワクチンうった子とかいるから、一応出て」
「あ、ホチキスなくなった。次の出して」
舞ちゃんは電話に出ながら、ホチキスをくれる。
手術中だって説明してるのになかなか切れない電話。だれ?
「電気メスちょうだい」
まだ電話終わらない?
「メス落として。手術始められないよ」
舞ちゃんは電話をほっぽってメスをくれた。
よし、開始。
お腹は大きく開いたつもりだったけど、子宮が巨大すぎて出ない。お臍の上まで切開を広げる。
舞ちゃんが電話を置いて戻ってきた。
「だれ?」
「松原さんの桃ちゃんです。時間、間違えて病院に来ちゃったって」
うへ! なにこれ。もう少しで子宮が破裂しそうじゃない。
薄くなった子宮壁から赤ちゃんが透けて見える。無理するとまずいね。
腹壁に伝って手を入れ、背中側から子宮を押し出してみる。
増加した腹水が溢れ出て、ドレープを伝って床に落ちる。
しっかし...、確か松原さんのご主人は医療従事者だったんじゃないかな? こーいうことって、分かってもらえないのかな?
よし出た。
子宮を尾側に引っくり返して子宮体部にメスをあてる。
そのまま指を入れて切開部を広げながら胎児を探る。
すぐに1匹。
左の子宮からもう1匹。
次に右の子宮から1匹。
次々に舞ちゃんに渡す。
その度に羊水が流れ出し、びちゃびちゃと床に落ちる音がする。
ああ、また床は大変なことになってるね。
「手が空いたとこで、手袋出しといて」
でも、きっと手が空く時間なんてないだろう...。
それでも出して!
右、もう1匹。
あと一ついる。
卵巣近くなので、なかなか切開部分まで送り出せないぞ。
子宮取っちゃうから縫うこと考えなくてもいいか。切開部に手を突っ込む。
「はい、最後だよ」
赤ちゃんを取り出しても子宮が収縮していかない。なので、出血が止まらない。
ドタバタするよりも子宮を取った方が早いよね。
血液で溢れる子宮の穴にガーゼを突っ込み、手袋を換えてすぐに卵巣の血管の結紮にかかる。
子宮が伸びてるから通常のSpayよりもやり易い。
右。
左。
結紮の時、子宮を動かす度に子宮からは血液が溢れ、ドレープを伝って床に落ちる。
最後、頚管結紮。切除。
さあ、あとはお腹を閉じるだけ。
「どお?」
舞ちゃんに声をかける。
「1匹、だめかも...」
エコーで心拍が分からなかった子だね。
「無理だったらその子はもういいから、助かりそうな子を助けて」
連続縫合で一気に白線を閉じてゆく。
時間短縮のため、皮膚はホチキスで。
手術が終わる頃、仔イヌの鳴き声が聞こえ出した。
2匹は大丈夫そう。
あとの2匹はまだ心拍が弱く血色も良くない。
「1匹ちょうだい」
羊水でびしょびしょになった術衣を脱ぎ捨てると、母イヌの覚醒までの間、蘇生を手伝う。
時折、酸素を嗅がせながらマッサージを繰り返す。
しばらくしたら鳴き声が出てきた。
あと1匹...。
母イヌ覚醒。
ぎりぎりまで待って抜管。
それにしても、手術室は冷房入っているっていうのに暑いねぇ...。
時計を見ると3時半だった。
最後の1匹はまだぐったりしたまま。
「舞ちゃん、その子代わるから病院開けて」
もう、午後の診察の準備をしなきゃいけない時間。
受け取った仔イヌは全く力が入らずくたくたの様子。
心臓の拍動もあるのかないのか...。
時々ある胸の動きは、チェーンストークス?
だめかな...。
肺がうまく膨らんでないのかなぁ。
挿管してみる? でも、こんな小さな子にできる?
胸に指を当てる。
動いてないような...。
無理かもしれないけど、最後に。
仔イヌの口を閉じ、鼻にわたしの口をあてる。
そんなキスは、ちょっと塩辛い鼻水の味...。
そしてゆっくりと息を入れる。
肺胞をやぶらないように、そっと、そっと。
何度かそれを繰り返す。
するとそのうちに、心臓の動きが触るようになってきた。
さらに繰り返す。
肺を膨らますイメージで、優しく。
徐々に血色が良くなってきた。呼吸もしっかりしてきたぞ。
こねこね体を動かしてみる。
きゅー、きゅー。
鳴き声が出始めた。
いいかも...。
こんな方法もありなんだ。
夜の診察時間が始まると、すぐに患者さんがやってきた。
手術中に電話してきた松原さん。
スクラブのまま診察する。
ちょっと休ませて...って思いながらも、なぜだかこーいう時って診察が続くよね。
慢性腎不全の子の補液を温めながらぼーっとしてたら、待合室の患者さんに見られたかも...。
やべー。気をつけなきゃ。
途中、夜に約束した飼い主さんから電話があった。
ご主人の仕事の都合で9時半頃になるらしい。
最後の時間をゆっくりと過ごしてからいらして下さいと伝える。
診察が途切れたところで、仔イヌにミルクを与える。
みんな元気そう。
時計を見たら、7時過ぎだった。
ああ、もう休憩しよう...、そう思って何気なく手術室を通ると、まだ器具が洗ってなかった...。ふえ~。
せっせと洗う...。
すると、帝王切開の子の飼い主さんがやってきた。
母イヌはケージの中でもう十分騒いでいるので退院となった。
ちゃんと赤ちゃんの面倒を見てくれるといいけどね。仔イヌにおっぱい吸わせてもほとんど無関心だったけど...。
そして、やっと午後の診察が終わった。
疲れた...。
でも、まだ大きな仕事が残ってる...。
病院の後片付けをしていたら、電話が鳴った。
まだ、留守電にしてなかったよ...。
仕方なく電話に出ると、帝王切開した子の飼い主さんからだった。
「母イヌが仔イヌを噛んじゃったんですけど...」
あーあ、なんてこと...。
「すぐに来てください」
そう言って電話を切ると、わたしはひとつ大きなため息をついた。