赤と黒を基調とした廊下の幾何学的性質 Part3
「『パラドックス・スラッグス』って一体何だ?」
僕は詰め寄る様にして、"それ"に尋ねた。
"それ"は、待てと言うように、絵筆を上に挙げた。僕は再び口を開こうとしたが、その絵を見て、言葉を失った。
絵の中で、モゾモゾと白い大きな塊がうねり始めた。いや、その塊は厳密には白ではなく、様々な色で構成されている。おそらくこの部屋の影響もあるのだろう。だが、その物体が何色だと聞かれれば、人は白と答えるに違いない。その塊は次第に絵の外へと出てきた。そしてその体をくねらせながら、"それ"の持つパレットの上へと移動した。その塊の尾がキャンパスから出る時に、体液の様なものが撥ねて僕の論文に虹色のシミを作った。体が全て出切ると、その塊は動きを止めた。その塊が描かれていた場所には、カオスと形容したくなる様な、ありとあらゆる色のうねりが残っていた。
「これが『パラドックス・スラッグス』だよ」
"それ"は静かにそう言った。
その塊は、ナメクジと言うには余りにも不自然な存在だった。大きさは僕の前腕部くらいはある。そして、その塊を見続けていると、時々、記憶が途切れる様な不思議な感覚に陥る。
「君は以前これを見た。そうだね?」
"それ"は諭すように僕に言った。
「僕が見たのは、ほんの人差し指程度の大きさのナメクジだ。そんな訳の分からない物体じゃない」
僕は語気を強めて否定した。
"それ"は、塊がパレットから落ちない様に慎重になりながら、再び僕の方に向き直った。
「いや、君は、これを、見たんだ」
"それ"は言葉を区切りながらハッキリと言った。まるで僕に反論の余地は残されていないと言わんばかりに。僕はその意見を受け入れる事は出来なかったが、埒が明かないので無視して話を進めることにした。
「その『パラドックス・スラッグス』とやらは何をするんだ?そもそも、それは生き物なのか?」
"それ"はやれやれという表情を顔に浮かべ、そして言った。
「これが何なのかを言葉で君に説明する事は難しい。第一、君は自分の論文の内容さえ理解できていないんだろう?」
絵筆で、僕が握り締めている論文を指し示しながら、"それ"は言った。
「そして、これは生きている」
断固とした口調で"それ"は言った。そして、少し間を開けてから続けた。
「君に知っていて欲しい事は、これが君に迫って来ている、って事だ」
僕は"それ"が何を言っているのか全く理解出来なかった。
「いいかい、これだけは覚えておくんだ。"追い付かれたら終わり"それがルールだ」
"それ"はそう言ってしまうと、少しディテールがぼやけて見えた。僕は目を擦ってからもう一度見てみる。しかし、その印象は変わらない。
いや、"それ"だけじゃない、部屋の風景まで霞んできた。
「あ、あと一つ、伝える事があった。次の誘いには絶対YESだ」
思い出したように、そして、意気揚々と"それ"は言ったが、その言葉の輪郭が僕には上手く掴めない。僕の意識もぼやけてきた。音が僕から離れていく。
静寂。
目を開けると、僕は研究室の自身のパソコンの前でうつ伏せになっていた。顔の下には、印刷して、赤ペンで乱雑にチェックがなされた論文があった。その論文は僕の汗で少し湿っていた。
マウスを動かす。スクリーンが点灯し、デスクトップ画面を表示した。僕は端に表示された時刻を見る。19:08。
どうやらかなりの時間、居眠りしてしまっていたみたいだ。この部屋に戻ってきた記憶は無いが、あれは夢だったのだろうか?
僕は後ろの席の山田に尋ねた。
「お前、先生の所から、完全に意気消沈して帰って来てたよ。よっぽどキツく言われたんだな」
彼は同情する様に答えた。
なるほど、あれはどうやらただの夢だったらしい。
スマートフォンが小刻みに揺れた。画面を付けると、メッセージが一件届いていた。アプリを開くと、それは千里からだった。
[今日の夜会えるかな?]
そこにあったのはその一文だけであったが、今の僕の気持ちに晴れ間が差した。
すぐに返事を返す。
[問題ないよ!]
僕は小さくガッツポーズをした。
「次の誘いには絶対YESだ」
何処かから声が聞こえた気がした。
論文の隅には虹色のシミが残っていた。




