うめちゃん その2
診察台の上で横たわるうめちゃん。
エコーで見ると、心臓の全周に渡って心嚢内に血液が溜まるようになってきた。
心臓の表面は明らかに不整となり、腫瘍の増殖の進行が容易に想像出来る。
もう、何度心嚢穿刺しただろう...。
おそらく、わたしレベルの獣医なら、すでに一生分以上行ったことになるんじゃないかな、なんて思うくらいだ。
貧血が進んできている。抜くのも、そろそろ限界かも。
でも、血液を抜いて心臓の圧迫をなくしてあげると、見違えるように元気になる。
血管肉腫であることは間違いないだろう。
飼い主さんは抗癌剤などの治療は希望せず、対症療法を望んだ。
だから、続ける...。
何度か前から、22Gの留置針を刺しただけでは、血液が完全に抜けなくなってきてた。溜まっている奥のところまで留置針の外套が短くて届かないのだ。
なので、長目の14Gの留置針を使い、それをガイドにカテーテルを入れ、心嚢の奥に進めて抜くようにしていた。
ミニチュアダックスに14Gは見るからに太いから、局麻使ってても痛そうだね。
心嚢に送り込んだカテーテルに20ccのディスポをつないで、血液を抜き取る。
1回、2回、3回、...。
とれる量はすぐに100ccを超えた。
その後抜けなくなったので、エコーで確認。
まだ少し残っている。
カテーテルをやや戻して、位置を変える。
するとまた抜け出した。
「今回は、結構抜けるね」
すでにトータルで200ccほどになっていた。
最初の頃に比べると、3倍近くになる。
それにしても抜け過ぎ。
不安がよぎる。
「リアルタイムで出血してるかも、これ以上抜くとまずいぞ」
わたしは一旦抜くのを止め、カテーテルから注射器を外した。
その直後、急にうめちゃんの力が抜け、保定していたAHTの舞ちゃんの腕から頭が垂れ下がった。
「あ、呼吸止まったかも」
舞ちゃんが言う。
まずい!
すぐにうめちゃんの胸に手を当てる。
心臓も止まってる。
口からだらりと出た舌は真っ白だ。
いつかこんな時が来ると思っていたけど...。
慌てて胸に刺さっているカテーテルを抜く。
カテーテルの中に残っていた血液がうめちゃん の顔に飛び散った。
すぐに胸を3回ほど圧迫。
「挿管する。口開けて!」
わたしは万が一のために用意してあった挿管セットのトレーから喉頭鏡を取り、さらに気管チューブを手に持った。
「もっと、口こっち向けて!」
奥が見えない。焦る。
喉頭鏡を入れ直し、舌を押さえる。
「よし入った」
そのままチューブをくわえて息を吹き込む。
「チューブ持ってて」
すぐに心臓圧迫。
1、2、3...。
5回ほど圧迫して、再びチューブに息を吹き込む。
その間に、舞ちゃんがチューブを包帯で固定し、酸素につなぐ。
舞ちゃんがバッグを押して人工呼吸を始めた。
わたしは心マッサージに集中する。
1、2、3...。
1、2、3...。
力の抜けたうめちゃんの体。
粘膜は、生きているとは思えない色。
そんな体に蘇生を続ける。
でも、もうだめだね。
きっともう助からない。
よくがんばったよ。
ほんとに...。
診察室を出て行った時のおとうさんの顔が浮かんだ。
『また、迎えにくるからな』
朝、うめちゃんを預けて行くとき、おとうさんはそう言って帰って行った。
どこで、やめよう...。
わたしが心臓の圧迫を止めれば、その瞬間に死が決まる。
わたしはうめちゃんの胸に当てた手をどけた。
これで動かなければ...。
舞ちゃんも人工呼吸の手を休めた。
気力が抜けてゆく...。
その時、うめちゃんの胸が動いたような気がした。
「呼吸戻りました」
舞ちゃんが言う。
まさか、戻ってくるなんて...。
呼吸が始まったってことは、心臓も動きだしたってこと。
聴診器を当てる。
今にもまた止まりそうな弱々しく途切れ途切れの拍動。
「モニターつないで」
わたしは舞ちゃんにそう言うと、起動していたエコーのプローブをうめちゃんの胸に当てた。
「何? この心臓」
うめちゃんの心臓は、通常の半分くらいに細く縮み、胸の中でもがき苦しんでるように見えた。
「心臓内に血液がない。虚血してるんだ。循環量が足らない」
このままでは、せっかく動き出した心臓もやがて止まってしまう。
輸液しなきゃ。
点滴全開。
チューブのクランプをフルオープンにした。
だめだ、自然落下じゃ間に合わない。
わたしは輸液のバッグを加圧バッグに挟んだ。そして、一気に加圧する。
圧が高まるにつれ、しずくで落ちていた液が線状となり、皮下補液のようなスピードで途切れることなく流れ出した。
体につながれたモニターがとぎれとぎれの心臓の波形を映し出す。
間に合うか?!
