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序章

 原稿用紙に万年筆を走らせる。

 六畳半の無音の世界に国産の14金ペン独特のサリサリという筆記音が波立つ。


 小説家ではない。小説家志望。

 あと今は昭和ではなく令和だ。

 パソコンではなく手書きで、しかも万年筆を使っているのはその趣のあるデザインと書き心地に惹かれて使い始めて、今では自分の手に馴染んでもはや切っても切れない体の一部といっても過言ではないからだ。


 走らせて、走らせて、走らせ……て、止まる。これじゃないなと原稿用紙をクシャクシャと丸めて紙の海と化している床に投げ捨てる。

 ペン先が乾くと固まって使えなくなるので蓋を締める。大切に扱う。大切な相棒。


 それは祖父が買ってくれたもの。夢のために家に居づらくなって出て行こうと決意したときに身内で唯一その夢を応援してくれていた祖父が餞別として買ってくれたもの。

 だからデビュー作は誰よりも先に祖父に読んでもらいたいと思っていた。だけど間に合わなかった。祖父は7年前に老衰で亡くなった。病床でよく「はやく櫂の本を読みたい」と漏らしていたらしい。


 ……思わずため息がこぼれる。


 この万年筆を手にして20年。自分ももう40歳になる。

 うまく書けないでいる。というか最初からうまく書けていなかったのではないのか、なんて……その才能は微塵もなかった。だから今だ新人賞の一次選考すら通ったことがないのかな。


 真っ白なキレイな紙の世界を黒いインクで汚しただけなのか。


 諦めの色が滲んでくる。歳を重ねるとそれだけその思いが色濃くなって表れる。

 もうひとつあった幸せな日常が心中に去来して溢れる。


 執筆なんて孤独な作業。寂しさや人恋しさが忍び寄っくる。その甘い香りに誘われるかのように、これまで三人の女性と交際してきた。

 バイトと、その行き帰りの道すがら。気分転換にいく書店や図書館、カフェなどと出会いの場はある。

 好きになって告白して付き合うことが出来たとしても、自分から告白して自分から別れを告げる結果となる。いつもそうだった。

 無意識に恋愛と夢を天秤にかけている自分がいる。二つのことを同時に出来ない不器用な自分。どちらかが疎かになってしまう。

 極彩色に満ちた毎日。その日々に水を差すように次第に右手が疼いてくる。書きたいと。ペンを欲して声を上げてくる。色彩が薄まっていき、想いが滲む。そして「ごめん」の言葉がこぼれる。


 その繰り返しだった。だからもう恋するのはやめた。相手のためにも。自分のためにも。

 そういえばそんな私小説的なものを書いたこともあったな。ダメだったけれど。うん。全部ダメ。ダメなんだよ。俺は、


 ……と、いきなり高らかに腹の虫が鳴る。夕飯時か。今何時だ?

 スマホを開く。時間を見るより日付に目が留まる。

 あ、そっか。今日は前に送った新人賞の結果が載る文藝誌の発売日だったな。


 スマホと取り替えるように万年筆を手に取って内ポケットに挿す。いつも携帯するのはスマホではなく相棒だ。


 外を歩けば秋風が肌を刺してくる。ついでに温かい肉まんでも買おうとコンビニに入る。

 雑誌が並ぶ本棚。目当ての文藝誌を開いていく。

 その頁を開いて凝視、、


 ほとんど分かってはいたけど、現実を目の当たりにすると体中を引き裂かれるような思いに苛まれる。

 無残にもそこに「一ノ瀬 櫂」の文字はなかった。

 腹が空いていたことなんて忘れてコンビニを後にする。


 雑踏する街路。ふと幼子を連れて歩く夫婦に目が留まる。幸せそうに笑みを交わす家族。その夫の方に自分を重ね合わせる。

 もうひとつあった俺の未来。まだ手遅れではないか、

 色なき風が体中を巡っていく。それを振り払うように足が速まる。


 ――気づけば、車道の真上に架かる陸橋を渡っていた。

 行き交う車両が放つ光がまるで川面のきらめきのように見える。


 万年筆を取り出して、見つめる。そして意を決する。

 下の車道へ投げ捨てようとその手を振り上げる。けれど、振り上げたまま手が止まる。いや。振りかぶれない。どうしても。まだ書いていたい……


 鼻をかすめていく甘い香りが思いを紛らわせる。金木犀? とそちらに目をやる。

 そこに一人の女学生が欄干に体を預けて景色を眺めている。

 いつからそこにいた? 気づかなかった。高校生かな。


 彼女の目が潤んで一筋の涙が落ちる。


 どうした? 家か学校で何かあったのかな。虐めとか家庭内暴力とか……ああ、そうだ。文字の、言葉の力でそういった人たちを掬うことを俺はしたかった。けど俺の言葉の力なんて……えっ!?

 

 女学生が欄干の上へ登ろうと足を宙に浮かせる。

 まさか、自殺。「いや、待って」と声に出したいけど、出すとそれに反応して彼女は、と思って出せない。とりあえず彼女のもとへ歩が進む。

 彼女は登り切って欄干の上に立つ。が、蹌踉めく。

 俺の足が駆け出す。

 彼女が俺に気づく。やばいと焦る俺。

 彼女が向こう側へ倒れかかっていく。俺は左手を差し伸ばして、彼女の腕を掴んだ。

 「よし、間に合った」と、思い切りにこちら側へ引っ張る。けれど来ない。

 ダメか……と思って俺は「引っ張れ!」と叫ぶ。彼女は掴まれていない方の手で俺の腕を掴む。


 ああ、そうだよな。やっぱり死にたくないよな……


 彼女は力一杯に俺の体を引っ張る。すると彼女の上体がこちらへ向かってくる。よし、やった。と思ったら、俺の体が引き寄せられていって、勢いそのまま俺と彼女が欄干の上で交差していく……え?


 陸橋の上に倒れ込む彼女と目が合って、俺は欄干を越えて下の車道へ落ちていく。


 あっけなく落ちて。地面に叩きつけられた俺の体から真っ赤な血液が広がっていく。「痛い」っていう程の並のものじゃない。死が目の前に立っている痛み。その痛みに泣き叫びたいのに声も出ないし感覚も痛みしかない。


 俺の手から離れた相棒が血の海に浸かっている。


 けたたましくなる急ブレーキ音と幾重にも続く車両の衝突音。


 間に合わなかったのか、一台の車が俺の大切な右手と万年筆を轢いていく。


 完全に潰れた手とペン。

 もう書けないのか。もう終わりか、


 そして俺の命の鼓動は止まった。 

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