赤と黒を基調とした廊下の幾何学的性質 Part1
何かノッてます。
その日僕は大学の研究室で卒業論文を書いていた。題目は『ユークリッド幾何学における多次元体の解析的考察』だ。正直な所、自分でも何を書いているのかはよく分かっていない。配属されたゼミの教授が与えたテーマを言われるがまま取り組んでいる。卒業さえ出来ればどうだっていい。
「よお、井口。先週のデートどうだったよ?」
僕の肩に腕を掛けながら、山田がおちょくる様に僕に話しかけて来た。彼は僕と同期だが、一浪して大学に入学してきたため、歳は僕より一つ上だ。
「ああ、楽しかったよ」
僕は作り笑いに努めてそう返した。
「はは〜ん、なるほどな。上手くいかなかったわけだ」
山田が僕の心を見透かしたかの様に得意気に言う。
「そうじゃないんだ」
そうじゃない。僕は自分自身にも言い聞かせる。
「まあ、俺としてはお前たちの関係が良い方向へ向かう事を応援してるよ」
山田は僕の肩から腕を放し、そう言った。相変わらず呑気な奴だ。まあ悪い奴ではないから、好意として受け取っておこう。
僕はパソコンに映る時間を見た。13:48。教授に14時から、現時点までで出来ている原稿をチェックしてもらう約束がある。そろそろか、僕は原稿をプリンターで印刷する操作をした。プリンターが指示を受け取り、ゆっくりと重い腰を上げる。彼は仕事が早い。シュッシュと音を立てながら、30ページ近くある論文を印刷していく。僕はパソコンの画面をロックし、のそのそとした足取りでプリンターの方へ向かう。
教授とは30分近く話した。ダメ出しと、やる気はあるのかという事ばかりを言われた。かなり疲れた。教授の個室は、僕らの普段作業する研究室とは別の階にあり、いつもエレベーターを使って移動する。僕はエレベーターの下方向のボタンを押した。7、6、5とエレベーターが階を降りてくるのをボーッと待っていた。頭上の4のランプが光り、エレベーターの扉が開いた。僕は重い足取りで乗り込み、壁に背中をもたれかけ、1階のボタンを押そうとした。そこで僕はいつもと違うものに気付いた。1のボタンの横にPと書かれたボタンがある。この建物には駐車場なんて無かったよな。僕は自身の記憶を探った。そういえば、先週までこのエレベーターは修理の為に使えなかったのを思い出した。どうやらエレベーター本体の欠陥が見付かったらしく、取り換えを行っていたのだ。その時に間違えて余計なボタンの付いた個体にしてしまったのだろう。僕は自分の中で納得した。
そして、僕はPのボタンを押すとどうなるのか興味が湧いてきた。いつもなら僕はそんな余計な事に足を突っ込まないが、さっき教授に説教を食らったあとだったので、半ばやけくそになっていた。気付いたらPのボタンを押していた。
扉が閉まり、頭上のランプが4、3と降っていくのが見える。やはり表示は1まででPという表記はない。そして、1のランプが点灯し、僕はもたれていた壁から背中を剥がし、片手で論文を抱えながら扉の前に立った。しかし、扉は開かない。もう一度頭上を見ると、1のランプは点灯したままだ。おかしい。そう感じた僕は、1のボタンを押してみた。全く反応がない。そして僕は扉の開くボタンを何度も押した。だが、扉は一向にその口を開けようとしない。
唐突にチーンというチャイムがなり、扉が開いた。僕はホッと胸を撫でおろし、エレベーターから降りようとした時に異変に気がついた。エレベーターの外は、赤と黒を基調とした真っ直ぐな廊下だった。カーペットは赤色、壁と天井、左右に並ぶ扉は黒色、そして奥の扉だけが赤色でそこから微かに光が漏れている。
僕は踏み出した足を引っ込め、確認するようにエレベーターの表示ランプを見上げた。階数を示すランプは全て消えていた。そして、ボタンに目を向けると、そのどれもが湖畔に浮かぶ魚の死体のようにパネルに貼り付いていた。
僕は勇気を振り絞り、エレベーターから外に出た。足音はカーペットにその現実味と共に吸収された。
「進んできなよ」
奥の部屋から声が聞こえたような気がした。