しかし、やがて波形の出るスピードが遅くなり始めた。
どんどん徐脈になって行く。
アトロピン使う?!
でも、こんな弱った心臓にさらに負担かけちゃわないかな...。
迷っている間にも徐脈は進む。
このままじゃ、止まっちゃう...。
使わなきゃ...。
わたしはアトロピンのアンプルを折り注射器に吸うと、腕のプラグに割り込ませ一気に押し込んだ。
自発呼吸はあるものの、舌の色は真っ白。
「こんなでもSPO2(酸素飽和度)は正常なんて、ちゃんと計ってるんでしょうか?」
舞ちゃんが不思議そうに言った。
瞳孔はやや散大ぎみで固定。
ほんのわずかに眼瞼反射があるのが救いか...。
そうこうしているうちにアトロピンの効果が出始め、脈が増えてきた。
エコーのプローブを胸に当ててみる。
「ああ、血液が戻ってきてる」
心臓が拍動に合わせて膨らみ、内腔が大きくなってきているのが分かった。
でも、股動脈はまだ触れない。
まだまだだ。もっと入れなきゃ...。
それにしても...、
循環が回復したと言っても、流れているのはリンゲルで薄まったしゃびしゃびの血液。
こんな状態じゃ、やっぱり無理だ...。
よくて脳死。
もう、ここまでか...。
がんばったもんね、今まで、こんなにも。
何度も痛かったよね。
それでも、うめちゃんの心臓は鼓動を止めることなく、肺は精一杯酸素を吸い続けた。
「股動脈が触れるようになってきた」
「心拍も安定してきましたね」
眼瞼に触れる。
「反射も強くなってきてる」
回復してきてるの?
わたしは輸液バッグの圧を抜いて、全開の自然落下にまかせた。
「そうだ、おとうさんに電話しなきゃ」
そう舞ちゃんに言うと、わたしはその場を離れた。
電話から戻っても、うめちゃんの状態は変わりなかった。
「うめちゃん!」
耳元で呼んでみる。
反応はない。
足先を少しつねって反射を確かめる。
わずかに、引っ込めた。
それでも、少しずつ状態は良くなってきているのだろうか...。
せめて、家族のみんなが来るまで、この状態を保ってくれると良いけど。
わたしは点滴の速度を少し緩めた。
しばらくして、うめちゃんのまぶたがゆっくりと動いた。
そして、急に頭が動く。
「戻ってきた! 抜管!」
わたしはうめちゃんの口の動きに合わせて、一気に気管チューブを抜いた。
ふらつきながらも頭を起こすうめちゃん。
精一杯胸を膨らませて呼吸している。
苦しそうだ。
それでも、戻ってきた...。
「マスクで、酸素流してあげて」
よく戻って来れたね...。
そうだ。
やっぱり、うめちゃん。きみは絶対に守られてるよ。
そうでなきゃ...。
それは、確信に代わった。
そう、おかあさんが守ってなきゃ、こんな状態から戻ってこれるはずがない。
しばらくして、うめちゃんの家族がやってきた。
みんなの顔を見て、うめちゃんは酸素のマスクを払いのけ、近寄ろうと体を起こした。
でもすぐに力尽きて倒れ込んだ。
さらに呼吸が激しくなる。
おとうさんの目には涙が見えた。
娘さんはうめちゃんの体にそっと触れた。
「もう一回、うちに帰れないかなぁ...。ごはん食べてくれないかなぁ...」
息子さんがうめちゃんの頭をなでながらそう言った。
もう一回...、そして。
2つの課題。
可能性はあるかな?
まだ、がんばれるかな?
そうだね...、
うめちゃん、守ってもらってるから、もしかしたら...。
「効果が出るかどうか分からないですし、出ても一時的なものですけど、輸血してみますか?」
もう、これしかないものね。
その場で、ちょっとした家族会議。
そして、おとうさんが言った。
「輸血、お願いします」
「はぐちゃん、鎮静かけるから連れてきて」
ラブラドールのはぐみちゃんは、こんな時に血液をくれる頼もしい供血犬だ。
舞ちゃんにそう言うと、わたしは注射の用意を始めた。
アセプロとベトルファール、これでうまく効いてくれると良いけど。
動くようなら、そのまま麻酔をかける。
注射後、採血の準備。
200cc採ろう。
採血の準備が終わる頃、はぐみちゃんの鎮静の効果が出てきた。
手術台にのせて、舞ちゃんが保定する。
このまま出来そうかな。
「いくよ」
18Gの留置針を腕に刺し、すぐに輸血用バッグにつながった翼状針をプラグに固定する。
ゆっくりと血液がチューブの中を伝ってきた。
バッグを手術台の下に置いてある秤の上に置いた。
しばらくするとバッグの中にも血液が入ってきた。
ゆっくりとバッグを揺らし、時々血液を撹拌する。
10分ほどして、秤のメモリが200を超えた。
「もう少し...」
なんとか予定量が確保出来そうだった。
やっぱり大型犬は良いね。
ネコだと頚静脈を使っても、なかなか思った量が採れなかったりするものね。
「よし、これでいいや」
翼状針を抜くとそのまま持ち上げ、チューブに残っている血液をバッグに流し込んだ。
チューブに血液が残っていないことを確認すると、バッグ近くでチューブを結んだ。
次に、バッグに輸血セットをつなぎ、いよいようめちゃんの腕へ。
はぐみちゃんの血液が、ゆっくりとうめちゃんの体に入ってゆく。
「ちょっとおバカさんだけど、元気な子の血液だから...」
舞ちゃんが、深い呼吸を繰り返すうめちゃんに向かってそう言った。
それから2時間ほどして、輸血は無事に終了した。
ちょうどその頃、心配したうめちゃんのおとうさんから電話があった。
状態を説明する。
何かあったら、夜中でも連絡してください...とのことだった。
「今晩は眠れないか...」
輸血の終わったうめちゃんの腕のプラグにソルラクトのチューブをつなぎながら、わたしはそんなことを考えた。
夜、何度か入院室にうめちゃんの様子を見に行き、そして朝を迎えた。
うめちゃんの呼吸は決して楽そうではない。
けど、表情は昨日より良さそう。
聴診する。
心臓の音はしっかりしてる。
股動脈もしっかり触れる。
入院室にエコーを運んできて、うめちゃんの胸にプローブを当ててみた。
「ああ、なんだか、心臓の表面がぼろぼろ...」
何時、心臓の壁が避けてもおかしくないように思えた。
しばらくして、おとうさんから電話があった。
今朝の状態を説明する。
こんなうめちゃんを連れて帰っていいものか、迷っているようだった。
「今のこのチャンスを逃すと、もう帰れないかも...」
わたしは、思い切ってそう伝えた。
少しあって、うめちゃんの退院が決まった。
おとうさんと息子さんが迎えにやってきた。
診察台の上で、うめちゃんは立ち上がり、しっぽを振った。
そして、息子さんに抱かれ、今まで何度もそうしてきたように、自分の家へ帰って行った。
これで、ひとつクリアだ。
その夜、おとうさんから電話が入った。
「缶のフードを食べました」
おとうさんの声はうれしそうだった。
ああ、ふたつ目もクリア出来た...。
よかった...。
そして、それから2日後。
うめちゃんは、大好きだったおかあさんに逢いに行った...。